第一章 父と子とⅣ
シオンは地を蹴るのと同時に刀を鞘から引き抜いた。馬や豹をも凌ぐ瞬発力を以てガイウスに肉薄し、瞬き一つの間に彼我との距離を数メートルにまで縮める。刀を振り上げ、そのままガイウスの背後を袈裟懸けに斬り裂こうとするが――
「――!?」
刃はガイウスに到達することなく、耳を劈く金属音によって阻まれた。
見開かれたシオンの瞳に映っていたのは、ガイウスを守るようにして立つイグナーツだった。イグナーツは杖を両手で支え、シオンの一刀をすんでのところで受け止めていた。
「部下の躾がなっていないぞ、イグナーツ」
ガイウスは正面を向いたままそう言った。教会の組織体制を鑑みれば、教皇を騎士団副総長が身を挺して守ったという当たり前の絵面ではあるのだが、シオンは驚きに、イグナーツは嫌悪に顔を歪めた。
シオンはすぐに表情を怒りに変え、刀を握る手に力を込める。
「そこをどけ、イグナーツ……!」
「落ち着きなさい、シオン。今このタイミングで教皇と直接戦うのは、我々にとっても、貴方にとっても都合が悪い。そんなことはわかり切っているはずです」
シオンに力負けしそうになりながら、イグナーツは声を絞り出すように言った。
そうして両者膠着している間に、
「ガイウス!」
ガイウスはすでに姿を消していた。
「クソっ!」
シオンは悪態を吐きながら刀を払い、イグナーツの杖を弾く。
これで戦いが治まる――とはいかず、シオンの攻撃はさらに続いた。
シオンは“帰天”を使って“天使化”すると、イグナーツの体を容赦なく縦に両断する。イグナーツの体は例によってダミーの遠隔操作用の人形であったため、瞬時にまた元通りに再生した。
だがその直後、シオンはイグナーツの頭部を左手で掴み上げる。
イグナーツの顔に、初めて焦りの色が現れた。
「まさか――」
イグナーツが何かを言おうとした瞬間、シオンの左掌が雷光の如く輝いた。“天使化”状態の時にのみに行使できる電磁気力の力だ。
刹那、イグナーツの体が糸を切られたように地に伏す。
そして、森の中に束の間の静寂がやってくる。
遅れてやってきたエレオノーラが、目の前の光景に言葉を失っていた。
それを尻目に、シオンは“天使化”を解除しながら呼吸を整える。次の視線の先はガイウスが消えた方向だが――
「……驚きました。“私の人形”の倒し方、いったい、いつの間に覚えたのですか?」
森の木立から、イグナーツが姿を現した。イグナーツは頭を手で押さえ、酷い頭痛に苛まされているかのように顔を顰めている。その左目と鼻の穴からは、一筋の血が流れていた。
「まあ大方、リリアン卿にでも聞いたのでしょう。パーシヴァルを相手にした時にも有効でしょうしね」
イグナーツの“人形”は、自分の遺伝情報を与えた魂のない有機物――いわば自分を模した死体で、それを魔術の電気信号を送ることで遠隔操作している。先ほどのシオンの攻撃は、その電気信号を電磁気力の操作で無理やり断ち切るものだった。人形を操る電気信号は本体の脳と直結しているため、強制的に断ち切られたことでイグナーツ自身もその余波でダメージを受けたのだ。
再度行く手を阻むイグナーツに、シオンは睨みを利かせる。
「退け」
「お断りします」
シオンは強く歯噛みした。
「今度こそ殺すぞ!」
「シオン、目上を怒らせるのもほどほどにしておきなさい。貴方がそのつもりなら、私もそれなりの対応をします」
イグナーツは顔の血を拭うと、すっと表情を消した。濁り切った漆黒の瞳が、さらに暗く染め上がる。
「理由を付けていつまでも帰ってこないことを気にして監視してみれば、案の定です。貴方たち、私に隠れて何を知りました?」
しかし、シオンはイグナーツの問いに答えなかった。
シオンは瞬間的にイグナーツとの距離を詰め、懐に潜り込む。刀をそのまま下から上へ振り抜こうとするが、突如として地面から伸びた巨大な腕にそれを阻まれた。
“地の精霊ノーム”――イグナーツが扱う魔術で、地中の鉱石と有機物から生み出された疑似生命体だ。本体は全長十メートルを超える土の巨人だが、イグナーツは部分的に腕だけを造り出し、自身を守護する盾に利用したのだ。
ノームの腕はシオンの刀を軽々と弾くと、今度は彼を拘束しようと家屋の屋根ほどもある巨大な掌を広げる。
シオンは電光石火の如く動き、それを容易に躱した。
だが、直後にシオンの体に異変が起きる。眼球や皮膚が、まるで内側から破裂するかのように膨張した。
“風の精霊シルフ”――見た目はただの蝶だが、その力は周りの気体を自在に操ることができる。空気中の気体成分の比率の変更や、空気そのものを任意の空間から消失させることすら可能にする。
シルフは、シオンを中心にした周りの気圧をゼロの状態にしたのだ。シオンの体が急激な膨張傾向を見せたのは、そのためだった。
シオンは再度“天使化”し、ダメージを受けた身体の器官を瞬時に再生させる。
転瞬、イグナーツに斬りかかった。
イグナーツはそれを間一髪のところで避けるが、赤い光を携えたシオンの一閃はイグナーツの腹部を掠める。さらにシオンは、休む暇は与えないと、怒涛の勢いで斬撃を繰り出していく。イグナーツはノームの部位を巧みに使い、紙一重のところでそれを防いでいくが、徐々に体に血の線を残していた。
時間にしておよそ十秒、シオンの猛攻は続いたが、ついに疲労によってその手が止まった。シオンは乱れた呼吸を整えるため、一度大きくイグナーツから距離を取る。
イグナーツはそれを、無機質な顔で捉えた。
「シオン、私もまだ死にたくありません。本気でやるというのなら、私も貴方を殺すつもりでやります」
そう言って、何のつもりか――イグナーツは自身の胸部を杖の先端で貫いた。呻き声を漏らしたあと、即座に杖を引き抜く。すると、夥しい量の血がイグナーツの足元に溜まった。
そして、イグナーツは今度、杖を自身の血溜まりに突き刺す。
「“タナトス”!」
その一声に応じるかのように、イグナーツの血が地面の上で沸騰するように蠢き始めた。シオンがそれを不可解に見ている間隙の狭間――血溜まりは突如として空高く舞い上がり、赤黒い柱となってイグナーツを包み込んだ。
やがて自由落下によって柱が消えると、そこにいたのはイグナーツ――と、巨大な黒い影だった。
体躯はおよそ人間の成人男性の三倍はあり、鎧と見紛うほどの筋骨隆々とした黒い体だった。頭部は見たこともない獣のような、怪物のような形をしており、目はなく、上下の鋭い歯が常に剥き出しになっていた。
“タナトス”――イグナーツのオリジナルの魔術で生み出された人工生物――精霊であり、彼の切り札であった。
シオンがそれに気づいた刹那、タナトスは彼の眼前に立っていた。シオンが驚く間もなく、タナトスの豪腕が勢いよく振るわれる。タナトスの拳はシオンの側面を捉え、彼の体を目にも止まらぬ速さで吹き飛ばした。
飛ばされたシオンは木々を薙ぎ倒しながら失速するが、完全に停止する前にタナトスが追撃を仕掛ける。
“天使化”したシオンを軽々と吹き飛ばす威力を持つタナトスの猛攻――防戦一方となったシオンは、堪らず逃げの作戦を取ることになった。
しかし――
「――!」
逃げ込んだ先に、突如としてあらゆる方角から槍が伸びてきた。無数の槍はシオンの体を次々と貫き、瞬く間に身動きを封じて拘束してしまう。
同時に、シオンの“天使化”も解除された。
「……ようやく大人しくなりましたか」
少し遅れて、イグナーツがやってきた。イグナーツは血塗れの状態であるにも関わらず、痛みなど一切感じさせない佇まいでシオンを正面に据える。
「さて、さっきの続きですが――」
「アンタに話すことは何もない……!」
それでもシオンは、顔からその戦意を失わず、イグナーツに凄みを利かせた。
イグナーツは無表情のまま鼻を鳴らす。
「何をそんなにムキになっているのか。いい度胸です、このまま拷問してでも吐かせますよ」
そう言ってイグナーツは、身動きの取れないシオンの喉元に杖の先を突き付けた。
そんな時だった。
「シオン、もういいよ!」
二人の戦いの場に遅れて到着したエレオノーラが、息を切らしながら声を上げた。
「イグナーツ卿に全部話して――」
「いいわけないだろ!」
しかし、シオンはエレオノーラの言葉を遮った。
イグナーツはそんなやり取りを冷めた顔で見ていたが――杖の切っ先を、シオンの心臓部に突き刺した。
「シオン!」
エレオノーラが悲鳴を上げる。
そして、シオンの体から杖が引き抜かれ――
「……どうやら、“この冊子”がすべてのようですね」
引き抜かれた杖の先には、翻訳済みの“リディアの日記”があった。
全身を無数の槍に貫かれてもなお恐怖しなかったシオンの顔から、瞬時に血の気が失われる。
それには構わず、イグナーツは“リディアの日記”を驚くほどの速読で読み切った。
「……なるほど。こんな衝撃的な内容を、よくもまあ我々に隠し通せるつもりでいましたね」
ここでイグナーツの顔に感情が戻った。凄みを利かせ、まるで悪戯した子供を酷く叱るような大人の視線をシオンとエレオノーラに向けた。
「……大方、このすべてが明るみになれば、エレオノーラが混血ということを知られると思ったのでしょう」
イグナーツの言葉に、シオンとエレオノーラが固まる。
――何故、そのことを?
シオンとエレオノーラは揃って表情にその疑問を宿し、呆然とする。
「……イグナーツ卿?」
エレオノーラに声をかけられ、イグナーツは大きく息を吐いた。
そして――
「何故もっと早く私に庇護を求めなかった!」
イグナーツが、信じられないほどの声量で怒鳴った。普段、冷静沈着で人を小馬鹿にしたような振る舞いをする人間からは、想像もできないほどに感情を剥き出しにしていた。
シオンとエレオノーラは同時にびくりと肩を跳ねさせ、驚きに身を竦ませる。
「エレオノーラが混血であることなんて、とっくに知っていましたよ。曲がりなりにも、私は聖王騎士団副総長であり、教会魔術師の最高位にいる魔術師です。舐めないでいただきたい」
そこで、イグナーツは顔の強張りを解いた。
「エレオノーラは魔術師としての私の弟子で、自立するまでの間に世話をした娘のような存在です。出自の隠蔽工作も、とっくにやっています。でなければとっくにバレていましたよ。私は自他ともに認める人でなしですが、情がないわけではない。こう見えて、人並の感情は持ち合わせています」
イグナーツは煙草に火を点け、大きく吹かした。
「この“冊子”のおかげで、ガイウスに係る一連の出来事のおおよそは把握できました。ですが、貴方たちがここで何をしようとしているのかまでは察することができない」
面食らって微動だにしないシオンとエレオノーラには構わず、イグナーツはさらに続ける。
「言いなさい。貴方たち二人は、ここで何をするつもりだ?」
それからしばしの沈黙――シオンが徐に口を開いたのは、イグナーツの煙草が灰を落とし始めた頃だった。
「……ガイウスとマリア――それと“リディア”の間に何があったのか。ガイウスが、“人類をすべて消し去ろうとしている”理由と、その先の目的が、ここにあると思った。それだけが、俺たちもまだわかっていない」




