第二章 王女の決意ⅩⅥ
「あの若造があああああっ!」
フレデリックが、執務室で一人吠えていた。両手に突き立てられたナイフは机を貫通しており、自力で引き抜くことができないでいる。
「クソ、クソ! 必ず探し出して殺してやる! 舐め腐った態度を取りおって!」
まともに体を動かせない状態で、痛みに悶えながら悪態をついた。
そんな時だった。ふと、部屋の隅に人影を感じたのは。フレデリックが視線をそこにやると――
「ああ、失敬。一人で盛り上がっていらしたので、話しかけるタイミングを見失っておりました」
一人の男が、ソファに腰かけていた。額で分けた黒髪は腰のあたりまで伸びていて、一見すると鬱陶しいとすら思えるほどである。だがそれに反して、男の顔はいたって涼しげであった。色白でどこか無機質、例えるならまさしく人形のような顔立ちだ。
男が立ち上がると、かなりの長身であることがわかる――一九〇センチはあるだろうか。それだけでも目立つ見た目であるにも関わらず、一層目を引くのが、彼の身に纏っている衣装だった。カソックに似た軍服のような戦闘衣装、それにストールを巻きつけ、大仰なケープマントを羽織っている。
「だ、誰だ貴様!? いつからそこにいた!?」
男は、机越しにフレデリックの前に立つと、慇懃無礼に一礼した。
「初めまして、領主殿。わたくし、聖王騎士団副総長にして、円卓の議席Ⅱ番に座す、イグナーツ・フォン・マンシュタインと申します。本日は教皇猊下の命により参りました」
「き、騎士団!?」
フレデリックが酷く狼狽する。後退しようと体を動かすが、両手をナイフで拘束されているため、距離を取ることができないでいた。
それを、イグナーツは珍妙な猿を見るようにして鼻で笑った。
「随分とお困りのようで」
「わ、私を殺しに来たのか!? 私は何も知らんぞ! 私は何もやっていない!」
まるで会話が成立しないことに、イグナーツは微笑しながら肩を竦めた。
「これでも騎士は大陸の平和と秩序の守護者ですので、そう露骨に怯えられると、いささか心外ではあります。まあ、そう興奮なさらずに。先ほども申し上げた通り、私は教皇猊下の命で赴きました」
その言葉を聞いて、フレデリックはハッとし、落ち着きを取り戻す。
「きょ、教皇?」
「ええ。随分と心配されていましたよ」
イグナーツが言うと、フレデリックは不敵に笑った。
「そうか、そうか! さすがは教皇様だ! すべてはお見通しということか!」
「左様でございますか。ああ、先にお伝えすることがあるのですが、教皇猊下からこちらに派遣した教会魔術師、すでに教会の方で引き取らせていただきましたので、ご承知おきを」
「構わん、構わん! まさか、ここまで私のことを気に入ってくださっていたとは恐縮だな! 不始末の証拠をきれいさっぱり、なくしてくれるということか!」
「まあ、そういうことなのでしょうね」
イグナーツが同意すると、フレデリックの笑いは最高潮になった。
イグナーツはそれを満足そうに見て、再度、一礼する。その後で、何やら手早く、卓上で滴るフレデリックの生き血を使い、何かの印章を描き始め、すぐに終えた。
「さて、皆まで言わずとも色々と納得いただけたようで、私としても手間が省けて何よりです」
そうして、踵を返そうとする。
だが、そこで、
「お、おおい! すまんが、この手を何とかしてくれないか? 自分じゃあどうにもならなくてな」
フレデリックは手元のナイフに視線を送った。すると、イグナーツは足を止め、ああ、と言ってフレデリックに近づいた。
「教皇猊下から言伝があったのを忘れておりました」
「いや、それよりも先にこれを――」
「〝神は天に知ろしめす。すべて世は事も無し〟」
「……は?」
フレデリックが間抜けな声を出すと、イグナーツもまた、小首を傾げる。
「ご理解いただけませんでしたか?」
「……何を言っている?」
イグナーツはそこで、ふむ、とだけ言い残して、踵を返した。フレデリックが慌てる。
「お、おい! 何をしている!? 早く助けてくれ! 痛くてしょうがないんだ! さっさと――」
「貴方がいなくても、世の中はいつも通り回りますよ、ということです」
イグナーツがそう言った直後、フレデリックの姿が消えた。ほんの一瞬、光の粒子のような物が飛び散ったかのように見えたが――そこに残ったのは、フレデリックが身に付けていた衣服だけだ。
イグナーツは懐から出した煙草を咥え、ライターを出すまでもなく、魔術で火を点け、軽く吹かす。
「存外に黒騎士はうまく動いてくれたようで、何よりだ」
そう独り言を呟いて、屋敷を後にした。




