第二章 王女の決意Ⅸ
いつになく忙しい今日この日に、領主フレデリックは苛立ちを隠せずにはいられなかった。時刻はとうに日付を跨ぎ、あと四時間で日が昇り始めるという頃合いだ。しかし、未だに仕事が終わらない。
フレデリックは、執務室の机に張り付くような形で、目の前の膨大な書類に目を通していた。
「おい! この明細の計算、間違えているぞ!」
怒号を飛ばすと、秘書たちが慌ててフレデリックが床に散らした書類を拾い出した。
フレデリックは椅子の背もたれを大きくしならせ、天井を仰いだ。
「クソ! 何だってこの忙しい時に――」
と、何かの愚痴を言いかけたところで、卓上の電話がけたたましい音を立てた。フレデリックは怒りで顔を引きつらせながら、乱暴に受話器を取る。
「誰だ! 今は忙しい! 大した用件でないなら――」
『私だ』
フレデリックは、電話先の声を聞いて顔色を青くした。座る姿勢を正し、受話器を持ち直す。
「あ、ああ、し、失礼いたしました!」
『忙しいなら、また日を改める』
「い、いいえ、滅相もございません! しかし、いったいこんな深夜に何用でございましょうか?」
『例のハーフエルフの件はどうなった? 日中、買い取り先と交渉したのだろう?』
フレデリックの顔中の毛穴から冷や汗が吹き出る。
「は、ハーフエルフでしたら、つい先ほど回収したと部下から報告を受けました。今頃、収容所に送られているはずです」
『それはよかった。だが、その先は少し急いでもらいたい』
「と、仰るのは?」
『騎士団の動きが妙だ。もとより、分裂戦争後からその兆候は見られているが、私の意向とはまた別に、何やら独自に動き出しているらしい』
その言葉を聞いて、フレデリックは受話器を強く耳に押し当てる。
「もしや、ハーフエルフの存在を悟られたと?」
『わからん。だが、希少なハーフエルフをみすみす騎士団に始末させるようなことはしたくない。少々勿体ない気はするが、早々に〝実験〟へ回せ』
「お言葉ですが、ハーフエルフを使ったところで〝実験〟がうまくいくとは――」
『構わない。ハーフエルフを使っただけで成功するとは考えていない。今必要なのは、サンプルの数だ。これまでエルフで駄目だった実験が、人間との混血であった場合にどのような結果をもたらすのか、それを知りたい』
「かしこまりました」
『期待している。次回の大公選挙では、私からも支持しておくことを検討しよう』
「きょ、恐縮でございます! 必ずや、実りのある成果をお伝えいたします!」
激励の言葉を受けて、フレデリックの顔が厭らしく歪む。通話が相手側から切られると、フレデリックは受話器を持ったまま急いでダイアルを回した。繋いだ先は、収容所だ。
「私だ。先ほど回収したと言っていたハーフエルフを早速〝実験〟に使え。失敗しても構わん。サンプルとしての実験結果さえ得られればそれでいい」
『かしこまりました』
フレデリックは受話器を置き、大きく息を吐きながら天井を仰いだ。先ほどまでの忙殺による苛立ちと疲労が吹き飛んでしまうかのような心持ちだった。次回の大公選挙が楽しみだ――自身が国家元首になったことを想像すると、自然と顔が緩んでしまう。しかし、すぐにまた気を引き締めた。
「おっと、のんびりしている場合ではないな。〝実験〟は収容所の奴らに任せて、私は私で領主としての仕事を果たさなければ――」
刹那、どこからか轟音が鳴り響き、屋敷全体が小刻みに揺れた。地震か――いや、これはどちらかと言えば、爆発の衝撃に近い。
フレデリックが慌てて椅子から立ち上がったのと同時に、執務室へ一人の兵士が入ってくる。
「領主様! こちらにいらっしゃいましたか!」
「何事だ!?」
「屋敷が何者かによって襲撃を受けております! 今、駐在する軍の兵士たちをこちらに緊急招集させておりますゆえ、領主様は急いで避難を!」
「襲撃!?」
フレデリックは驚いた声を上げたあと、ハッとして表情を改めた。
もしや騎士団が? だとしたら、非常にマズい。
フレデリックは袖机の鍵棚から、奴隷の売買記録と、〝実験〟に関わる全ての資料を取り出した。それらを鞄に乱暴に詰め込み、コートを羽織る。兵士に誘導され、逃げるように執務室を後にした。
だが、その直後、突然、屋敷の中央ホールにある一階正面扉が爆散する。その勢いは扉を破壊してもなお止まらず、続けて中央ホールに集合していた兵士たちが紙人形のように吹き飛ばされた。
「何事だ!?」
フレデリックが叫んだ矢先、壊れた扉に立ち込める黒煙から、人影が見えた。その人物は、この惨状の中ではあまりにも似つかわしくないほどに美麗で、可憐な容姿をしていた。
「お邪魔しまーす」
妙に気だるげな声を発して、黒煙の中から姿を現したのは、一人の若い女だった。薄い白桃色の髪を二つに分けて結っており、服装は動きやすそうなブラウスとロングスカートの組み合わせだ。だが、その可愛らしい見た目とは裏腹に、その手には、一丁の巨大な銃が握られていた。マスケットを模したようなライフル――物々しい様相に、フレデリックは顔をひきつらせた。




