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辺獄の黒騎士  作者: シベハス
第一部
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第二章 王女の決意ⅩⅡ

 目を覚ましたエルリオが最初に感じたのは、左肩の激しい痛みだった。続いて、やけに湿っぽい空気に不快感を覚える。それからさらに数分後、朦朧としていた意識がようやく晴れてきた。呼吸も整ったところで、ゆっくりと上体を起こす。


 目を凝らしてみると、今いる場所は、上下四方がコンクリートで囲われている個室であることがわかった。覗き窓のある鉄製の扉が一つ設けられているだけで、他にはなにもない。


 エルリオは、自分がどこかの独房に入れられていることを察した。より詳しく部屋を確認するため立ち上がろうとしたが、両手に鉄の枷をつけられていることに気付く。後ろ手にされているせいで、うまく体のバランスを取れなかった。


 何故こんなことになっているのか、枷を忙しなく鳴らしながら、直近の記憶を辿っていく。


「宿で何者かに襲撃を受けて、それから――」


 そしてすぐに、アリスのことを思い出した。


「アリス、アリスはどこだ!?」


 扉に勢いよく寄りかかり、覗き窓に向かって必死に吠えた。


「アリス、どこにいる!? アリス!」


 突如、それに応じるかのように扉が開かれた。扉に体重を預けていたエルリオの身体が、支えを失って床に倒れる。床に体を打ちつけたエルリオは、短く呻いて周囲を見渡した。眼前にいたのは、覆面を被った兵士たちだ。制服からしてガリア軍の兵士なのだろうが、どうにも様子がおかしい。


「立て」


 妙に抑揚のない声で兵士が言った。エルリオは、力の入らない体を何とか奮い立たせ、立ち上がる。


「……ここはどこだ?」


 荒い息遣いで訊くが、兵士たちは無視してエルリオの背を小銃で小突いてきた。


「余計なことは聞くな。黙って指示に従え」


 仕方なく、エルリオは言われるがまま前進した。


 歩いた先にあったのは、薄暗く、先の見えない長い廊下だった。消えかけの足元灯を頼りに暫く進み続けると、ひと際大きな扉の前に到達した。兵士の一人が脇のレバーを引くと、ガコン、という音と共に扉がせり上がる。扉を抜けてさらに先へ進むと、廊下は徐々に明るくなり、周囲の様子もはっきりとわかった。やがて、とある大部屋に入ると、そこは酷い血の匂いで満たされていた。少し視線を横にやると、幾つもの寝台が規則的に並べられていた。寝台には黒革のベルトがいくつも備え付けられており、シーツにはどす黒い染みが影よりも濃く残されている。


 いったい何を目的にした施設なのか――理解しかねていると、


「ああ、生きてたんだ。よかった、よかった」


 妙に楽しげな男の声が大部屋に響いた。強い光に目を眩ませながら、エルリオはその人影を見遣る。


「この収容所にいるエルフが女子供ばかりでサンプル収集に難航していたんだ。活きのよさそうな男のエルフは思わぬ収穫だ。ハーフエルフの子供も手に入ったし、今日はとても良き日だ」


 そこには、白衣を纏ったやや若い人間の男がいた。男は、何やら興味深そうにエルリオを眺めたあと、今度は忙しなく手元の書類に視線を移した。


「採血した遺伝情報を調べてみたが、きみはあのハーフエルフと血縁関係にあるようだね。ますます期待値が高まる」


 何を言っているのかわからないが、エルリオは、この男を目の当たりにした途端、かつてないほどの嫌悪感を覚えた。ここまでの不快感に苛まれるのは初めてだと、酷く顔を顰める。


「何の話をしている?」


 エルリオが睨みを利かせてそう訊くと、白衣の男は上機嫌に近づいてきた。


「エルフにも個体差があるんだ。同じ実験をしても、その結果には結構な差が出るんだよ」

「……貴様は何者だ?」


 エルリオが尋ねると、男は自らの失態に気付いたかのように短く声を上げた。


「ああ、すみませんねえ。まだ名乗っていなかった。僕はフリードリヒ・メンゲル。教皇様の依頼を受けて派遣された教会魔術師で、この収容所で行われているエルフを使った実験の現場責任者だ」


 白衣の男――メンゲルはそう名乗り、軽く会釈をしてきた。しかし、エルリオの興味はそんな男の名前などではなく、


「エルフを使った実験?」


 その言葉だった。朦朧としていた意識が、一気に冴える。同時に、黒騎士と王女の言っていた言葉が思い出された。連れ去られたエルフたちが、収容所からどこにも出回っていなかった、と。


 最悪の結論が脳裏に浮かんだ時、エルリオが狂犬のように唸った。


「貴様! まさか同胞を使った人体実験をここで行っていたのか!?」


 その苛烈な剣幕にメンゲルは驚きながら後退し、露骨に嫌悪した表情で睨み返してきた。


「な、なんだきみは、急に怒鳴って。さっきそう言ったじゃないか。同じこと訊き返さないでくれよ!」


 メンゲルは早口で怒りながらエルリオから離れ、とある機械の前に立った。無数のボタンやレバーを備えた、操作基盤のような装置だ。一方のエルリオは、噛みつかんばかりの勢いで前のめりになるが、抵抗むなしく、兵士たちに体を抑えつけられた。


「ちょっとそこで静かにしててくれ。先にハーフエルフを試したい」


 そう言って、メンゲルは装置のレバーを下ろした。すると、大部屋の床の一部が音を立てて開き、ガラスの壁でできた小さな部屋がせり上がってきた。


 そして、その中心の寝台にうつ伏せで縛り付けられているのは――


「アリス!」


 意識を失った、裸体のアリスだった。


 メンゲルは、手元の基盤を忙しなく操作しながら、鼻歌混じりに独り言を話し出す。


「このハーフエルフはこの間の実験で使ったエルフの直系だ。もしかしたら、もしかするぞぉ」


 それを聞いたエルリオが、ハッとしてメンゲルを見遣る。


「この間の実験で使ったエルフの直系? どういうことだ?」

「どうもこうも、このハーフエルフの親族ってこと以外にないだろう。ちょっと考えればわかるだろうに。確か、遺伝関係的には母親に相当していたかな? 個体名はソフィアだったか」


 エルリオは顔を白くした。


「〝騎士の聖痕〟を刻んだあと、一番長く生きていたんだ。残念ながら三日ほどで死んでしまったけど、驚くべきことにそのエルフだけがヒトの形をまったく失わずに、衰弱死という結果になったんだよ。そんなサンプルの子供、しかもより人間に近い遺伝情報を持つハーフエルフなら、史上初、亜人への〝騎士の聖痕〟の適用例が――」


 メンゲルの独り言は、エルリオの慟哭によって掻き消された。


 アリスの母親――つまりエルリオの妹は実験体として扱われ、命を落としたのだ。救おうとしていた命のひとつが、そのような最期を迎えていたとは受け入れられず、泣き叫ぶことしかできなかった。


 メンゲルはそれを、まるで汚物を見るかのような目で蔑む。


「ああ、もう! 静かにしてくれないか! 折角いい気分だったのに!」


 そう苛立ちながら、手元の基盤の操作を継続した。次に、アリスの真上の天井から、幾つもの機械のアームが出てきた。アームの先は鋭利な針状になっており、パチパチと青白い光を発している。それらはやがてアリスの背中へと伸びていき、彼女の背中に〝何か〟を刻印し始めた。


「んー、体が小さいから調整が難しいね。一回きりだし、慎重にやらないと」


 エルリオが、兵士に抑えつけられながらも、必死になってアリスのもとへ向かおうとする。


「アリス! 目を覚ましてくれ! アリス!」


 妹の忘れ形見となった姪に向かって、声帯を潰しかねない勢いで呼びかける。だが、一向にアリスは目覚めない。そんな光景を目の当たりにしたメンゲルが、突然、癇癪を起したかのようにずかずかとエルリオへ近づいていく。


「ああ、もう! 気が散るだろ! うるさいんだよ! お前は後! 今はハーフエルフなの!」


 そう言って、エルリオの顔面に何発も蹴りを見舞った。エルリオがぐったりと倒れ込むと、メンゲルは気を取り直すように白衣を正し、再び基盤の前に立って操作を再開した。


 アリスの背中に、再び、〝印章〟が刻まれていく。


「――アリス……」


 エルリオのか細い声など届くはずもなく、着々とアリスの背中に〝騎士の聖痕〟が刻まれる。


 どうすることもできないのか――と、諦めかけた時だった。


 不意に、エルリオの身体が軽くなる。なにが起きたのか、蹴られた痛みに堪えながら面を上げると、そこにあったのは――


「遅かったか」


 黒騎士が忌々しそうに、兵士を捻り潰している姿だった。

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