第四章 蝋の翼Ⅵ
「こっからどうすんだよ?」
ユリウスはベッドの上に仰向けになりながら、隣の部屋のシオンに向かってそう訊いた。
兵士に連れられ、シオンとユリウスは基地の留置所に入れられた。上下左右をコンクリートの壁で囲まれ、廊下側だけが鉄格子になっている簡素な部屋だ。地下にあるためか気温が非常に低く、室内にも関わらず吐く息は白かった。部屋にあるのは粗末なベッドと洗面台、それにトイレがそれぞれ一つずつである。冬場の水道凍結を避けるためかトイレは水洗式ではなく落下式で、それが酷い悪臭を室内に充満させていた。
「いざとなったら強行突破する」
ベッドの上に腰を掛けるシオンがそう答えると、ユリウスは顔を顰めて舌打ちした。
「馬鹿かてめぇ」
「仕方ないだろ。黒騎士の俺は身分を明かすことができない。それに、もし全裸で身体検査なんてされれば一巻の終わりだ。背中の“悪魔の烙印”を見られた瞬間、この基地すべての銃火器の銃口が俺に向く可能性だってある」
「得意げに言うことかよハゲ」
理路整然と説明したシオンだったが、人に誇れるような立場でないことにユリウスが堪らず悪態をついた。
「グリンシュタットと王女を外交させるために来たのに、いつの間にか戦争することになったとか笑えない冗談はやめろよ」
「そうならないように今考えている」
薬を貰いに来ただけなのにどうしてこうなってしまったのか――シオンとユリウスは、そんな意味を込めた長い溜め息を同時に吐いた。
留置所の扉が開かれたのはそんな時だった。
続けて、複数人の足音が廊下に響き渡る。足音はそのままシオンとユリウスの檻の前まで続き、ぴたりと止まった。
格子の前にいたのは、兵士が二人と、ハンスとリカルドだ。
「出ろ」
兵士が檻の鍵を手早く外し、部屋から出るよう促してきた。
シオンとユリウスが怪訝な顔をしながら徐に檻の外に出ると、リカルドが騎士の身分を証明する剣のペンダントを軽く振りながら見せつけてきた。
「議席持ちパワー」
意味の分からないことを言ってきたリカルドに、シオンとユリウスはさらに眉根を寄せる。
「俺らが君らの身元引受人になった。感謝してよ」
そう言って貸しを一つ作ったような顔で得意げになるリカルド。ユリウスは心底嫌った顔で廊下に唾を吐き捨てた。
次に、ハンスが二人の手荷物を渡してくる。その中に、ここに来る時には持っていなかった小さな紙袋も一つ含まれていた。
「ついでに抗ウィルス剤も貰った。これでお前たちの目的は果たしたな?」
やけに手厚い手助けに、シオンは警戒心を引き上げながら訝しんだ。議席持ちの騎士二人がここまで協力してくれるとは全く思っていなかったからだ。
「そんな怖い顔で睨まないでくれよ。さっきも言ったけど、俺らはできるだけ君らに協力する。これもその一環だよ」
毛を逆立てる獣のような目つきをするシオンに対し、リカルドが大袈裟に肩を竦めた。その隣で、ハンスが踵を返しながら留置所の外へと続く方向を顎でしゃくった。
「お前たちはこの後すぐに町へ戻れ。帰りは軍の専用地下通路を使わせてもらえるよう頼んでおいた」
それを聞いたユリウスがほっとしたように息を吐く。
「そりゃ助かる。あの吹雪の中を歩くのはもう勘弁だったからな」
それから四人は、兵士に前後を挟まれるようにして基地の地上一階へと移動した。
基地の地上一階の大部分は幾つもの支柱に支えられた巨大なホールになっており、打ちっぱなしのコンクリートには至る所にダクトの配管が張り巡らされていた。そんな無機質な空間のなか、時刻は深夜一時に差し掛かるというのに、これから何かの訓練を始めるかの如く兵士や軍用車が忙しなく行き交っていた。
「アンタらはこれからここで何をするんだ?」
そんな慌ただしさを尻目に、案内役の兵士たちが一瞬離れた隙を見計らったシオンが唐突に口を開いた。彼の前を歩いていたハンスとリカルドが振り返る。
「基地の中を調べる。フリードリヒ・メンゲルの実験結果が十字軍に共有されている可能性が極めて高い。その裏取りをするつもりだ」
シオンの目つきが鋭くなり、それを見たユリウスが露骨に顔を顰めた。
「おい、まさかてめぇ、首突っ込むつもりじゃねえだろうな?」
しかし、シオンはそれを無視してハンスとの会話を続ける。
「フリードリヒ・メンゲルはルベルトワの収容所でエルフを使った人体実験をしていた。それがここでも行われているのか?」
「それもまだわからない。これから明らかにする」
「もし人体実験をしていたとして、ここの連中が素直に認めると思っているのか?」
「いや」
「どうするつもりだ?」
「これ以上は言えない。あまり余計なことをお前たちに知られると、それはそれで任務に支障が出る。もういいだろう。お前たちは早く町に戻って王女に薬を届けにいってやれ」
そう言ってハンスが話を強制的に終わらせようとした。シオンは食って掛かるように一歩前に出たが――案内役の兵士たちが戻ってきたため、大人しく引き下がらざるを得なかった。
その後、ハンスとリカルドは新たに来た兵士たちに連れられて基地の奥へと行ってしまう。残ったシオンとユリウスはというと、案内役の兵士に前後挟まれながら、町へと続く地下道へ連れていかれた。
その道中、
「何不貞腐れてんだよ」
ユリウスが煙草に火を点けながらシオンに訊いた。
「別に不貞腐れていない」
「優先順位間違えんなよ。今の俺らの最優先事項は、この薬を町にいる姫に届けることだ」
まるで利かん坊の弟を諭すような口調だったが、シオンはそれすらも面白くなさそうに若干へそを曲げた表情をしていた。
ユリウスが紫煙を吐きながら嘆息する。
「ったくよ。てめぇもあの王女と大差ねえじゃねえか。余計なことに自分から首突っ込――」
「あ、やっぱりここを通った! ねえ! ちょっと待って!」
地下道へ続く廊下を歩いていた時、不意に聞き覚えのある高い声が響いた。
丁字の枝道から二人に向かって駆け寄ってきたのは、クラウディアだ。
「ねえ貴方たち、これから町に帰るんでしょ? お願い、私も連れていって!」
一瞬足を止めたシオンたちだが、すぐに歩みを再開した。ユリウスは煙草を吹かしながら、コバエを払うようにしっしっと手を振る。
「町に行きたきゃ勝手に行きゃあいいだろ。なんで俺らに頼むんだよ」
「私、この基地から自由に出られないの!」
「で?」
「だから! この先の地下道を使おうとすると兵士にバレて町に行けないの! 地上の道なら兵士の目を誤魔化せるから、そっちから一緒に行こうって話!」
クラウディアが必死になって懇願するも、シオンとユリウスは何も反応しなかった。
「ねえ、なんで無視するの!?」
クラウディアは憤りながら二人の後を追ってくる。
「険しい道選んでまで、てめぇを連れていく動機も理由も、義理すらも俺らにはねえ。他当たれ」
そうやってユリウスが吐き捨てると、クラウディアはカチンときた顔になって目尻を吊り上げた。そしてなぜか、シオンの目の前に回り込む。
「なによ! ちょっとイケメンだからって調子乗ってんじゃないわよ!」
どうして俺の方に、とシオンが驚いて顔を顰めた。
「いや、今喋ったのは俺じゃなくてこっち――」
「女の子困ってるんだから助けなさいよ! さっきの騎士といい、どうして誰も私のこと助けてくれないのよ!」
シオンの言い分などお構いなしに、クラウディアは一方に吠えてきた。シオンの両方の二の腕を掴み、激しく揺さぶってくる。
突然の傍若無人な振る舞いに、ユリウスの額に青筋が浮かぶ。
「この馬鹿女が敵だったらよかったな。さっさと頭吹き飛ばして厄介払い完了だ」
ぼそりと言って、煙草のフィルターを苛立ちで噛み潰した。シオンはシオンで、身体を揺さぶられながら、疲弊したような嫌悪したような顔で、されるがままの状態だ。
「ねえ! 少しくらい話を――」
「その辺にしてください、クラウディア嬢」
そこへようやく助け船が来た。シオンたちを案内していた兵士二人が仲裁に入ってくれたのだ。
「基地の外に出られますと、またヴァンデル閣下がご心配されます。どうか早くお部屋にお戻りください」
「あいつが心配してるのは自分の立場でしょ! 私の監視に疲れるって言うなら、いっそ親子の縁を切ってほしいくらいだわ!」
兵士がクラウディアをシオンから引き剥がしてくれるが、彼女は今度、兵士の方へと食って掛かっていった。
「とにかく落ち着いて。ここはひとまず我らに従ってください」
「嫌! ねえ! そこの二人、お願い! 助けて!」
再び、シオンたちへ向き先が変わる。シオンとユリウスはげんなりした顔で視線を外した。
見かねた兵士が、やや強引にクラウディアの両腕を掴んで取り押さえる。
「クラウディア嬢! いい加減にしてください!」
「いい加減にするのは貴方たちの方でしょ! 私、知ってるんだからね! 貴方たちが亜人を使って酷い実験してること! 十字軍とかいう奴らと協力して、政府にも言えない良からぬことしてるんでしょ!」
シオンとユリウスは目を見開いた。
「何を言うかと思えば――」
「ここから出たら絶対に暴露してやる! マスコミや新聞社に全部ばらしてやる!」
ギャーギャーと喚くクラウディアを必死に抑え込もうとする二人の兵士――シオンとユリウスが驚いた顔でその光景を見ていると、
「……彼女が言ったことは真に受けないように」
やけに低い声で、そう忠告してきた。
シオンとユリウスは視線を交わし、刹那の間に無言の会議を始め、終わらせる。
そんな二人のやり取りを見ていた兵士の一人が、不意に近づいてきた。
「何だ、貴様ら? 町へ戻るのだろう。さっさと――」
そして、シオンとユリウスは床を蹴った。騎士の俊足は瞬時に兵士たちの背後へと回り込む。それから頭を殴って気絶させようと、二人は腕を振った――
「――!?」
しかし、シオンとユリウスの腕は、いともたやすく兵士によって止められた。その気になれば象すらも軽く吹き飛ばすことができる騎士の手刀――それを、ただの兵士が平然と見切り、片腕で止めたのだ。
「……貴様ら、やはりただの旅人ではなかったか」
掴まれた腕を振り払おうとするシオンたちの膂力が人外染みたものであることを感じ取ったように、兵士が唸った。
「そういうてめぇらも普通の人間じゃねえな? 強化人間ってわけでもなさそうだが――」
ユリウスが煙草を兵士の顔に向かって吐き捨てる。兵士が煙草の火を避けるために身体を少し反らすと、その腹に一発、ユリウスの蹴りが入れられた。続けてシオンも、兵士の腕を両腕で絡め取り、背負い投げの要領で投げ飛ばす。
騎士の力でそれぞれ吹き飛ばされた兵士二人――通常の人間であれば、それだけで体中の骨がばらばらになる。だが彼らは、いともたやすく受け身を取り、極めて落ち着いた様子で立ち上がった。
兵士たちは防寒具のコートを脱ぎ捨てると、筋骨隆々とした肢体を見せつけてきた。
直後、兵士たちの身体に異様な変化が訪れる。
身体が急速に膨らみ始めたのだ。軍服はビリビリと音を立てて裂け、腰から太ももにかけた部分以外がなくなってしまう。二回りほど巨大化したところで、今度は布のなくなった表皮から目に見える速度で黒い体毛が生え、瞬く間に熊のような毛並みが出来上がった。その頭部には人間の面影はほとんどなく、こめかみのあたりから一本ずつ猛牛のような角を生やし、ゴリラと猪を掛け合わせた悪鬼のような顔が備えられている。
「人間ベースの魔物――オーガか」
変わり果てた兵士たちの姿を見たシオンが、刀を引き抜きながら言った。
「我々の腕力に拮抗できる存在と言えば、騎士以外にはいるまい。先ほどの議席持ちの騎士に加え、貴様らもそうだったか」
オーガの顔から人の言葉が発せられる。
それが可笑しかったかのように、ユリウスが鼻を鳴らした。
「面白れぇ。仕留めそこなった以上、正面から相手してやるよ」




