第一章 黒騎士シオンⅠ
一般の汽車の運行がなくなった深夜、山奥を走行する騎士団専用の囚人輸送列車が、今まさに鉄橋に差し掛かろうとしていた。輸送列車は蒸気を吐き出しながら甲高い汽笛を上げるが、今宵は生憎の空模様で、激しい雨と風、雷によってそれも虚しく掻き消された。
黒騎士の死刑判決から丸二年が経った今日この日――刑執行のために、黒騎士の身柄は、監獄から処刑場へと移送されている最中だった。
囚人を収監する車両の中央に、黒騎士は白いローブ姿で、棺のような拘束具に黒いベルトで固定されている。目隠しと猿轡が付けられ、手足の動きの一切を封じられている状態だ。
「ここ数年じゃあ一番の嵐かもな」
その両脇を固めるようにして、白い戦闘衣装を纏った二人の衛兵が立っている。退屈したように、衛兵の一人が、片割れに何気なくそう話しかけた。
「酷い雨風だ。汽車の振動よりも響く」
声をかけられた衛兵が、どことなく不安げな面持ちでぼやく。
「何か、急にさっきより振動が強くなっていないか?」
「多分、鉄橋を渡ってるんだろ。さっさと渡りきってほしいね。何だか嫌な予感がする」
「おい、そういうことあまり口にしないでくれ。無駄に不安になる」
二人の衛兵は軽口を叩き合いながら、各々が感じる異様な雰囲気を払拭しようとした。
だが、それらは杞憂とはならず――
「な、なんだ?」
ガタン、と大きな音を立てて、車両が上下左右に大きく揺れた。車両内に吊るされていたランプが激しく揺れたあと、室内の灯りが一斉に消える。
「脱線か!?」
衛兵の言葉を裏付けるかの如く、今度は車両が上下にひっくり返った。鉄橋を渡っていた輸送列車は、突如として上流から来た濁流と土砂崩れに横っ腹から飲まれてしまう。先頭車両から最後尾の車両まで、自然の猛威が容赦なく襲い掛かった。乗り合わせていた人間は誰もが悲鳴を上げることすら叶わず、無情にも嵐の闇の中へと消えていった。
※
微かな木漏れ日しか届かない森林の中を、一人の少女が息を切らして走っていた。
外見はまだ幼く、十五歳前後といったところだ。セミロングに整えられたバーミリオンの髪を激しく靡かせながら、青い目を忙しなく周囲に走らせている。長期の旅を想定していたのか、革製の服を中心とした動きやすい軽装で、丈夫そうな背嚢を背負っていた。
「まずい、まずい……!」
少女の後方から、さらに二人分の足音が聞こえてくる。少女はそれに怯えるようにして、自分を奮い立たせるように独り言を呟いていた。少女は、見通しの悪い複雑そうな道をあえて選び、倒木や岩を飛び越え、ひたすら森の奥へと進んでいく。
「そこの娘! 止まれ!」
怒号に近い男の声が聞こえ、その直後に発砲音が鳴った。少女はそれに短い悲鳴を上げ、一瞬だけ後ろを振り返る。
数十メートル後方から、青い軍服と小銃で武装した二人の男が迫って来ていた。大陸四大国のひとつ――ガリア公国の軍人たちだ。それを認識した少女は、改めて足に力を込めた。
しかし、片足が岩に乗った瞬間、靴の裏が大きく滑ってしまった。先日の嵐のせいで、乾ききっていなかった岩肌が摩擦を失っていたのだ。
「うわっ!」
少女はそのまま体勢を大きく崩し、岩の陰に隠れてあった斜面を転がり落ちてしまう。咄嗟に頭を両腕で守りながら、落ち葉と小枝を体に纏いつつ暫く転がった。ようやく止まったのは、転がった先の小さな崖に落ちて、その下にあった川岸の砂利に体を叩きつけてからだ。顔面を砂利に打ち付け、無言で悶えつつ、涙目になりながら弱々しく地面から体を離す。
「どこにいった!」
先ほどの軍人たちの声が、崖の上から聞こえる。少女は急いで崖の陰に身を縮めて息を潜めた。
増水した川の流れの音に負けじと、軍人たちと思しき足音が大きくなっていく。少女は口を両手で押さえ、自身の鼓動を強く感じながら、ひたすらにこの場をやり過ごそうと音を殺した。
「もう少し上流の方に行くぞ。また隠れる場所を探して森の奥へ行ったのかもしれない」
崖のすぐ上から、軍人たちの声が聞こえた。幸いにも崖下が死角となっていたため、軍人たちは少女に気付かなかったようだ。
軍人たちの足音が遠ざかってから、少女はゆっくりと下流に向かって移動を開始した。
「痛っ!」
斜面を転がり落ちたせいで、身体の至る所に痛みがあった。どうにか歩くことはできるものの、もう森の中を飛び跳ねながら走ることはできそうになかった。
「なんで、なんでこんなことに……!」
今の自分の境遇を呪った言葉が自ずと口から零れた。すすり泣きながら、川岸を伝って下流へと足を引きずって歩いていく。愚痴っても仕方がない――そう自身を奮い立たせ、腕で乱暴に涙を拭う。
その時だった。ふと、川岸に白い人影が転がっているのを見つけた。ローブのような服を着ており、頭をフードですっぽりと覆っている。右半身を川に浸からせながらうつ伏せに倒れた状態で、生きているようには見えない。
少女は、恐る恐る、できるだけ距離を取りながら、その人と思しき物体の脇を通り過ぎようとした。そこでふと、嫌な想像が頭を過ぎる。
「……ここで捕まったら、私もこうなるのかな」
倒れている白いローブの人物を見て、少女は暗い声で呟いた。
「そうならないように、大人しく捕まってくれませんかね。ステラ様」
少女――ステラは自身の名を呼ばれ、青ざめた顔で振り返った。小さな崖の上に、ガリア軍の兵士二人が、小銃をこちらに向けて立っていた。
「うまいこと引っかかってくれたな。手間取らせやがって」
兵士たちが崖の上から降りてくる。
ステラは咄嗟に後退したが、砂利に躓き、尻もちをついてしまった。
「もう逃げられませんよ。大人しくついてくるなら、無傷で王都までお送りすることを約束します」
「どのみち私を殺すつもりなんでしょ!」
「それはうちの国の偉い人が決めることなので。ただ、抵抗が激しかった場合は、最悪死体を連れ帰っても構わないと命令を受けています」
兵士の回答にステラは強く歯噛みした。銃を持った軍人二人を相手取って逃げることなど不可能――彼らの言う通り、大人しく捕まるしか道がないのか。
両目をきつく閉じ、悲運を嘆くように項垂れた――と、その時だった。
「なんだ!?」
兵士の一人が、突然声を荒げた。それまでステラに向けられていた小銃の銃口が、彼女の後方へと向けられる。ステラが振り返ると、さっきまで死体だと思っていた人間が、少しずつ動き出し始めたのだ。その体は長身でやや細身だが、白いローブを纏った上からでもどことなく引き締まった逞しい印象を受ける。フードの隙間から覗く顔は、酷く伸びきった黒髪のせいでどんな顔つきなのかよくわからなかったが、辛うじて双眸が赤いということだけはわかった。
「それ以上動くな! 貴様、何者だ!」
兵士が叫ぶが、ローブの人間は何も応えない。
「まあいい。どのみちこの現場を見られたなら生かしておくわけにもいかない」
「そうだな」
兵士たちが互いに頷くと、銃口が改めてローブの人間を捉えた。小銃の引き金が絞られ、乾いた音と共に弾丸が撃ち込まれる。
そして、兵士の一人が、頭から後ろに吹き飛んだ。吹き飛んだ兵士がそれまで立っていた場所に替わっていたのは、ローブの人間である。吹き飛んだ兵士はというと、頭部を酷く変形させた状態で、砂利の上で沈黙していた。恐らく、もう生きていない。
なにが起きたのか理解できずにステラは呆けていたが――
「き、貴様――」
もう一人の兵士が、咄嗟に銃口の向きをステラからローブの人間へと変える。だが、小銃はいつの間にか兵士の手から離れており、銃身が剣の如く彼の胸を貫いていた。兵士は困惑した表情のまま口から血を吐き出し、生々しい音を立てて倒れた。
ここに来てようやく、ステラは状況を理解した。このローブの人間が、兵士二人を瞬殺したのだ。あまりにも現実離れした光景だったが、自分の目で見た以上、受け入れざるを得なかった。
ステラは、目の前にいる得体の知れない存在に、これまでに感じたことのない恐怖を覚えながら、ただ茫然と慄くしかなかった。
そんな時、ふとローブの人物の視線がステラへと向けられた。ルビーのように鮮明な赤色の瞳に、怯えたステラの姿が映し出される。
そして、
「ここはどこだ?」
ローブの人物がそう尋ねてきた。声質からわかったことは、まだ若い男であるということだ。
ステラは何とかして声を出そうとするが、恐怖でまともに口と舌を動かすことができなかった。
「聞こえていないのか? ここはどこだ?」
男が少しだけステラに近づく。そこでようやく、ステラは体を動かせるようになった。急いで立ち上がり、咄嗟に男から距離を取ろうとした。だが、全身の痛みのせいで、すぐにまた転んでしまった。
そこへ再度、男が近づく。
「こ、来ないで! 殺さないで!」
ステラが絶叫すると、男は足を止めた。
「あの二人は撃ってきたから殺した。お前が何もしないなら、俺も何もしない」
異様に落ち着いた男の声に、ステラは少しだけ冷静さを取り戻す。
「ほ、本当に何もしませんか?」
「ああ。それより、ここがどこなのか教えてほしい」
ステラはゆっくりと立ち上がり、男を正面に据えた。
「ろ、ログレス王国とガリア公国の国境付近にある森林地帯です。国土としてはログレス王国に属している領域で、数年前まで亜人であるエルフ族の独立自治区だった場所です」
「……そんなところまで流されたのか」
男は増水した川を眺めながら、自身の状況を確かめるかのように呟いた。それから、不意に兵士二人の死体へと近づき、身なりを確認した。
「こいつらはガリアの軍人か。お前、追われているのか?」
「え、えっと……」
男の問いに、ステラは口籠った。それから数秒の沈黙が続いたあとで、唐突に男が下流に向かって歩き出した。何の前置きもない突然の行動に、ステラが慌てて後を追いかけた。
「え、あ、ちょっと、どこ行くんですか?」
「さあ? とりあえず、食事と衣服を調達できる場所に出るまで歩く」
ステラのことなどまるで興味がないように、男は素足のまま川岸を歩く。
その行く手を阻むようにして、突然、ステラが男の前に立った。
「あ、あの、私、ステラ・エイミスっていいます! 軍人をあっという間に倒してしまった貴方にお願いがあります!」
男は無言でステラを正面に見据えた。ステラはそれに少しだけ気圧されたが、どうにかして声を発しようと、喉と腹に力を入れた。
「この近くのどこかにエルフたちがいるんです! 私はそこを目指していて、でも、ガリアの軍人たちにも追われていて、だから――」
「エルフのいる場所まで護衛してほしい。そういうことか?」
「はい!」
ステラがうまく整理できていない言葉を、男が代わって発した。
男は少しだけ考えるように顔を伏せたあと、
「エルフは人間にあまり友好的じゃない。それに、つい最近あった戦争のせいで二年ほど前から人間との関係は――」
「それでもいかなきゃならないんです!」
そう言ったが、瞬時にステラが遮った。
ステラは不安げな面持ちだったが、同時に強い眼差しでじっと男を見つめた。
その表情に根負けしたのか、
「……わかった。他にあてもない」
男は少しだけ冷めた口調で了承した。
途端、ステラの表情が明るくなる。
「ほ、本当ですか!? ありがとうございます! あ、えっと――そ、その、今更なんですけど、お名前は?」
男はフードを外した。前後左右、肩まで伸びきった直毛の黒髪を少しだけかき分けた先にあったのは、声から予想した通り、二十歳前後の青年の顔だった。声質や体格などから間違いなく男なのだろうが、その中性的な顔立ちは一瞬美女にも見紛うほどに端正で整っていた。表情が読めない希薄な顔つきがどことなく儚げで、その美貌を一層際立たせさせている。
それにステラが少しだけ驚き、見惚れていると、
「シオンだ」
男――シオンは、そう名乗った。




