第一章 父と子とⅥ
「お帰り、猊下」
聖都セフィロニア――ルーデリア大聖堂にガイウスが戻ったのは、旅の最終日の夕方だった。朱く染まった西の太陽が回廊の窓から差し込み、それがとある部屋の扉の近くで佇むパーシヴァルを照らしていた。
パーシヴァルはガイウスの姿を見て、どこか怪訝に首を傾げる。
「何だか疲れているみたいだね。旅先からの直帰だし、日を改めようか?」
ガイウスの身なりはいつもの教皇としての装いではなく、旅行時のままだった。黒のスーツに革靴、手にはスーツケースとコートを持った状態だ。
しかし、ガイウスはそれには反応せず、パーシヴァルの横を通り過ぎると、
「聖女は?」
短くそう訊いた。抑揚に欠いた無機質な声色に、パーシヴァルは小さく肩を竦める。
「この部屋に」
そう言ってパーシヴァルは早足にガイウスを追い越し、先に扉のノブに手をかけた。
そして、ノックもせずに開ける。
扉の先は、本来であれば客間として利用される部屋だった。だが、家具と呼べるものは、中央に向かい合わせに置かれた椅子が二つだけだった。そのため、実際の大きさに反してやけに広さを感じる空間となっていた。ただし、天井に吊るされた豪奢な照明器具と、壁に描かれた宗教画――それと、部屋の四隅に立つ四人の枢機卿が、心理的な圧迫感を生み出している。
「――ガイウス……!」
部屋の中央に並べられた椅子に、先んじて一人の女が座っていた。
聖女アナスタシア――聖王教会において、教皇に並ぶ権力を有する存在である。
アナスタシアは、ガイウスの姿を見るなり、青ざめた顔で椅子から転げ落ちそうになった。
それには構わず、ガイウスは淡々とした所作で、彼女が座る正面の椅子に腰を掛ける。
「昔話をひとつ」
座って間もなく、ガイウスは不意にそう言った。
「二十年以上前だ。俺がまだ騎士だった頃、“帝国”との国境付近で任務にあたった時の話だ」
アナスタシアは言われて呆けた顔をしていたが、すぐにまた顔を絶望に曇らせた。
「その任務こそ達成できたものの、俺は心身ともに疲弊し、生きる希望もなくし、辺境の地で野良犬のように野垂れ死になりそうだった」
ガイウスは、自身の記憶を辿るまでもなく、まるでついさっき起きた出来事のような口調で続ける。
「間もなく訪れる死期を待たずとも、もはや自ら命を絶つことも厭わないと思っていた。地獄を味わい、この世に未練もなく、そのまま死ぬことが救いとしか思えなかった。だが、御覧の通り、そうはならなかった。何故だか、わかるか?」
アナスタシアは、脅されたわけでもなく、ただそう訊かれただけで体を震わせた。
「俺は救われた。文字通りだ。体も、心も。だが皮肉なことに、騎士である俺を救ったのは、世界の禁忌とされる混血の女だった」
蛇に睨まれた蛙の如く小刻みに震えるアナスタシアには構わず、ガイウスはさらに言葉を紡ぐ。
「彼女は自らを“マリア”と名乗った。“マリア”は混血の身でありながらも、自身を忌み嫌う世界を憎むことなく、気丈に生きていた。そして救われた俺は、彼女に惹かれるようになった。本来であれば、騎士が混血に心を許すことなど、決してあってはならないことだった」
そこでガイウスが足を組むと、アナスタシアは小さな悲鳴を上げて身を竦めた。もはや、ガイウスの一挙一動が、アナスタシアを怯えさせた。
「“マリア”は自らの生い立ちを含め、色々なことを俺に話してくれた。そうやって傷を癒すために長い間共に生活する中で、彼女と俺は互いに秘密を共有するまで親密になった。そこで彼女は、自分に双子の妹がいることも話してくれた。驚いたのは、それが教会にエルフのシスターとして在籍する“リディア”であったということだ。つまりその事実は、“リディア”はエルフではなく、混血――ハーフエルフであることの証明でもあった。だが俺は二人が混血であることを決して口外しないと、心に固く誓った。命の恩人――“生まれて初めて愛したヒト”を裏切ることなど、絶対にあってはならないと」
“生まれて初めて愛したヒト”――ガイウスの口から放たれたその言葉に、アナスタシアが反応した。前のめりになり、椅子から腰を浮かせる。
「ガイウス! 私は貴方のことが――」
しかし、即座にその身を椅子の上に引き戻された。突如として椅子の背もたれから現れた縄のようなものが、アナスタシアを椅子に縛り付けたのだ。
「お静かに。まだ猊下が話しています」
パーシヴァルが、いつになく真面目な顔で冷たく言い放つ。彼の魔術で拘束されたアナスタシアは、再び衰弱した小動物のように静かになった。
「だがやはり、世の中、そううまく事が運ぶことはなかった。“マリア”は自身をエルフと偽り、独り人里を離れた場所に住んでいたが、エルフは本来、同種間に限り社会性の強い種族だ。俺の看病のため、人里に薬やらを調達しに行ったことで彼女の存在が目につくようになり、人間ばかりかエルフたちの間でも噂になった。何故、エルフの女が一人孤独に生活しているのか――そして、そこから更なる疑義が生まれてしまった。もしや、混血ではないのか、と」
ガイウスは終始アナスタシアを見ていた。だが、彼女はそれを直視できない様子で、ずっと俯いていた。
「その後まもなく、真偽確認のために騎士が派遣された。責任を感じた俺は、どうにか“マリア”を逃がせないか考えた。結論、俺はこのタイミングで騎士団に戻ることを決めた。療養と彼女との生活を理由に長く隠遁生活を送っていたが、彼女を守るため、行動を開始した。騎士団に戻るのと同時に、派遣された騎士を誤魔化すことにした。療養のために長く身を隠し、復帰しようとした矢先に混血と思しき女を見つけ、独自に調査していた、だが見失ってしまった、と。そしてそれはうまくいき、俺は安心した。おそらくもう二度と“マリア”に会えることはないと惜しみつつ――その間に、“マリア”はまた別の地に移り住むことができると」
ガイウスは肩の力を抜くように息を吐いた。
「しかし、どういうわけかな。それから数年経って、“マリア”の正体と居場所が教会内で周知され、騎士団に彼女の連行命令が下された。よりにもよって、この俺に」
そこでガイウスは懐に手を入れ、三枚の写真を取り出した。その写真には、“リディア”、“イザベラ・アルボーニ”、“アナスタシア”がそれぞれ写されていた。
「告発者は、今は亡きイザベラ・アルボーニ――たかがアウソニアの一属州総督が、何故なんの係わりもない混血の所在を知っていたのか。そして、どうしてその任が俺に下されたのか」
ガイウスは三枚の写真を床に放り投げる。
「“マリア”は生活の拠点を移したあと、密かに実の妹の“リディア”にだけはその居場所を伝えていた。二人は“とある真実”を保持し、互いに監視するため、その必要があった。それは仕方のないことだ。では、“リディア”がイザベラに“マリア”のことを伝えたのか? 結果としての事実はそうなのだろう。だが、自身の姉を教会に売る理由はまったくわからないうえ、あの二人の間に連絡を取り合うような繋がりもまったくなかった。“何か”が――いや、“誰か”が、二人の間を取り持っていた、もしくは、二人を“利用”した――俺はそう考えるようになった」
アナスタシアの震えが、いよいよ生物として危うい域にまで差し掛かる。もはや痙攣ともいえるほどの動きを見せていた。
「少し話を変えよう。聖女アナスタシア、“写本の断片”を持っているお前は、何故教会が混血を許していないのか、その理由を知っているな? “写本の断片”を継承する直前、先代の聖女を媒介にして現れた聖王から聞いているはずだ。教会のメンツを守るための世間的な体裁繕い――そんなくだらない理由の方じゃない。本当の理由だ」
アナスタシアは俯いたままだったが、ガイウスは続けた。
「亜人という人間よりも優れた種を作り、種族間の混沌を世界に招いた聖王は同じ過ちを繰り返さないよう、騎士を生み出し、教会という管理体制を敷いた。ゆえに聖王は、自身が生み出した種族と人間が交配を繰り返すことで、自分の管理、知識が及ばない新たなヒトの進化と誕生を恐れた。これが真実だ」
アナスタシアを見るガイウスの金色の眼が徐に細められる。
「そしてその真実は、“リディア”も知っていた。長年、エルフのシスターとして教会に身を置いていた女だ。教会の恥部や機密事項のひとつやふたつ、知っていたとしてもおかしくはない。そのことは、お前がよく知っていたはずだ、聖女アナスタシア。お前はただのシスターであった頃から聖女の座を常に虎視眈々と狙い、野心的な出世欲で活動していたからな。欲しいものはどんな手を使ってでも手に入れる――聖職者にあるまじき浅ましさだ」
徐々にガイウスの声に感情が込められていく。そこから感じ取られるのは、憎悪と軽蔑だった。
「そんなお前が、多方面に影響力を持つ“リディア”を利用しないはずはなかった。“リディア”の弱みを一つでも握ろうと画策するのは想像に容易い。そして、何かを機に知ったんだろ? “リディア”がエルフではなく、ハーフエルフであることを。おおかた、“リディア”を脅迫して“マリア”の正確な所在地を聞き出し、それをイザベラに暗に伝え、間接的に告発させた――そんなところだ」
アナスタシアが意を決したように、再度椅子から立ち上がろうとした。自身を拘束する縄を引き千切らんばかりの勢いで体を揺らす。
「ガイウス! 違うのです! 私はあくまで――」
「話を戻す。ついでに、質問だ」
ガイウスは組んでいた足を解き、アナスタシアを射殺すように睨んだ。
「知りたいことはすべて知っている――だが、念のための確認だ。俺と“マリア”の関係をどこでどう知った? 何故、“マリア”を死に追いやった?」
それから起こったのは、長い沈黙――時間にして僅か十数秒だったが、ガイウスから放たれる異様な覇気が、部屋中の空気を酷く圧迫し、余計に長く感じさせた。
やがて、それに耐えかねたかのように、アナスタシアが口を動かす。
「……貴方の言う通り、少しでも自分の地位を高めるため、何か“リディア”の弱みを握ることができないかと、彼女の部屋に忍び込みました。そこで、彼女が姉妹とやり取りしている古代エルフ語で書かれた手紙を偶然見つけました。そこに、貴方と“マリア”の関係が……」
「“マリア”を死に追いやった理由は?」
「……あ、貴方のことを、ひ、一人の女として、好いてしまったから」
恐れの中にどこか恥じらいを感じさせる声色で、アナスタシアがぼそりと言った。
「騎士の貴方はとても眩しく、美しく、誰もが敬う完成された存在でした……。多くの者たちが貴方に恋焦がれたように、私も……」
ガイウスは石像のように固まったまま、微動だにしなかった。
一方で、アナスタシアは必死な形相で身を動かし、ガイウスに近づこうとする。
「で、ですが! 決して私欲のみで告発したわけではありません! 教会が混血を認めていない以上、混血の存在は悪です! まして、混血の捕縛に最高の騎士である貴方が一度失敗したとなっては、その汚名を返上させてあげたいと思うのが純粋な愛から生じる――」
刹那、アナスタシアの拘束が解かれた。勢いあまって彼女は床に転がり、痛みに顔を顰める。
しかし、間もなく自身の異変に気付き、
「な、なにを――」
今度は驚きに顔を歪めた。
その直後だった。突如として、アナスタシアの背中が音を立てて弾けたのは。弾けたのは衣服の布切れだけではなく、背中の皮膚からは夥しい量の血が噴き出し、床と天井に悍ましい血痕を残した。
アナスタシアは一瞬、自分の身に何が起こったのか理解できず呆けていたが、時間差で襲ってきた痛みに甲高い悲鳴を上げる。
そして、彼女の背中の皮膚が、まるで羊皮紙のように剥がれ、べしゃりと嫌な音を立てて床に落ちた。
部屋の隅にいたパーシヴァルが、早々にそれを回収する。
「失礼。そろそろ猊下がブチギレそうな雰囲気だったので、貴女が死ぬ前に“写本の断片”を頂戴させてもらいました。死んだ肉体に残ったままだと、“騎士の聖痕”と同様に焼き潰れてしまう可能性もあるので」
そんな断りもアナスタシアの耳には入っておらず、彼女は水たまりに沈む羽虫のようにのたうち回っていた。悲鳴と嗚咽を漏らしながら、背中の痛みに悶える。
「が、ガイウス……!」
救いを求めるように、アナスタシアがガイウスに右手を伸ばした。
「違うのです……私は、ただ純粋に、貴方のことを――」
「聖女アナスタシア」
ガイウスが、醜く這いつくばるアナスタシアの眼前に立つ。
アナスタシアの顔が、まるで地獄の魔王を目の当たりにしたかのように凍り付く。
しかし――
「己の野心と痴情に抗えず、私利私欲のままに行動し、禁忌と言えどもひとつの尊い生命を身勝手に奪ったことは赦されがたい。しかし、よくここで己の罪を認め、告白した」
「ガイ、ウス……?」
ガイウスの口から放たれた意外な言葉に、アナスタシアは目を丸くして固まる。
「その卑しき感情はヒトであれば誰もが内に秘めるもの。己が罪に苛み、苦しんだことを憐れむ。そして、その悔恨が何よりの改心であると信じる」
まさかの慈悲に、アナスタシアは徐々に緊張を解き、目に涙を滲ませた。
「“お前の罪”を赦そう、“神”もそれを望んでいるはずだ」
そして、ガイウスのその一言を受け、アナスタシアはその顔に生気を戻していった。先ほどまでの悲哀の慟哭ではなく、今度は喜びと感謝の意が込められた叫びを、辺りも憚らず上げた。
アナスタシアは暫くそうしたあと、跪いたまま改めてガイウスを見上げた。
今度は、彼のことを救世主、あるいは神のように崇める面持ちだった。
「ガイウス……ガイウス……! 私は、私はやはり貴方のことが――」
「だが、“俺”は“お前”を赦さない」
「――え?」
転瞬、アナスタシアの頭部が消えた。それと同時に起こったのは、短い破裂音――頭部を失ったアナスタシアの後方には、壁一面に彼女の血と、頭部だった肉片が飛び散っていた。
ガイウスは、右足のつま先を赤く染めたまま、しばらくその場に立ち尽くした。首元から蛇口の水のように血を流すアナスタシアの死体を、無機質な顔で眺める。
やがて、ガイウスの口元が笑みで歪み、彼は自身の目元を右手で覆った。
それから、ガイウスは静かな笑い声をあげた。
最初は小さく、込み上げてくる可笑しさに堪えるように。
だが、徐々に、徐々に、笑い声を大きくし――最後には、体を反らすような体勢で、部屋全体を震わせるような大声で笑った。
そして、笑うのを止め、目元を覆っていた右手を除けた時――彼の顔にあったのは、これまでの濁り切ったものではなく、爛々とした金色の瞳だった。
1か月ほど休んでしまいましたが、そろそろ更新再開します。




