序章
これで最後の部。
「“これ”が……ガイウスの目的……!?」
エルリオから翻訳された“リディア”の日記を受け取ったシオンとエレオノーラは、エルフの領域を出たあと、ログレス王国のとある町の宿に移動した。
宿で借りた部屋に入って早々、二人は日記の中身を読み漁った。シオンが驚愕の表情で先の言葉を漏らしたのは、全文を読み終えた時だった。
固まるシオンの隣で、エレオノーラが複雑な面持ちで息を呑む。
「でも、もしこれが本当なら、今まで教皇がやってきた事の辻褄が合うよね……」
しかし、シオンは頷かなかった。
「いや、まだわからないことがある」
「なに?」
「ログレス王国の主権回復に協力した理由だ。ガリアを排除し、国土を掌握することだけが目的なら、わざわざログレスの主権を――ステラを女王にする意味がない。それに――」
喋りながら、シオンは荷物の中から大陸の地図を広げた。本来であれば、大陸で標準的に利用される北を上にした横長の地図なのだが――シオンはそれを、東を上に、縦長になるように置いた。かつて、吸血鬼の国、ダキア公国で見た地図の形式であり、当時それをステラは“樹のようだ”と表現していた。
次にシオンはペンを取り出し、縦長の楕円を地図上に描いていく。その楕円の中に大陸のほとんどの土地と国が含まれたが、とある孤島だけが、殊更に外れていた。
その孤島とは、ログレス王国の王都――キャメロットだ。
「“セフィロト”から王都だけ外れることになる。ガイウスの目的が“ここに記されていること”なら、むしろガリアが代理統治している方が好都合なはず」
シオンの見解を聞いて、エレオノーラは唸るように黙った。だが、そこから先の解はシオンも持っておらず、沈黙が室内を満たす。
エレオノーラが改めてシオンを見た。
「ねえ、これからどうするの? このこと、騎士団にも教えるの?」
その質問に、シオンははっきりと首を横に振った。
「いや、これをそのまま騎士団に開示したら、お前が混血だってこともバレる。騎士団に伝えるにしても、伝え方を考えないと……」
「……提案なんだけど――」
エレオノーラは一度そこで区切ったが、すぐに再開した。
「アタシの故郷に、行ってみない?」
「お前の故郷?」
突然の提案に、シオンは眉を顰めた。
「アウソニアの西の辺境にある片田舎、そこの外れにお母さんと昔住んでいたの。当時住んでいた家がまだあれば、そこにも何か情報があるかもしれない。ほら、ここ見て」
そう言って、エレオノーラは日記の一文を指差した。
「ここの“マリアとの約束を破ることになる”って一文、その約束っていうのが何なのか、この日記の中には一切言及がない」
「まだ明かされていない事があるってことか……」
シオンは、エレオノーラに向き直った。
「騎士団本部には三日後に戻ることになっている。猶予は充分。明日、お前の故郷に向かおう」
※
午前九時ちょうど発、アウソニア連邦の聖都セフィロニアから西の国境付近へ向かう列車の車両内はほぼ満席の状態で、今日も盛況だった。予約席は当然として、普通席の空きもほとんどなく、多くの乗客が見ず知らずの他人と相席になっていた。ただでさえ混雑した状況であるため、車両内は乗客たちの不機嫌によってやや張り詰めた空気が漂っており、特に子連れの乗客は肩身が狭そうにしている。
機関車が勢いよく汽笛を上げ、列車が駅から動き出し始めた頃――一人の若い母親が赤子と大荷物を抱え、とある車両に駆け込んだ。母親はヒトの多さに戸惑いつつ、どこか座れる場所がないか、不安の面持ちで通路を歩いて探す。
どの席にもすでに先客が座っており、到着予定地まで立つしかないか――そう諦めかけた時、運よく空席を見つけることができた。
向かい合わせの四人席で、まだ一人しか座っていない。座っているのは、男だ。歳は四十歳前後、すらりとしたスタイルのいい容貌で黒のスーツとベストを着こなしており、気品の高さが見て取れる。黒髪を丁寧に整え、特徴的な金色の瞳と対になるような銀縁の眼鏡をかける姿が、必要以上に知性を高く見せていた。見るからに近寄りがたい雰囲気であるため、無意識に誰もこの男と相席にならなかったのだろう。
母親も最初、その高貴な出で立ちに圧倒され、一瞬躊躇ったが、
「あの……」
これから数時間以上、この列車に乗り続けることを鑑みて、意を決した。赤子と荷物を抱えながら、神妙な面持ちで男に声をかけた。
「はい?」
男は新聞に向けていた視線を母親に変えた。
「ここ、よろしいでしょうか? 赤ん坊がいるのですが……」
子連れと相席になることを嫌う客も多い。母親は断れる覚悟を半分に、思い切って訊いてみた。
すると、意外にも男は柔和な微笑を返した。
「ええ、もちろん」
「あ、ありがとうございます!」
あっさりと承諾され、母親は思わず大声で礼を言った。それから、ようやく人心地が付いたといったように荷物を下ろし、赤子を抱え直す。
そんな母親の様子を見ていた男が、
「お子さん、生後二、三ヶ月くらいですか?」
物腰の柔らかい声で、そう話しかけてきた。
母親は汗をハンカチで拭き取りながら、少し驚いた顔で頷く。
「はい。先月生まれたばかりです」
「では、まだまだ大変な時期が続きますね。小さなお子さんを連れての移動も、一人ではお辛いでしょう」
「今は夫が地方で仕事をしているので、仕方がないです。この汽車に乗っているのも、生まれたばかりのこの子を夫に見せるためなんです」
「なるほど。旦那様も心待ちにしているでしょうね」
「ええ。昨日、電話で話した時は子供みたいにはしゃいでました」
「気休めにしかならないかもしれませんが、旦那様に元気なお二人の姿を見せられるよう、少しでも車内でゆっくりしてください」
その厳かな雰囲気から、てっきり冷たい性格なのかと思いきや、男はいたって紳士的で優しかった。そう言って遠回しに、小さな子供がいることを許容してくれた。
今日はとても良き日だ――母親は安堵して息を吐く。
と、その時、
「あら?」
母親に抱かれる赤子が、小さくぐずり出した。それから五秒もしないうちに声を上げ、泣き出してしまう。
「ご飯は汽車に乗る前に上げたばかりなのに。もしかして、おしめがもう?」
束の間の休息も許さないと、赤子の鳴き声はさらに激しくなる。
「あ、あの――」
「私のことはお気になさらず。なんでしたら、席を立ちますよ」
「い、いえ、そこまでは。すみません、ちょっとだけ失礼します」
母親は申し訳なさそうに断りを入れたあと、赤子を片腕で抱え直した。そのあと、空いた方の手で自身の荷物を漁り出すが、
「もしよければ、荷物を探す間、お子さんをお預かりしますよ。冷たく、固い椅子の上にお子さんを置くのも忍びないでしょう」
苦労している母親の姿に見かねたのか、男がそう申し出た。
母親は一瞬躊躇ったが、
「で、では、お言葉に甘えて」
男を信用し、赤子を預けることにした。
泣き喚く赤子を男が慣れた様子で受け取ると、
「あら? 急に大人しく……」
どういうわけか、赤子は急に泣くのをぴたりと止めてしまった。そればかりか、どこか楽しそうに、小さく笑うようになる。
その様子を見た男の表情も、微かに綻ぶ。
「汽車に慣れていないせいで泣いたのかもしれないですね。用を足したわけではなさそうです」
そう言って赤子をあやす姿は、父親を経験している男のそれだった。
母親は、驚き半分、感心半分の顔で、改めて男を見遣る。
「子育てに慣れてらっしゃるんですね。もしかして、お子さんがいらっしゃるんですか?」
何気なく訊いた母親の一言だったが――刹那、男の顔に、ほんの少し影が落ちた。
「……そうですね、いたのかもしれませんね」
「――?」
その微妙な反応に母親が首を傾げていると――ふと、今度は男の表情が険しくなった。視線は通路の方、扉側に向けられており、先ほどまでの優しい雰囲気とは打って変わり、顔には人形のような冷たさを携えていた。
「お子さんを」
男はそう言って、赤子を母親に返した。
「どうされました?」
不可解な男の様子に母親が怪訝になった――その時だった。
車両を繋ぐ扉が勢いよく開き、そこから拳銃で武装した男が三人、入り込んできた。
「全員動くな!」
武装した男の一人が、開口一番と共に天井に向かって発砲する。男たちの正体が、近年大陸で問題になっている列車強盗であることは明白だった。車両の中が悲鳴に包まれた矢先、
「無駄に騒ぐんじゃねぇ! 大人しく金目の物を差し出せば、命だけは助けてやるからよ!」
さらに強盗たちは発砲し、乗客たちを威嚇する。
恐怖で竦み上がる乗客たちだったが、一人の老人が勇敢にも椅子から立ち上がった。
「れ、列車強盗か! 貴様ら、教皇猊下の御座すこの国でなんたる暴挙――」
しかし、強盗たちは容赦なく老人に向かって発砲した。幸い、弾丸は老人に当たることはなかったが、老人はすっかり心を折られ、慄きで腰を抜かした。
「うるせぇぞクソジジイ! いいからさっさと金なり何なり出しやがれ!」
反抗の意思を持たせる隙も許さないその勢いから、この強盗たちは常習犯のようだった。乗客たちから金品を回収する段取りも手馴れており、あっという間に車両内にいる半分以上の乗客から強奪を済ませた。
車両内が緊張に張り詰めている時、先の母親に抱かれる赤子が、また泣き始めた。
母親が慌てて泣き止ませようとするが、それよりも先に強盗が気づいてしまった。
「おい! そのガキ、さっさと黙らせろ!」
強盗の一人が、ずかずかと母親と赤子のいる席に近づいていく。
母親は、赤子を守るように身を縮こまらせた。
「す、すみません!」
窒息だけはさせないように、しかし泣き声が小さくなるように、母親は赤子の口元に手を添える。
「お願い、泣き止んで……!」
母親の必死の願いも空しく、そればかりか、赤子の泣き声は一層激しくなった。
車両内に響く甲高い泣き声に、ついに強盗たちは額に青筋を走らせる。
「キャンキャンうるせぇな。泣き止まねぇなら俺がやってやるよ」
強盗の一人が、赤子に銃口を向けた。
「やめて!」
それの盾になるように、母親が赤子に覆いかぶさる。
そして、強盗が引き金を今まさに引こうとした時――
「大目に見てやれないか。赤子だぞ」
母親たちと相席になっていた男が、ぽつりとそう言った。
異様に落ち着いたその声は、車両内によく通った。
「なんだ、おっさん? 代わりに死ぬか?」
「弾代に釣りあうとは到底思えないがな」
男の言葉に、強盗は銃口の向き先を変えた。
「上等だ! てめぇの命なんざ紙切れほどの価値もねぇってこと証明してやるよ!」
それから間髪入れず、男に向かって弾丸が数発撃ち込まれる。
男の正面に座る母親から悲鳴が上がり、遅れて他の席からも戦慄の声が上がった。
しかし――
「――!?」
強盗が放った弾丸は男に当たることなく、まるで時が止められたかのように空中で静止した。やがて、殺虫剤を吹きかけられた羽虫のようにぽとぽとと落ち、その不可解な現象に強盗たちが狼狽の声を上げる。
「な、なんだ!? どうなってやが――」
直後、車両内にいた強盗たちに異変が起きた。その全員の顔――目、鼻、口、耳といったありとあらゆる穴から、光が漏れ出したのだ。まるで、頭の内部から火を点けられたかのように。
そして次の瞬間、強盗たちは、先の器官をすべて焼き潰された状態で、一斉に床に倒れた。まだ息はあるようで、強盗たちは羽をもがれた虫のように床でのたうち回る。しかし、声帯もやられたのか、大きく開かれた焦げた口からは空しい呼吸音が発せられるだけで、悲鳴のひとつも上げられていない。
突如起きた悍ましい光景に、乗客たちは呆然と固まり、無言で恐怖に顔を青ざめさせる。
その中で、
「駅に着くまで、ここから動かないように」
男は、ひとり椅子から立ち上がり、他の車両へと向かった。
※
聖都セフィロニア発、西部行の列車が強盗団に襲われたとの通報から一時間――通過駅となる場所に、街の警察官たちが慌ただしく集まっていた。鉄道警察を通じて、襲撃された列車の車掌から、あと数分後にこの駅に停車するとのことだった。通信状態が悪く、それ以上の情報を警察たちが得られることはなく、乗客の安否や、強盗の勢力なども未だ不明だ。
それゆえに、駅は急遽全面封鎖され、街の警察が総力を挙げてホームに集結した。
「各隊、配置に付きました!」
警察の一人が、上官に威勢よく報告した。
停車予定となるホームには五十を超える武装した警察官たちが並び、到着の時を待っていた。
「間もなく列車が到着する! 指示を出すまで動くなよ、強盗たちを無駄に刺激しないようにな!」
その矢先、線路の曲がり角から、くだんの列車が姿を現した。警察官たちの間に緊張が走り、各々が持つ銃に力が込められる。
列車は、自然に速度を落とし、まるで何事もないかのように停車した。しかし、間もなくすべての車両が慌ただしく震え出す。一斉に扉が開けられ、そこから大勢のヒトが雪崩のように飛び出してきた。
警察官たちが咄嗟に銃口の先を向けるが、
「待て! おそらくそれは乗客たちだ!」
現場を指揮する上官から制止の声がかかった。その言葉の通り、恐怖に顔を歪めて逃げ惑う姿から、車両から出てくる人々が乗客であることは間違いないだろう。
「中で何が起こったんだ? 強盗たちはもういないのか?」
しかし、強盗が乗客たちをあっさりと逃がすとは考えにくい。まして、このように大きな駅に列車を停車させることなどあり得るのだろうか――そんな疑問が、警察官たち全員を怪訝に悩ませた。
「おい、強盗たちは!?」
車両から飛び出す人々の勢いが落ち着き、ついに最後の一人と思しき人物が中から出てきた。
それは、赤子を抱えた若い母親だった。他の乗客と比べ、憔悴こそしているものの、幾分冷静な足取りでホームに降り立った。
これなら会話ができるだろうと、上官が声をかけると、
「ま、まだ中に人が……!」
母親は、車両を指差して、そう答えた。
すると、もう一人、示された車両から誰かが出てきた。
黒のスーツを着た四十代ほどの男で――この喧騒の中にはふさわしくないほどに淡々とした佇まいが、異様な雰囲気を醸し出していた。
「おい、貴様! 中でいったい何があった!? 強盗は!?」
武装した警察官の一人が、男に向かってそう叫んだ。だが、男は何も答えず、ただ前に向かって歩くだけだった。無視された警察官は銃口の先を男に向けるが――
「よ、よせ! その御方は――」
上官が、男の顔を見てハッとした。何かを言いかけた、その時、
「襲撃犯たちはまだ生きている。病院に運んでやれ」
男が、上官に冷たい視線を向けながらそう言った。
上官は、蛇に睨まれた蛙のように姿勢を正し、敬礼を返す。
「は、は! 総員、車両に突入!」
男のことはそれきり放置し、上官は警察官たちに車両内に突入する指示を出した。
警察官の一人が、その指示に納得できないと、上官の隣に付く。
「あの偉そうな男、何者なんですか?」
そう文句を言った途端、上官が警察官の顔面に拳を叩き込んだ。突然の蛮行に、殴られた警察官が驚きに目を丸くさせるが、上官は怒りで顔を酷く歪めていた。
「馬鹿者! あの御方をどなたと心得る! アーノエル六世ガイウス・ヴァレンタイン教皇猊下だ!」
その言葉に、駅のホームが静まり返った。
逃げ惑っていた乗客たちが足を止め、突入を始めていた警察官たちも驚きに指示を忘れる。そして、車両から最後に出た黒スーツの男――ガイウスを一斉に見遣った。
大陸の最高権力者が何故こんなところに一人で――その場に居合わせた全員が、畏敬の念と驚愕に身を竦める。
そんな中、先ほどの赤子を抱えた母親が、血相を変えた様子でガイウスのもとに駆け寄り、隣に跪いた。
「げ、猊下! さ、先ほどまでの非礼、どうかお許しください! そ、それと、この子を救っていただき、ありがとうございます! ありがとうございます!」
母親の突然の行動に、嫌な緊張がホームに走る。一般人が教皇の傍らに付くなど、本来であれば、不敬と糾弾、立場を弁えない愚行であると、咎められても仕方のない行いであった。
しかし、ガイウスは足を止めると――
「早く旦那様にご無事なお二人の姿を見せに行ってあげてください。神の祝福があらんことを」
母親と視線を合わせるように片膝を付き、赤子の額を軽く撫でた。
すると、赤子は嬉しそうに笑顔を見せ、ホームに無邪気な声を響かせた。母親は感極まり、嗚咽を漏らすように泣き崩れる。周囲の乗客たちからは、喝采と祈り、感謝の声が立て続けに湧き上がった。
それらを背に、ガイウスはその場を後にした。
眼鏡を外し、髪型を崩したその顔に、先ほどまで浮かべていた慈愛の感情は跡形もなく消え去っていた。




