第二章 血の国よりⅩⅧ
その音と振動は、落雷の如く城内にまで響いた。
「何事だ!?」
深夜三時過ぎ――ヴァーニィは、いつものように、自室で人間の女を弄んでいた。血を吸い終わり、ベッドの上で一息ついていた――そんな時である。突如として、城内が騒がしくなったのは。
ただならぬ騒々しさに、ヴァーニィは本能的に危機感を覚えた。急いで衣服を身に付け、私室から廊下に出ようとする。
その出会い頭に、城の使用人が扉を開けて室内に駆け込んできた。
「ヘンリー様、大変です! ダムが決壊しました!」
使用人が酷く狼狽した顔で声を張り上げた。
報告された内容に、ヴァーニィは両目を見開く。
「決壊!? 被害状況は!? 原因は!?」
「現在調査中です! 危険ですので、ヘンリー様は決してダムに近寄らずにお願いいたします!」
そう言い残し、呼び止める間もなく使用人は去っていった。
入れ替わり、今度は別の誰かがヴァーニィの私室前にやってきた。
ルスヴンと、カーミラだ。
「間違いなく奴らだな」
ルスヴンが眼鏡の位置を直しながら、この騒動の主犯を言い当てた。彼の言う奴らとは、無論、騎士たちのことである。
途端、ヴァーニィはトラウマを思い出したような顔になった。
「い、今すぐ逃げるぞ! ルスヴン、カーミラを連れて僕についてこい!」
しかし、ルスヴンもカーミラも、どこ吹く風という面持ちで、ヴァーニィを冷ややかな視線で見るだけだった
「どこへ逃げる? 逃げ先のアテはあるのか?」
「ダムがやられたなら、き、北に向かうしか……」
ヴァーニィはそこまで言いかけて、ハッとした。
「い、いや、きっと奴らはダムを潰したことで、僕らが北側に逃げると予想するはずだ! だったら裏をかいて、ダムのある東側へ行くぞ! それにもうすぐ日が昇る時間だ! 東側なら近くの街へ身を隠すこともできる!」
ヴァーニィはその推理を得意げに言ったが、聞いたルスヴンは懐疑的に鼻を鳴らすだけだった。
「大人しく北へ逃げた方が賢明だと思うが? お前が考えるようなこと、あの騎士たちなら容易に想像して先回りしてそ――」
「黙れ! お前は僕の執事でも何でもないんだろ! 嫌ならお前一人で北側へ逃げればいい! ただしその場合、もう二度と僕の力に頼ることはできないと思え!」
釜茹でされた豚のような顔色で、ヴァーニィが語気を荒げた。ルスヴンは、すんとした顔でヴァーニィを見据え、何も言わなかった。
そうしている間に、ヴァーニィは廊下の赤絨毯を踏み荒らすような足取りで、逃げる準備をするために私室へと戻っていった。
廊下にはルスヴンとカーミラだけが残り――カーミラが、徐に口を開いた。
「……いいのか、ルスヴン? 多分、彼らはダムの方にいると、私も思うぞ」
「あの豚がそういうのです。仕方ないでしょう。それに、彼らの目的は、恐らく貴女の救出です、カーミラ様。最悪の場合、私は一人で逃げます」
「ヴァーニィのことはいいのか?」
「ええ。利用できるうちは利用しますが、死ぬなら死ぬで結構。私自ら手を下さずとも、三貴族の一角が勝手に落ちてくれるのであれば、それはそれで僥倖です」
ルスヴンの言葉に、カーミラは眉を顰めた。
「やはりお前は、始めから三貴族を崩壊させるつもりで動いているんだな」
「国を変えるには、既存の支配体制そのものを変える必要がある。当然でしょう」
※
城からダムへ渡るには、両者を繋ぐ監査廊を通ればよかった。城のエレベーターで地下一階まで降り、そこから監査廊を通じてダム内部へと入るのである。
ヴァーニィは、ルスヴンとカーミラを連れ、その経路でダムに入った。ここから目指すのは、湖を挟んだ対岸側の湖畔だ。
三人は、ダム内部に入ったあと、監査廊から外へと続く扉を開け、放流側の堤体壁面にあるキャットウォークに足を乗せた。
「くそ! あいつら、なんてことをしてくれたんだ! このダムを造るのに、いったいどれだけの資金を費やしたと思っている!」
キャットウォークに着くなり早々、ヴァーニィが怒りに声を張り上げた。
ダムの放流管は基本的に、ヴァーニィの指示がなければ常に閉じられている状態だ。ゆえに、彼の認知していないところで水が流れ出ていることはない――にもかかわらず、今はとめどない量の水がダムから溢れ出ている状態だった。あたかもそれは、キャットウォークを覆うベールのような有様だ。しかも、水は放流管を通して出ているわけではなく、至る箇所に点在する見覚えのない大きな亀裂から放出されていた。
先に進むことも忘れ、わなわなと怒りに身を震わせるヴァーニィ――そんな時だった。
「カーミラ!」
上層のキャットウォークから、何者かの気配があった。ヴァーニィたちがそれに気付いたのとほぼ同時に、カーミラを呼ぶ声がそこから起こる。
見上げたカーミラの表情が、嬉々として明るくなった。
「ローランド!」
カーミラの視線の先にいたのは、ローランドと、騎士たちだった。
再会を喜ぶローランドとカーミラ――対して、ヴァーニィは顔を酷く青ざめさせた。
ローランドと共にいた騎士――シオンたちが、ヴァーニィの姿を確認した瞬間、目の色を変えてキャットウォークの下層へと移動し始めたのである。
ヴァーニィは慌てるあまり、たたらを踏んでその場で尻もちをついてしまった。
それを見たルスヴンが、心底呆れた顔で嘆息する。
「だから言っただろう。北へ逃げた方がいいと」
「う、うう、うるさい! いいからさっさと何とかしろ! ルスヴン!」
ヴァーニィからの指示を受け、ルスヴンは辟易しながらそれに従った。
ルスヴンが両腕を広げると、彼の足元に赤い陰のようなものが円状に広がる。
その直後、
「執事は俺に任せとけ! 今度はお前らの身体守りながらじゃなくていいからなぁ!」
上のキャットウォークから飛び降りたヴィンセントが、二丁拳銃でルスヴンを狙い撃ちながら名乗り出た。
突如として始まったヴィンセントとルスヴンの戦い――隠れ家でつけることのできなかった決着を今ここでつけようと、両者ともその姿を確認した瞬間に殺意を最大限にまで強めた。無数の弾丸と、血の槍と鎌が、放流中の水を弾き飛ばす勢いで幾度となく交わる。
その一方で――シオンとリリアン、それから少し遅れて、エレオノーラとローランドも、カーミラたちのいる階層に合流した。
「シオン様、我々はヘンリー・ヴァーニィの捕縛を」
瞬間、リリアンとシオンが、ヴァーニィに向かって疾走した。
ヴァーニィが悲鳴を上げる。
「る、ルスヴン! そっちはいいから、僕を助け――」
情けない声で助けを求めるヴァーニィだったが、唐突にダムの壁が横から勢いよく迫り出す。迫り出した壁はキャットウォークを塞ぎ、ヴァーニィとカーミラを、ルスヴンから分断する形になった。エレオノーラが魔術で逃げ道をなくしたのだ。
絶望の表情で固まるヴァーニィ――それから、恐る恐る後ろを振り返る。
そこには、シオンとリリアンが、極上の餌を見つけた肉食獣の如く迫る姿があった。
「く、来るな! カーミラがどうなっても――」
苦し紛れにカーミラを人質にしようと、ヴァーニィが彼女に手を伸ばしたが――
「カーミラ!」
「ローランド!」
すでにカーミラはローランドと抱き合っている状態だった。
「大丈夫かい?」
「ああ、何とかな……」
恐らくはシオンたちが駆け出した時よりも早いタイミングで、カーミラはローランドに向かって走っていたのだろう。
そんなことなどまったく気付かず、ヴァーニィは、ぽかんと口を開けたまま固まっていた。
しかし、すぐにまた目の前に意識を強制的に戻すことになった。
「こちらの問いに答えていただければ、命までは奪いません」
ヴァーニィの眼前に、リリアンとシオンが立っていた。光の剣と刀が、鋏のようにヴァーニィの首元で交差する。
ヴァーニィは、魂を落としたように、その場に両膝を付いてへたり込んだ。
「貴女は何故、ステラ王女の居場所を知っているのですか? 彼女は今、どこにいらっしゃるのですか?」
「追加の質問だ。隠れ家であの執事と“騎士の聖痕”について何か話をしていたな? 何故お前が“騎士の聖痕”について知っている? 教会とつながりがあるのか?」
二人の騎士の声色は恐ろしいほどに落ち着いていたが、込められている殺気は本物だった。偽りの情報を少しでも混ぜれば、容赦なく殺すという意思が、ぴりぴりと周囲の空気を張り詰めさせていた。
ヴァーニィは堪らず失禁し、
「……ヴァン――」
震える声で喋り出した。
「ヴァン・ジョルジェだ! ステラ王女の居場所については、ヴァン・ジョルジェから聞いた! 王女は今、地下都市ランヴァニアに教皇と一緒にいるはずだ! 本当だ! 嘘じゃない!」
シオンが眉を顰めた。
「そのヴァン・ジョルジェというのは何者だ?」
「アルカード伯爵の従者ってことくらいしか僕も知らない! 僕が情報を仕入れる時によく利用する情報提供者の一人だよ! あ、あとは……そうだ! 君たちとは別の騎士の相手もあいつがやっているはずだ! も、もういいだろ! 王女について知っていることは、これで全部だ!」
「まだ答えてない質問がある。“騎士の聖痕”については?」
「ヴァーニィ家が昔、教会に対抗するために“騎士の聖痕”を調べていたことがあったんだ! その研究結果をルスヴンに渡しただけだ! 頼むよ、もうこれ以上のことは何も知らないんだ! 本当だ!」
ヴァーニィは、雨に濡れた小型犬のようにガタガタと全身を震わせる。
それを見たシオンとリリアンは、一度視線だけの会話をし、
「……さっさと失せろ」
武器を収めた。
ヴァーニィが一目散に駆け出し、瞬く間にシオンたちから距離を取った。
「くそ! 覚えてろよ、お前ら! 絶対に復讐してやるからな!」
そうやって捨て台詞を吐き出した時には、すでにキャットウォークの遠い先まで移動していた。
そんな時、ちょうどそのすぐ近くで、ミシミシと妙な音が鳴り始める。
「特に、リリアン・ウォルコット! 今度会った時は、お前の穴という穴を犯しつくして全身の血を搾り取ってやる! せいぜいそれまで股を綺麗に洗って――」
何か卑猥で下劣な挑発をしていたが、それを最後まで言わせないとばかりにダムの壁が部分的に崩壊し、そこから溢れ出た水にヴァーニィは流されてしまった。悲鳴を上げる暇すらなかった。
シオンたちは、キャットウォークから放流先を見下ろした。勢いよく流れ出る水は、夜の闇に飲まれるように消えている。
「妥当な末路だ」
「はい」
これでヴァーニィの件は片付いたと、シオンとリリアンは長い息を吐いた。
だが、まだ終わりではない。
ヴィンセントとルスヴンの戦いがまだ続いているのだ。
ヴィンセントとルスヴンは、キャットウォークの上層と下層を縦横無尽に行き交いしながら互いの武器を交えていた。
ヴィンセントの二丁拳銃から放たれる弾丸、ルスヴンの血から作られた槍や鎌――それらは互いの急所を狙うように飛び交い、一対一でありながら、軍隊同士が衝突する戦場さながらの激しい攻防を繰り広げていた。
不意に、二人の動きが同時に止まった。放流する水に当てられたのか、消耗する体力も激しかったようだ。双方、肩を大きく上下させて呼吸し、この微かな間に無理やり息を整えようとする。
そんな時、不意にカーミラが、ローランドに支えられながら、ルスヴンに近付いた。
「ルスヴン! ヴァーニィは死んだ! もうお前に戦う理由はないだろう!」
ルスヴンはカーミラの声に反応し、彼女の方へ向き直った。
交戦中に突然背を向けられたヴィンセントはというと、怪訝になりながらもいったん銃口を下げた。
「ん? なんだ、やめんのかぁ?」
カーミラが、さらに少しだけルスヴンに近づく。
「ルスヴン、もう欲しい物は手に入れたんだろう? だったら、このまま大人しく引き下がってくれないか?」
懇願するようなカーミラの眼差しだったが、ルスヴンの表情は冷めきっていた。眼鏡の奥にある赤い双眸は、死人のように濁っている。
「残念ながら、それはそちらが許してくれなさそうですが?」
その視線が、カーミラの後方へと向けられる。
そこには、シオンとリリアンがいた。
「ヘンリー・ヴァーニィから、貴方に“騎士の聖痕”に係わる何かしらの情報が渡ったと、聞きました。それを知ってしまっては、騎士として貴方を野放しにしておくことはできません」
リリアンの言葉を聞いて、ヴィンセントが思い当たる節があるように口を開いた。
「お前さん、俺とやり合っている最中も、随分と自分の懐を気にかけていたよなぁ? 水に濡れることすら避けている感じだった。何を隠し持ってやがる?」
指摘され、ルスヴンは黙り込んだ。
決壊したダムから溢れ出る水の音だけが、沈黙の間をつないだ。
しかし、
「ルスヴン!」
カーミラが叫んだのとほぼ同時に、戦闘が再開された。
ルスヴンは再度、血を自分の周囲に展開させる。直ちにヴィンセントに向かって攻撃を仕掛けるが――今度は、リリアンとシオンも戦闘に合流した。
議席持ちの騎士三人を相手取ったルスヴンの戦いは、それから十秒も持たなかった。
刀で全身を斬りつけられ、光で左腕を焼き落とされ、弾丸で体の至る箇所を撃ち抜かれる――そのあまりにも一方的な戦いに、カーミラとローランドは、沈痛な面持ちで目を背けた。
変わり果てた姿で床に勢いよく転がるルスヴン――キャットウォークの手摺に掴まりながら、弱々しく立ち上がった。
そこへ、三人の騎士が止めを刺すべく迫るが――
「待ってくれ!」
カーミラがそれを制した。
「……カーミラ様」
ルスヴンが、割れた眼鏡をそのままに、主の姿を見遣る。
カーミラの顔は、今にも泣き出しそうなほどに、頼りなく歪んでいた。
それを見たルスヴンが、小さく笑う。
「……貴女には、十年以上お仕えしてきましたが――まさか、こんな決別の仕方をすることになるとは。初めて会った時は、まったく想像もしていませんでした。貴女が、貴族として――三貴族の当主として相応しい御仁であれば、私も貴女を裏切ることはなかったでしょう」
自嘲気味に言ったルスヴンの話を聞いて、ヴィンセントが舌打ちした。
「何甘ったれたこと言ってんだ、こいつぁ。自分で選んだ行動を誰かのせいにしている時点で、お前さんはそこまでの男だよ」
それに対し、ルスヴンが挑発的な笑みを見せる。
「始めから世界の強者として君臨するお前たち教会側の人間には、私たち貴族が抱く積年の恨みなど知る由もないだろうな」
「おう、知らねぇよ。んなことより、被害者ぶってねぇで、やるのかやらねえのか、はっきりしろよ」
ヴィンセントが再び銃口をルスヴンに向けた。
そうしてまた空気が張り詰めるが、
「ルスヴン、戻ってこい。まだやり直せる」
カーミラが、ルスヴンに手を差し伸べた。
一瞬、ルスヴンの瞳が大きく動いたように見えた。
しかし――
「お断りです、カーミラ様」
ルスヴンが、寄りかかるキャットウォークの手摺を自ら破壊し、放流先の闇へと消えていった。
唐突に訪れたあまりにも呆気ない幕切れに、一同は暫くその場で硬直した。
やがて、カーミラがよろめきながら歩き出し、ルスヴンが消えた闇の先を覗き込む。
「大馬鹿者が……」
長年、苦楽を共にした従者との別れを、その一言に込めた。




