第二章 血の国よりⅩⅩ
「生きていたのか……」
カーミラが、複雑な心境を宿した面持ちで、ルスヴンを見据えていた。生きていたことを素直に喜べないのは、その不気味かつ神々しい今の彼の容貌に起因する。
ルスヴンの頭上には、青白く発光する“茨の光輪”が浮かんでいた。体中の至る所に太い血管を走らせており、一つひとつが何かの意思を持っているかのように細かく脈打っている。肩甲骨のあたりからは、翼膜のない一対の赤い翼を生やし、それを昆虫の触覚のように揺らしていた。
ルスヴンは、濡れたワイシャツを地面に投げ捨て、前髪をかき分けた。
「おめでとうございます、カーミラ様。そして、奇遇ですね。私も無事、忌々しい太陽を克服することができました。それも、さらなる力を手に入れた上で」
そう言った顔は無表情だったが、どこか勝ち誇っている声色だった。恐らく、太陽を克服した代わりに吸血鬼としての力を失いつつあるカーミラに対し、優越感を得ているのだろう。
何か言いたげにしていたカーミラだったが――リリアンが彼女を後ろに下がらせ、代わりに前に出た。
「貴方が頭上に携えるそれは、紛れもなく“茨の光輪”――何故、貴方が“帰天”を扱えるのですか?」
リリアンの問いに応じるように、彼女の前に何かが投げ落とされた。
それは、紐で綴じられた、かなり古い時期に作られたと思われる冊子だった。すでに原形を留めていないほどにぼろぼろだったが――偶然、捲れたページには、“騎士の聖痕”を刻むための印章が記されていた。
「ヴァーニィとの取引で手に入れた、“騎士の聖痕”の研究結果だ。ここに“騎士の聖痕”を刻むためのサンプルの印章も記してあった。ヴァーニィは成功した記録がないと言っていたが――人生、どう転ぶかわからないものだな。一か八かの賭けでやってみたところ、私の身体にすんなりと適合してくれたよ。それも、“帰天”を使える状態で。おかげでこうして、太陽の下でも自由に歩き回れるようになった」
感慨深げにルスヴンは言って、身体の調子を確認するように両手を力強く握りしめた。
ヴィンセントが怪訝に眉を顰める。
「人間でも成人には適合しねえはずだよな。なのに、何であの執事は適合したんだぁ?」
「恐らく、クドラクが何らかの補助的な作用をもたらしたものと思料いたします」
リリアンの見解に、シオンが頷いた。
「あの男の身体、よく見ると、瞬間的に“騎士の聖痕”の劣化反応が連続して起きている。だが、皮膚が劣化して剥がれ落ちそうになるたびに、瞬時に吸血鬼の力で再生が始まっている」
シオンの隣にいたエレオノーラが、奇々怪々だと言わんばかりに胡乱げな目つきでルスヴンを睨む。
「太陽に焼かれたような反応が起きたところも、すぐに“帰天”の再生力で元に戻ってる。もしかしてこいつ、クドラクと“騎士の聖痕”の力と欠点を相互に補っているの?」
今のルスヴンは、“騎士の聖痕”による肉体の劣化はクドラクが修復し、太陽の光による肉体の損傷は“騎士の聖痕”の力で再生されている状態だと、シオンたちは予想した。
仮にそうだとしたら、尋常ではない負荷が本人にかかっていることになる。当の本人はいたって冷静な振る舞いをしているが、実のところは――
「恐らく、このままではあと一日もたずに肉体が崩壊するものと思われます。あのような負荷を身体に強いて、いつまでも原形を留めていられるとは思えません」
何日も生きられるような体ではないということだった。
だが、そんな死の宣告を受けてもなお、ルスヴンは動じなかった。
「確かに、もう明日は迎えられない体だろうな。だが、一日あれば充分だ」
不敵に笑ったその顔に、強がりの色はなかった。本心からそう思っているらしい。
「何を考えている?」
シオンが訊くと、ルスヴンは微かに肩を竦めた。
「私と同じような志を持つ貴族はこの国にごまんといる。彼らに私の背中に刻まれた“騎士の聖痕”を継承すれば、それを足掛かりに、いつか私の悲願も達成されるはずだ」
それを聞いたカーミラが、悲嘆に曇らせた顔で、眉根を寄せた。
「三貴族の立場を失墜させ、強者が支配する国を作り、教会を打ち倒すという野望か?」
「どのみち、私が生きているうちに達成される望みだとも思っていない。それを鑑みれば、この結果は上々なものさ、“カーミラ”」
ルスヴンからついに敬称を付けられなくなったが、カーミラは構わず続けた。
「お前はそれでいいのか? 自分の命が、ただの捨て駒になってしまうんだぞ?」
「捨て駒で結構。もとより、死んだところで悲しむ者がいない天涯孤独の身だ。であれば、この国の礎になればこそ、初めてこの世に生を受けた意味ができるというもの」
カーミラは顔を俯け、悔しそうに歯噛みした。
「私は……悲しいよ……」
「ありがとう。だが、それでは駄目だ。それでは国は守れない。教会は倒せない」
しかし、ルスヴンは、かつての主人の心情を殊更に突き放した。
ヴィンセントが二丁拳銃を引き抜きながら、カーミラとローランドを背に庇った。
「つまり、なんだ。お前さんは、独りぼっちで無責任に振舞える立場にいる――だったら、せめて最期は憂国の士になって暴れてやろうってことか?」
言われて、ルスヴンはどこか楽しそうに鼻を鳴らした。
「なんとでも思ってくれて構わない。ただ一つ、この状況に合わせて答えるなら――」
両腕を広げると同時に、彼の背中の翼が、一対の大鎌のような形状に変化していった。
「愛と平和を謳いながら力を振りかざすお前たち教会が気にくわない――どうだ、こう言われた方が、これからお互い戦いやすいだろう?」
そして、ルスヴンの姿が忽然とその場から消えた。
「ヴィンセント様とエレオノーラ様は、カーミラ様たちをお願いします!」
リリアンが叫んだが――次の瞬間には、ルスヴンは背中から生やした二つの大鎌を振り被った状態で、カーミラとローランドの背後に回り込んでいた。
肉食の昆虫が顎をかち合わせるかの如く、一対の大鎌が左右両方から迫る。
カーミラとローランドの胴体が上下に両断される――それを寸前のところで食い止めたのは、“天使化”したシオンだった。シオンの刀が二つの大鎌を弾き飛ばし、ついでにルスヴン本体も大きく後退させた。
「さすがは騎士団分裂戦争を引き起こしたと噂される黒騎士だ。たった一人で教会相手に啖呵を切っただけのことはある。この速さに反応できるとはな」
ルスヴンが畏敬の念を込めて賛辞の言葉を送ったが、対するシオンはまったく意に介さずに攻撃を続けた。
刀と大鎌が幾度となくぶつかり合い、早朝の眩い寒気の中で甲高い音がけたたましく響き渡る。瓦礫の山の中を高速で行き交う赤と青の二つの光は、軌跡に小さな火花を無数に残した。
“天使化”した騎士と吸血鬼が繰り広げる人智を越えた戦い――カーミラとローランドは、戦慄しながらもその光景を食い入るように見遣った。
暫く拮抗するシオンとルスヴンの戦いだったが、そこに“天使化”したリリアンも参戦した。
上空から飛来したリリアンが、射出されたバリスタの如く、ルスヴンへ強襲する。足場となっていた瓦礫の山もろともルスヴンを吹き飛ばし、彼を空中で無防備な状態に持ち込ませた。
そこへすかさず、シオンが全力の一太刀を振り下ろす。
両手で振り下ろされた刀の斬撃は、“天使化”の力で増幅された斥力によって物理的な刀身以上の範囲を持ち、不可視の刃となってルスヴンの身体を袈裟懸けに斬った。
その余波を受けてルスヴンはそのままダムの残骸へ体を叩きつけられるが、すぐに立ち上がり、
「力を持っているのが自分たちだけだと思うな!」
吼えながら、血を周囲に広げた。
赤い影が、ルスヴンを中心に大地を侵すように広がっていく。
刹那、赤い影から、無数の大鎌と槍が出現し、シオンとリリアンへ襲い掛かった。津波のように雪崩れ込んでくるそれらは瞬く間に二人の視界一杯に広がり、上下左右の逃げ場を塞いでしまう。
シオンとリリアンは避けることを諦め、防御の体勢に入った。
その時――
「シオン、リリアン! 後ろに飛んで!」
エレオノーラから指示が飛び、二人はほぼ反射的に従った。
シオンとリリアンが後ろに大きく跳躍した直後、二人のいた場所から巨大な瓦礫がせり上がる。エレオノーラが魔術で造り出したのだ。
巨大な壁は、足場となっていた近くの瓦礫をも食らいながらどんどん横に広がり、赤い津波を食い止める。
「まだだ!」
エレオノーラの活躍で大技の直撃を凌げたのも束の間――ルスヴンが壁を飛び越え、再度シオンとリリアンへ急襲した。
もう後がないルスヴンは、常に捨て身同然の勢いで攻撃を繰り出してきた。その気迫はこの上ない脅威となってシオンたちを苦しめ、幾つもの死線を潜り抜けてきた彼らであっても、多少なりの焦燥感と慄きを抱かずにはいられなかった。
そしてついに、ルスヴンの大鎌がシオンの腹部を貫く。
「シオン様!」
すぐさまリリアンが、シオンを拘束する大鎌を光の剣で焼き切ろうとした。
しかし、
「貴様、わざと!」
シオンは怯むことなく、大鎌を片手で掴み、もう片方の手でルスヴンの顎下に向かって刀を突き刺した。次の瞬間には、渾身の力を込めた蹴りを腹部にお見舞いし、瓦礫の山にルスヴンを叩きつける。掴まれていた大鎌は本体から引きちぎられ、ルスヴンを片翼の状態にした。
ルスヴンはふらつきながら立ち上がり――そこへ、間髪入れず、頭部に五発の弾丸が撃ち込まれる。ヴィンセントの二丁拳銃から放たれたものだ。
ヴィンセントはさらに数発、ルスヴンの頭、胴体に弾丸を撃ち込んでいく。
その仕返しにと、ルスヴンは残ったもう片方の大鎌を鞭のように振るってヴィンセントに奔らせるが――
「――!?」
引きちぎった大鎌を手にしたシオンが、ルスヴンの頭上から斬りかかった。それに反応しきれなかったルスヴンが、大鎌ごと左腕を斬り落とされる。
すぐさま再生が始まり、左腕と大鎌の両方が元通りになろうとするが――
シオンが、ルスヴンの顎下に突き刺さっていた刀を一気に振り抜いた。夥しい量の出血と共に、ルスヴンの頭が文字通り首の皮一枚の状態となる。
さらにそこへ、リリアンが背後から右腕を突き刺し、ルスヴンの心臓を抜き取った。心臓は本体から離れてもなお脈を打っていたが、すぐに握りつぶされ、動かなくなる。
直後、ルスヴンの頭上から、“茨の光輪”が消えた。
同時に、糸を切られたように、後ろに倒れていくが――背中が地に着く前に、ルスヴンの身体は太陽に焼かれ、灰になって消えた。
「……どうすれば私は、お前に相応しい領主でいられたんだ」
跡形もなくなってしまったかつての従者を見ながら、カーミラは最後にそう呟いた。




