第二章 魂を鬻ぐ者Ⅲ
世界平和の実現――ガイウスの口から放たれたその言葉に、シオンたち三人は呆然として固まった。
「結論から言う。俺は今の大陸の社会体制をすべてリセットするために、人類の大多数を魂だけの存在にするつもりだ。だが同時に、肉体を保持したまま活かす人類も選定する」
しかし、ガイウスは構わず続け、さらに三人を困惑させる。
間隙の沈黙のあと、徐に口を開いたのはシオンだった。
「社会体制をリセット……?」
「聖王が始めた今の世の中の仕組み、お前たちも到底いいものだとは思っていないだろ?」
さも当然であるかのようにガイウスは同意を求めてきた。
それに対し、イグナーツは睨みを返す。
「貴方は何が気に食わないので?」
「すべて」
ガイウスは即答したが、まるで回答になっていないことにイグナーツは顔を顰めた。
イグナーツが抗議しようと体を少し前に出したが、
「ちゃんと正確に答えろよ」
それよりも先にシオンが刺した。静かな怒りを孕んだ声色で、静かに言い放った。
「アンタは、人間と亜人、二つの人種が産む軋轢、そこから生じる歪な仕組みが赦せないんだろ。混血だったマリアを苦しめた仕組みそのものが」
ガイウスは、弟子の分析を聞いて、満足したかのように穏やかな息を吐いた。
「そういうことだ。それに、もういい加減、くだらない世界の乱痴気騒ぎにうんざりしている。お前たち三人が何よりも痛感しているはずだ」
そう言って、三人を順々に見遣る。
「聖王が亜人を造り出し、その亜人が人間を支配し、しかし人間が騎士の力を以て亜人に逆襲し、教会が組織され、大陸が管理されることになった――今の世の中で起きるほとんどの面倒な問題は、約二千年前に起きたこれら一連の聖王の不始末が、今なお続いていることが原因だ。それらを綺麗さっぱり、白紙に戻す」
そういうことですか、とイグナーツが小さく言った。
「そして、白紙になった世界で、残された人類の導き手になるのがステラ女王陛下、というわけですね。何故、陛下をそんな重要な役どころに? 不敬ではありますが、彼女はまだ幼い。人類の導き手など、到底その責を全うできるとは思えませんが?」
「なら、どこぞの政治慣れした政治家にでも任せてみるか? 数年と経たず、私欲と利権に目が眩んだ腐った世界がまた出来上がるぞ。ならいっそ、厳しい現実を知りつつ、それでいてなお純粋無垢な心を失っていない子供に望みを託した方がいい。シオン、お前が陛下を信じたようにな」
そう言ったガイウスの視線を受け、シオンは眉間に深い皺を残した。
「ステラを新たな聖王にして、千年以上続く次の信仰対象にでもするつもりか?」
「そうなるかもしれないな。むしろ、なってくれれば本望だ。苦労した甲斐がある」
イグナーツが、露骨に嫌悪の感情を込めて短い息を吐いた。
「壮大な計画ですが、間抜けとしか言いようがありませんね。仮に白紙になった世界でステラ女王陛下が正しく人類を導いたとして、そのあとの千年後、二千年後が今よりもマシな世の中になっているとは思えません。それに、いつかまた貴方と同じようなことを何者かがやったとして、それはただ人類史が停滞しているだけに過ぎない。歴史は繰り返すといいますが、それに甘んじて身を委ねるのはただの思考停止だ。愚か者の理論ですよ」
対するガイウスは、いたって平然と、無機質な面持ちでいる。
「もとより人類が賢い生き物と思っていない。繰り返すならそれでいい。いつかそのうち、マシな世の中が訪れるまでな」
「もはや破滅願望ですね、ガイウス。無責任もここまで甚だしいと笑えてきます。それに、貴方自身はどうするつもりですか? 白紙になった世界で陛下を新たな人類の指導者にするというのなら、貴方の役割は?」
「陛下に任せる」
またもやシオンたち三人は、ぽかんとした。
次にガイウスは、ステラに視線を移す。
「人類を滅亡寸前にまで追いやった大罪人として裁くのもよし、新たな世界を導くために礎として馬車馬の如く働かせてもよし――いずれにせよ、陛下が望む形で俺の命を有効に使って責任を取らせるといい」
急に話を振られたステラは驚いていたが、すぐに呆れと怒りに表情を変えた。
「勝手なことを言わないでください。イグナーツさんが言ったように、あまりにも無責任です。やりたいことだけやって、後は好きにしろだなんて……」
ステラの指摘を受け、ガイウスは肩を竦めた。
「無責任にもなる。生きる価値もないクズで溢れたこの世界を長いこと見続けていたらな。そのことは、君が一番よく理解できるのでは、ステラ女王陛下? シオンと出会い、国を取り戻すまでの間、どれだけの悲劇を目の当たりにしてきた? はっきり言っておくが、あれらが少数派ではない。あれらがこの世界の普通だ」
「だからって、貴方の一存で無関係な大勢のヒトの命を奪うなんて、ただのエゴです。誰にだって、生きる権利は産まれた瞬間に与えられているはずでしょう。それを生きる価値がないだなんて一方的に決めつけるのはおかしいです」
「誰にでも生きる権利があるからこそ誰かに価値が決められる。そもそも価値は相場が決めるものであって、自分が決めるものではないからな」
ガイウスの言い分に、ステラはなおも噛みついた。
「でも――」
「極端な例で言おうか。死にかけの極悪人と産まれたばかりの赤子、どちらかを選ぶことでどちらかが生き永らえ、どちらかが死ぬとなった時、君はどちらを選ぶ? 極悪人がどれだけ自分が価値ある人間かを喚き散らかし、命乞いをしたところで、赤子を選ぶだろう。それが命の価値というものだ」
「話を逸らさないでください! 第一、他人の命を選ぶ権利なんて……」
「君はもう、“その他人の命を選ぶ権利を持つ立場”だと思うが? 一国の王だろう?」
ステラが言い淀んだタイミングで、ガイウスが彼女の脳裏に浮かんだであろう言葉を突き付けた。ステラは、喉に針を通されたかのように押し黙ってしまう。
「それに、話を逸らしたつもりもない。俺が言いたいのは、そういう“命を選ぶことのできる立場と力”を手にしたのが、このガイウス・ヴァレンタインだったという話だ。愛と平和を謳うために教皇になったわけではない、愛と平和を実現するために、俺は教皇になった」
ここでイグナーツが、堪忍袋の緒が切れたように、長い溜息を吐いた。
「これから世界規模で命を弄ぼうとしている男が滑稽なことを言いますね。シオンのストッパーのためにここに座ったつもりですが、私の方が先に我慢の限界を迎えそうです。いい加減に腹が立ちますよ」
「滑稽なことを言っているのはお前だ、イグナーツ。騎士団の任務とはいえ、お前も散々、自分の意思で多くの命を刈り取ってきただろう。命を鬻ぐ覚悟もなしに副総長をやっているのか?」
「駄目ですね、これ以上は冷静に話ができそうにありません」
イグナーツは、話にならないと、大袈裟に首を横に振った。
それを見たガイウスは目を伏せる。
「であれば、お前たちとの話はここまでだ。今日はお互いに剣を抜かないことも条件に含めていたからな」
その言葉を受け、イグナーツは荒っぽく席を立った。らしくなく、露骨に苛立ちの感情を見せつけていた。
「シオン、行きましょう。もう話せば話すほどに不快になるだけです」
しかし、シオンはまだ席に着いたままだった。じっとガイウスを睨みつけ、静かではあったが、明確に殺意を滲ませていた。
「最後に訊かせてくれ。俺はこれを訊くために、アンタと話したかった」
ガイウスが目を開ける。
「アンタが、マリアではなく、騎士としての立場と責任を優先した理由は?」
「お前と同じだ。愛する者の遺言――それに従うことにした」
「遺言の内容は?」
それからほんの少しの沈黙のあと、ガイウスは重たい口を開いた。
「“自分たちが夢見た世界を実現してほしい。貴方ならそれができる”――それがマリアの遺言だ」
「アンタがやろうとしていることは、それを正しく実行できているのか?」
シオンは、ガイウスに向けて一層鋭い視線を送った。
「マリアに、今の姿を見せられるか?」
ガイウスは、その金色の双眸でシオンを真正面に据え、
「マリアはもういない。意味のない問いだ」
威圧するように、そう言った。
シオンはそれに気圧されることもなく、ただ黙って席を立った。
それから部屋の扉に向かって歩みを進めた時、
「俺からもひとつ」
不意に、ガイウスが呼び止めた。
シオンとイグナーツは揃って退室の足を止め、踵を返す。
「近々、騎士団に命令を出す。せっかくだ、お前たち二人を指名する。互いに敵視しているとはいえ、組織の命令系統が公的に変わったわけではないからな。仕事と割り切り、受けてもらうぞ」
唐突な話題に、イグナーツが怪訝に眉を顰める。
「何の命令で?」
「ノリーム王国の正常化だ」
ノリーム王国――この言葉に、ステラの顔に影が落ちた。
「ノリーム王国……」
かつてステラが訪れた国であり、そこでは彼女の判断により多くの亜人を凄惨な運命に導いてしまった。
そんなステラを尻目に、イグナーツが興味深げに首を捻る。
「穏やかではありませんね。正常化とは、何がありました?」
「ノリーム王国はガリアの占領下だったが、ガリアが滅んだことで再度独立国家になった。それをいいことに、周辺諸国に対して横暴な振る舞いを始めているらしい」
今度はシオンが首を傾げた。
「どういうことだ?」
「あの国はガリアに占領されたあと、政治から軍事まであらゆる国の機能がガリアに掌握されていた。独立したはいいが、自国民ではなくガリアの残党がそのまま国を牛耳っている状態だ。言ってしまえば、小さなガリアが出来上がっている。十字軍を配置するために我々も働きかけたが、聞く耳を一切持たなくてな。まあ、そのガリアを粛清した張本人の言うことなど、始めから聞くとも思っていないが」
ガイウスの説明を聞いたイグナーツが、納得した様子で肩を竦める。
「なるほど。要は取りこぼした地域を教会の管理が行き届くよう再征服しろと。独立を認めた手前、真正面から武力制圧することも心証に悪い。だから騎士団を使って鎮静化を図るつもりですか」
「隣国のグリンシュタットも動いているが、周辺諸国の被害状況を見るにあまり長引かせたくない。それゆえ、騎士団を介入させ、ノリーム王国の政治を自国民たちに戻すことにした」
「お手元の十字軍は使わないので?」
「今回は粛清が目的ではない。潜入しての工作活動も含めれば、騎士団の方が適任だろう。必要であれば手を貸すが?」
はあ、と、イグナーツが不本意であることを剥き出しにして軽い礼をガイウスに見せる。
「わかりました。騎士団がどう動くかは、総長と相談して決めますよ、教皇猊下」
それを見たガイウスは、満足そうに頷いた。
「結構。詳細は後日、総長を通じて伝える」
そして、シオンとイグナーツは部屋を後にしようとした。先にイグナーツが扉に手をかけ、退出する。シオンもその後に続こうとした――その時だった。
「――シオン」
ガイウスが、再度シオンを呼び止めた。
シオンは振り返らずにその場で止まる。
「俺を止めたいのなら、殺すしかない。それは理解しているな?」
「ああ。必ず殺す」
迷いのない弟子の回答に、師は少しだけ口の端を綻ばせた。
「よろしい。やれるものなら、やってみろ」




