第四章 蝋の翼ⅩⅠ
シオンは、クラウディアの治療が行われた部屋で、彼女が目を覚ますのを待った。錆だらけのパイプ椅子に腰を掛け、瞑想するように耽っていた。
待ち続けてちょうど一時間が経とうとした時、クラウディアの口から小さな寝起きの声が漏れる。
「目を覚ましたか」
シオンが声をかけると、クラウディアは施術台の上で暫く呆然としていた。天井からの明かりを眩しがることもなく、冷静な面持ちで、自分に何が起きたのかを頭の中で噛み砕いているようだった。一分ほどしきりに目を瞬かせたあと、徐に上体を起き上がらせ、施術台の上で両膝を抱えるように座り直す。
「アンタは自分の体のことを知っているのか?」
クラウディアは、シオンがいることに特別驚いた様子も見せず、しっかりと頷く。
「……うん」
クラウディアの表情は、何かを諦めたかのように達観としていた。自らの不運などとうの昔に受け入れたかのように、悲しみも怒りも枯れているような顔だった。
「いつから、どうしてそんな体になった? ヴァンデル将軍のせいか?」
「……まあね」
「何があった?」
不躾に訊いたシオンだったが、クラウディアは思いのほか饒舌に話してくれた。
クラウディアはまず、自身が二ヶ月ほど前に病死したことを説明した。それにシオンが口を挟む間もなく、今度は、父であるヴァンデルが雇った“流転の造命師”フリードリヒ・メンゲルによって自身が蘇らせられたことも話した。加えて、その施術に“騎士の聖痕”が利用されていること、亜人の人体実験も同時に行われていることも――
「“騎士の聖痕”を使って死人を蘇らせる……」
クラウディアの話を聞き終わったシオンは、眉間に深い皺を寄せて唸るように呟いた。
三ヶ月前にルベルトワでメンゲルと会った時、彼はエルフを使った人体実験を進めていた。亜人への“騎士の聖痕”適合実験と称し、騎士に代わる強力な戦士を造ることを目的にしていたはずだ。それがどうしてここでは死者を蘇らせる実験に変わったのか――シオンはそんな疑問を抱きながら思案を巡らせた。
そうやって一人考え込むシオンには構わず、クラウディアは不意に大きな溜め息を吐き、天井を仰いだ。
「実験がうまくいったとは到底言えないけどね。この体はいつ崩壊するかもわからない。その恐怖に怯えながら毎日を過ごすことを考えたら、いっそあのまま病気で死んでいた方がよかったとさえ思っているわ。生きていたところでこの基地から自由に出ることも許されないし。ただ生かされるだけの人生なんて拷問同然よ」
クラウディアは声を震わせながら両膝をぎゅっと抱えた。シオンが気遣わしげに眉を顰める。
「死ぬのが怖くないのか?」
「怖いに決まってるわ。でも、こんなゾンビみたいな体で生かされているくらいなら、潔く死んだ方がマシだった」
「未練もないのか?」
「未練は……ある」
クラウディアは寂しそうに伏し目がちになった。
「私、生まれてからずっと体が弱くて、お父さんのいるこの基地の中でしか生活したことないんだ。だから、本当に一度だけでいいの。外の世界をこの目で見てみたい」
「それで町を目指していたのか?」
クラウディアは自嘲気味に鼻を鳴らす。
「たかが町に行くだけで大袈裟なって思ったでしょ。でも、私にとってはそれが人生でやり残した最後の夢なの。今なら“騎士の聖痕”ってやつのおかげで身体能力が上がっている。だから、頑張れば町に行くことくらいできるんじゃないかって思っているの」
「だが、さっきみたいに何の前触れもなく突然意識を失うようじゃあまりに危険だ。アンタの父親、ヴァンデル将軍が神経質になるのもわからなくはない」
シオンの見解に、クラウディアは表情を曇らせる。
「……あの人は、私の身体のことだけを心配しているわけじゃないわ。私を蘇らせるために多くの亜人を使って酷い人体実験をしている。それを公にされたくないのよ」
「何でそう思う?」
「本当に私のことを考えてくれるなら、私の言うこと、もう少し聞いてくれるはずだもん……」
そう言って、クラウディアは自身の膝と胸の間に顔を埋めてしまった。
どんな手を使ってでも娘を生かしたい父親と、残された人生の過ごし方を自らの意思で決めたい娘――双方の思惑が見事にすれ違っているのは第三者のシオンの目から見ても明らかであり、どうにも口を挟みにくい話題だった。
シオンは疲れたように短い溜め息を吐いたあと、早々に話を変えることにした。
「話は変わるが、身体に痛みはないのか? 意識を失った後、劣化のせいで体の至る所がぼろぼろになっていたが」
クラウディアが面を上げて首を横に振る。
「痛みは一切ないわ。それに、意識は失ったわけじゃない」
「どう見ても気絶したようにしか見えなかったが?」
妙な強がりを見せてきたとシオンは怪訝に思った。だが、クラウディアはいたって神妙な面持ちだった。
「体の自由がきかなくなった後でも、不思議とぼんやり意識はある感じなの。あのメンゲルっていう教会魔術師は、それを“魂”の離脱って言っていた。けど、まさにそんな感じだわ」
思いがけない言葉がクラウディアの口から発せられ、シオンは顔を顰めて訝しがる。
「“魂”?」
「うん。体の自由がきかなくなっている間は、“魂”が体から抜け出して世界を彷徨っている状態らしいの。なんていうか、寒くて暗い監獄の中に他の“魂”と一緒に無理やり押し込められたような、そんな息苦しさははっきりと覚えているわ。例えるなら、風邪で高熱出した時に見る悪夢みたいな感じ」
「わかりやすいかどうかは別にして、結構具体的だな」
疑念の目を向けるシオンに、クラウディアは鼻を鳴らしてそっぽを向いた。
「信じてないでしょ? まあ、なったことある人間にしかわからないわよね、こんな話。あ、でも――」
しかし、すぐにまたシオンの方を向いて、大事なことを思い出したような声を上げる。
「今日のは、ちょっとだけいつもと違ったかも」
まるで珍しい動物を見つけたかのような表情でクラウディアが言った。
「違った? 何が?」
「寒くて暗い監獄の端っこに、明るくて暖かい場所がある感じがしたわ。そこだけ他に“魂”がなくて、誰かが一人だけぽつんといた」
「誰かって、誰だ? お前の知り合いか?」
クラウディアの突拍子もない言葉に戸惑いつつ、シオンが訊いた。クラウディアは頭を横に振る。
「知らない人。ていうか、人間じゃなかった。凄く綺麗だったけど」
「人間じゃないって……亜人か?」
“魂”だけの状態で視覚的な情報を認識できるのか、といった疑問がシオンの頭の中に浮かぶが、それはいったん無視することにした。
クラウディアが頷く。
「多分、エルフの女のヒトだった。長い耳に金髪、それと碧眼だったから。あと、“左目の周りに大きな傷”があった」
刹那、シオンは心臓を氷漬けにされたような思いに見舞われた。赤い双眸を大きく見開き、彼の周りだけ時間が制止してしまったかのように動かなくなる。
「な、なに? 確かに信じられない話しかもしれないけど、そんなに驚くような話だった?」
それにクラウディアが驚いていると、シオンは恐る恐る口を開けた。
「そのエルフはそれからどうなった?」
「い、いや、特には……。あ、でも――」
そこでクラウディアは区切って、思い出すように視線を下に落とす。なぜか、物悲しげだった。
「何かを凄く後悔しているように見えたかも……。謝っているような、悲しんでいるような……」
シオンはパイプ椅子に座ったまま、蹲るように体を丸めた。それからきつく両目を瞑り、困惑に顔を歪める。
「……“リディア”が、“そこ”にいるのか?」
“左目の周りに大きな傷”――それは、“リディア”の容姿の特徴であった。




