第二章 王女の決意ⅩⅢ
シオンは、気絶した兵士の身体を投げ捨てると、エルリオの傍らについた。
「無事か?」
「私のことはいい! それよりもアリスを助けてやってくれ!」
ぼろぼろになった姿で、エルリオは何よりも姪のことを案じた。
シオンが、いつになく厳しい表情で、教会魔術師の研究者――フリードリヒ・メンゲルを見遣る。何が起こっているのかは、黒騎士である彼には瞬時に理解できた。
強烈な殺気を込められたシオンの視線に気付いたのか、メンゲルが我に返った顔で振り向いた。
「お? お? これはまたどちら様で?」
「お前、自分が今何をやっているのか理解しているのか? その子はハーフエルフだ」
「もちろん。だからやっているんだよ」
答えて、メンゲルは再度基盤の操作に戻った。アリスの背中の〝騎士の聖痕〟は、もうすでに七割ほど完成している状態だ。
エルリオが、シオンの服を強く握りながら懇願した。
「頼む! あれを止めてくれ!」
しかし、シオンは強く歯噛みするだけでその場から動かなかった。それを見たメンゲルが、意外そうに表情を明るくしたあとで、にやにやする。
「そこの綺麗な顔のお兄さんはちゃんとわかっているようだね」
メンゲルの言葉を聞いて呆けるエルリオ――彼は続いて、無言でシオンにその意味を問うた。
「今このタイミングで印章の刻印を止めることはできない。止めれば――」
「このハーフエルフは高確率で死んじゃうだろうね。半分以上刻印が済んだ状態で中途半端にすると、肉体にとてもよくない副作用がかかってしまう。ちなみに人間でも同様の現象が起きるから、エルフの血が入っているとまず間違いなくそうなるだろうね」
そう言っている間に、アリスの〝騎士の聖痕〟はほぼ出来上がりの状態まで進んでいた。
エルリオは、瞳を震わせながら、呆然とそれを見ているしかできなかった。
そしてついに――
「さあ、出来上がったぞ! ハーフエルフに〝騎士の聖痕〟を刻んだのは、恐らく二千年近い大陸史の中でも僕が初めてだろうね!」
メンゲルが、満足そうに両手を上げて、自分の偉業を称えた。
その直後、シオンがメンゲルを床に抑えつけ、首にナイフを近づける。
「な、何をするんだきみは!?」
メンゲルは驚き、喚き散らした。シオンはそれに怒りの眼差しを返した。
「あの子はどうなる?」
「し、知らないよ! むしろ、それを知るためにこの実験をしたんだ! ハーフエルフは人間とエルフの混血だ。人間のように、ゆっくりと体に適合して強靭な身体能力を得るかもしれないし、エルフのように、細胞の異常活性が起こってすぐさま肉体の変形が起きて死んでしまうかもしれない。でもだよ! このハーフエルフの母親はエルフの中でも非常に興味深い記録を残して――」
余計なことを喋り始めたメンゲルの身体を、シオンは片手で持ち上げて壁に叩きつけた。
「なら、〝どうにかなった時〟のために備えろ、今すぐに!」
美女と見紛うほどに整った顔が怒りで酷く歪み、それを見たメンゲルはまるで悪魔を前にしたかのように慄いた。
「そ、備えるって、な、ななな何を備えれば――」
シオンは何も言わずにメンゲルの身体を投げ捨てる。メンゲルは悲鳴を上げながら駆け出し、部屋の隅に縮こまってしまった。
それから、シオンは卓上の基盤に目を向けた。ややぎこちない手つきで、文字盤を操作し、アリスを隔離するガラスの壁を床にしまわせた。
すかさずエルリオがアリスのもとへ駆け寄り、彼女を縛るベルトを急いで外していく。エルリオはアリスを抱えると、ゆっくりと、優しく揺さぶった。
「アリス、大丈夫か!?」
伯父の呼びかけに応えて、アリスはゆっくりと目を開けた。
エルリオは、安堵に表情を綻ばせ、うっすらと涙を瞳に浮かばせる。
「アリス、聞こえるか!? 私だ、エルリオだ!」
「……伯父さん?」
アリスがか細い声を発して、上体を起き上がらせた。それから徐に、エルリオの身体から離れて自立する。その顔は虚ろで、瞳に生気は感じられなかった。
「アリス、どうした? どこかおかしいのか?」
エルリオがアリスの華奢な肩を揺すって訊くが、返答がない。
「……アリス?」
再度、エルリオが訪ねて――
「……お母さんは?」
アリスが言った。エルリオは、力いっぱいに歯を食いしばったあとで、再度アリスを見据える。
「……ソフィアは――お前のお母さんは、今は会えない」
「……お母さんは?」
エルリオの言葉を聞いても、また同じ質問がアリスから発せられた。
遠目から見ていたシオンが、妙な雰囲気を察する。
そこへ――
「シオンさん!」
ステラが息を切らしながらやってきた。それから少し遅れて、エレオノーラもやってくる。
「領主はどこにやった? ちゃんと連れてきてるだろうな?」
「少し前の部屋に縛って置いてる。アンタが通り掛けにボコった教会魔術師数人と一緒にね。ていうかさ、アンタが人質にするって言ったんだから、最後までちゃんとあのジジイの面倒見なさいよ!」
「シオンさん、一人でさっさと行かないでくださいよ。まあ、おかげで私たちは安全にここまでこれたんですけど」
エレオノーラとステラが、各々の不満を隠さずに文句を言ってきた。だが、そんな二人も、この部屋の張り詰めた空気を察して、すぐに静かになる。
直後、ステラが、アリスとエルリオの姿を見て安堵した表情になった。
「アリスちゃんとエルリオさん、無事だったんですね! よかったぁ」
しかし、その隣では、エレオノーラがシオンと同様に訝しげに眉を顰めていた。
「ねえ、何があったの?」
「アリスの背中に〝騎士の聖痕〟が刻まれた。今は、それから目を覚まして間もない状態だ」
それを聞いて、エレオノーラの表情は一層険しくなった。
一方で、
「お母さんは?」
アリスは、同じことしか話さない。ここでようやく、エルリオもその異様さに気付いた。それまでアリスを説得しようと、一生懸命に事情を話していたが――
「お母さんは?」
もはや正気とは言えない状態のアリスに、言葉は意味をなさないと悟った。エルリオは咄嗟にアリスを抱き締める。
「すまない……! お前の母親は……助けられなかった……!」
アリスが、何も言わなくなった。エルリオは怪訝な顔で、徐にアリスを体から離す。
そして――
「その子から離れて!」
悲鳴のような声を上げたのは、エレオノーラだった。エルリオは一瞬だけその切迫した声に振り返ったが、すぐにまたアリスを見た。
アリスが、急に苦しみ始めた。背中の印章からは血飛沫が吹き出し、アリスはそれに耐えきれなくなったように両膝をつく。
「アリス!」
エルリオがすぐさまアリスの身体を支えるが、呼びかけられた彼女が上げた面は――
「――っ!」
思わず、エルリオはアリスから距離を取った。アリスの顔は、まるですべての筋力を失ったかのような表情をしていた。顎は外れるまで開ききり、そこから舌が劣化したゴムのように伸びている。眼球は眼窩から零れんばかりに飛び出し、その色はどす黒く変色していた。やがて髪の毛が抜け落ち始め、体の色素も抜け、石膏のような体色になる。続けて、不気味な音がアリスから発せられた。獣が骨を貪るような、有機的で思わず耳を塞ぎたくなるような音だ。
間髪入れずに、アリスの小さく華奢な身体が、激しく変形していく。バキバキと音を立てながら、首、胴体、四肢が、もとよりも二倍以上に細長くなった。肩甲骨あたりからは、通常、人体にはないはずの骨が皮膚を破って突き出し、羽毛を失った翼のように露出する。
最終的に、アリスは、もとの体躯の三倍以上の大きさになり、あたかも、それが〝天使に呪われた咎人〟のような姿になった。辛うじて、顔だけはアリスのままだったが――その光景に、シオンたちはただただ絶句し、戦慄するしかなかった。
「オカア、サン……」
そして、アリスはただひたすらに、異形の姿になってもなお、母親を求めるだけであった。




