第二章 王女の決意ⅩⅣ
思えば、始まりは逃亡のような旅路だった――いや、実際そうなのだろうと、ステラは思っている。
ステラにはすでに両親がいない。物心ついてすぐ、王子である父と、その妃の母は病で亡くなった。ゆえに、祖母――女王は、ステラにとって、もっとも尊敬し、模範となる身近な大人であった。
女王が崩御した後、心の整理がつかないまま、瞬く間に国は乱れていった。
大国としての地位を維持するために王位継承権を持つステラを担ぎ上げようとする者、一方で、未熟な子供では対外的な示しがつかないとそれを渋る者――国の為政者たちは、日々、ステラの扱いに頭を悩ませ、夜遅くまで議論を重ねていた。しかし、それでも、当事者であるステラは一度も〝その場〟に呼ばれることはなかった。ただ、その結果だけを聞いて、これから先の振る舞いを、言われるがままに為すだけであった。
それが日常と化して半年ほど経った頃に、ガリア公国が圧力を強めてきた。もとより、ログレス王国とガリア公国は隣国であるがゆえ、長い歴史の中で何度も対立した。国家元首が不在となった今こそ、ガリアにとっての好機――長年に渡っての因縁に終止符を打つ瞬間であることは、自明であった。
そして、ガリア公国はステラの身柄を保護という名目で要求してきた。国家元首が不在である隣国への救済的な内政干渉――そんなわけのわからない言葉を使って、ログレス王国へ侵攻したのだ。ステラを手中に収めれば、ガリア公国は名実ともにログレス王国を支配下に置けると算段していた。
ステラは、この時になってようやく、自分の〝価値〟を知った。置物のように生きていれば、あとは誰かが何とかしてくれる――そんな甘い考えの裏側で、何人もの命が散ったのを目の当たりにした。
それに何かを思う前に、ステラは王都を追い出され、王国辺境の地へ逃がされた。
――貴女さえ生きていれば、この国はすべて元に戻せる。
その言葉を、とある大臣は最期の間際に投げかけてきた。
ただ、生きていればいい。そうすれば、すべてが丸く収まる。〝その時〟が来るまで。しかし、その時とはいったい――
非力な自分にできることなどない、だが、自分の声で誰かが動いてくれる。
その命を散らしたとしても、それはすべて〝大義のための正義〟のもとに赦されるはず――
今、目の当たりにしている光景は、ステラが抱いていたその根本的な考えのすべてを、真っ向から否定した――その象徴でもあった。
元に戻ることなど、もはや何もないのだと、思い知らされた。
※
異形の怪物と化したアリスを目の当たりにして、エルリオはがっくりと膝をついた。それをアリスが、どす黒い双眸で見下ろす。
「オジ、サン、オジサン」
可愛らしい少女の声はどこにもなく、しかしそれでも、発せられる言葉は無垢なものであった。
ステラが、堪らずその場で吐いてしまった。隣にいたエレオノーラが、咄嗟にその背中を擦った。
呼吸を整えたあと、ステラは体を震わせながらもう一度アリスを見た。
「何なんですか、何が起こったんですか、〝これ〟? どうしちゃったんですか!?」
「そうだよ、これだよ!」
その問いに応えるようにして、メンゲルが歓喜の声を上げた。
「僕が目指していたモノに今までで一番近い結果だ! 変質した骨格と筋肉から見て、おそらくは騎士と同等以上の身体能力を得ているといってもいい! それを騎士のように長い年月をかけずに得られるというのは非常に画期的だ! まさに新人類の誕生だよ! 発している言葉からして副作用的に若干の知能低下がみられるが、これはむしろ好都合だ! 犬のように、指揮者の言うことを無条件に聞くよう教育することができるぞ! はじめて教皇様にいい報告ができるよ!」
メンゲルは、アリスの周囲を忙しなく走りながら観察した。その首を、シオンが片手で掴み上げる。メンゲルが短い苦悶の声を上げたが、それでも彼は笑顔を崩すことはなかった。よほど、アリスの実験結果が嬉しかったのだろう。
「いったい何が起こった?」
シオンの問いかけに、メンゲルは興奮を抑えきれない様子で、
「き、騎士の肉体強化と同じはずだよ、本質的には。亜人に〝騎士の聖痕〟を施すと急速な細胞の活性化が起こるせいですぐに死んでしまうが、ハーフのあの被検体は人間の血が入っているおかげでうまいことそれを抑制できたらしい。僕の仮説は、おおよそ当たっていた」
首を絞められているのにも関わらず、偉く楽しそうに答えた。
「戻せるのか?」
「戻す? 何を?」
「あの子を、もとの状態に戻せるのか?」
「無理無理。騎士だって一度その肉体を強化させてしまったら元には戻れないんだ。それと同じだよ」
シオンは、メンゲルを壁に叩きつけるようにして解放した。メンゲルはすぐに立ち上がってアリスにまた近づこうとしたが、本人が感じる以上にダメージが大きかったのか、力尽きるように倒れてそのまま意識を失った。
それには構わず、シオンは、今度はエレオノーラを見遣る。
「エレオノーラ、こいつの言っていたことは本当か?」
不意に話を振られ、エレオノーラは驚いた反応を見せるが、すぐに目を逸らし、口を動かした。
「……多分、本当。今の魔術では、異形化した生物を元に戻す技術はない。魔物が、その最たる例。魔物も、もとの材料にした生物に戻すことはできないから」
隣で聞いていたステラの目が、大きく見開かれる。それからステラは、アリスを見た。
アリスは、伯父であるエルリオに、小動物が懐くようにすり寄っていた。異形の体躯であっても、その顔だけはアリスのままであり、表情はどこか安心しているものだった。
「オジサン、ドウ、シタノ?」
呆然とするエルリオに訊くアリス――その顔に、エルリオは体を震わせながら両手を伸ばした。
「ナンデ、ナイテルノ?」
小首を傾げるアリスの黒い瞳には、エルリオの泣き顔が映っていた。
エルリオは、優しく姪の頭を抱き寄せる。
「――すまない……!」
声を絞り出すように言って、アリスの頭を撫でた。
アリスはそれをくすぐったそうにして、笑顔になる。その後で、
「オジサン、オカアサン、ハ? ココニ、イル」
無邪気に訊いてきた。エルリオが嗚咽混じりに歯を食いしばり、アリスをさらに強く抱きしめる。
「オジサン?」
「お前のお母さんは、少し遠いところに行ってしまった。だが――」
そこで、エルリオは、シオンを見た。シオンは、それを待っていたかのように歩みを進めた――ナイフを引き抜いて。
ステラが、よろめきながら前進する。
「待ってください。何をするつもりですか?」
「アリスを殺す」
当然のように言い放ったシオンに、ステラが激昂した。
「なんで殺すんですか! この子はまだ意思を持って生きている! もとに戻す方法を探して――」
「世話をする時間と労力がどこにある?」
「世話をする時間と労力って、そんな家畜みたいに――」
「何のあてもないのに、この状態のアリスを、どうやって、いつまで守り続ける?」
シオンの淡々とした問いかけに、ステラは言葉を詰まらせる。
「あのフレデリックとかいう領主は教皇――教会ともつながっていた。これだけの騒ぎになったんだ。すぐに騎士団がやってくる。そうでなくとも、この国の軍がアリスを見れば、貴重な実験体として扱うはずだ。そうなれば、この子が死ぬよりも辛い目に遭うのは目に見えている」
そう言って、アリスの近くに立った。だが――
「その子は何もしてないじゃないですかぁ……!」
ステラが、シオンの腕にすがるようにしがみつき、酷い泣き面を見せた。
「こんなの、理不尽すぎます! この子は、アリスちゃんは、ただ、またお母さんと一緒に暮らしたかっただけなのに!」
シオンがそれをやんわりと振り払おうとするが、ステラはそれを拒む。
「お願いです! 私が、私が何とかします! 私が女王になって何とかします! だから、この子を殺さないでください!」
「今のお前じゃこの子は救えない」
シオンがはっきり言った。それを聞いたステラは手の力を弱め、がっくりと腰を抜かした。
シオンは、エルリオに視線を向ける。
「いいな?」
シオンの問いかけに、エルリオは重々しく頷いた。
シオンが、アリスの喉――青白い肌から浮き上がる血管部分にナイフを添える。ヒトであれば、急所である頸動脈に相当する箇所だ。アリスを抱き締めるエルリオの力が、一層強まる。
「オジサン?」
「……もう少しで、お母さんと一緒になれる。また、森に帰れる」
「ホント?」
また、アリスが笑顔になった。
「――ああ」
それから、エルリオは、シオンを見た。
「頼む、黒騎士殿」
シオンは、その言葉を聞いて、腕を振り切った。アリスの首筋に通ったナイフが頸動脈を切り裂き、そこから鮮血が溢れ出る。
「オジサン、ネムイ……」
「……おやすみ、アリス」
「オヤスミ……」
アリスの身体から力が失われ、その巨体はゆっくりと地に伏した。




