第三章 信念は噓よりも危険な真理の敵ⅩⅥ
ミーアはまず、ラルフをオズボーン家の屋敷へ連れていった。オズボーン家が崩壊した今、屋敷は亜人の収容所として扱われており、ノリーム王国に住まうほとんどの亜人がここでの寝泊まりを強制されていた。
いつもなら屋敷には警備の王国騎士が多数配備されているのだが、今宵は違った。ガリア兵の工作活動により、屋敷周辺は無人の状態となっている。
ラルフがそのことに違和感を持つ前に、ミーアは急いで彼を屋敷の中へと誘導していった。
そして、中に入ったラルフは吃驚して言葉を失う。屋敷の広大なエントランスホールに、まるで彼がここに来ることを予め知っていたかのように、エルフ、ライカンスロープ、ドワーフといった亜人たちが、所狭しと集まっていたのだ。
亜人たちはラルフの姿を見るなり感嘆の声を漏らし、希望に満ち溢れた表情を見せてきた。
「ラルフ様だ! やはりラルフ様が俺たちを導いてくださるのだ!」
「おお……これでようやく計画を実行に移せる!」
「ついに、ついに私たちは自由になれる……!」
亜人たちがいったい何のことを話しているのか、ラルフは理解できないまま固まってしまう。
そこへ、
「皆、心待ちしていたのです。ラルフ様によって救われる今日この日を、ずっと」
ミーアがラルフの傍らに付いて、そっと囁いた。
「全容はここに来るまでの道中で説明させていただいた通りです。この国の亜人をグリンシュタットへ亡命させる計画は、秘密裏に同国の協力を得て、私を始めとした一部の亜人たちが水面下で練っておりました。しかし、さすがにこれほどの大人数を一斉に亡命させるのは至難の業。必ず成功させるため、その導き手となる方の登場を待っておりました」
未だに驚きで言葉を発せないラルフの手を、ミーアが優しく握る。
「そして、たった今、その導き手が皆の前に御姿を現してくださいました。ラルフ様、貴方のことです」
ミーアの言葉に、ラルフはハッとして目を見開く。
「さあ、英雄ラルフの誕生です。どうか、我々亜人をお導きください。今ここで巡り合ったすべての機会は、“貴方を勝利へと導く伝説の剣”です」
ラルフは唾を飲み込み、大きく喉を鳴らした。それから恐る恐る、亜人たちの前へと出る。
「皆、聞いてくれ」
ラルフの静かな一声を受け、亜人たちはすぐに傾聴の姿勢に入った。
そしてラルフは、一度大きな深呼吸をしたあとで、徐に口を開く。
「これから俺たちはこの国を脱出し、グリンシュタット共和国へと亡命する。もしかすると、突然のことで驚いている者もいるかもしれない。だがこの計画は、ミーアたち一部の亜人がグリンシュタット共和国の協力を得て、秘密裏に準備を進めてくれたことだ。だから安心してほしい」
この状況に戸惑いの表情を見せていた一部の亜人たちから安堵の吐息が零れる。
それを確認したラルフはさらに続ける。
「そして、何故このタイミングで実行されるのか――それは、皆も薄々勘付いているはずだ。明日、この国はガリア公国と軍事同盟を結ぶことになる。ガリアは同盟締結の条件に、この国に住む亜人の引き渡しを要求している。もしそうなれば、ここにいる全員がガリア公国で奴隷にされることは火を見るよりも明らかだ。そんな暴挙、許されていいわけがない!」
徐々に熱が籠るラルフの演説に、亜人たちの表情も自ずと強張っていく。
「さあ、今こそ決断の時だ! このまま大人しくガリアで奴隷となるか、それともグリンシュタットへ亡命し、新たな人生を俺と共に歩むか! 皆の返事を聞かせてくれ!」
ラルフの呼びかけに、亜人たちは続々と拳を突き上げながら声を張り上げた。
「ラルフ様の言う通りだ!」
「もうこんな国、うんざり!」
「奴隷制度が撤廃されてからもう何十年も経つってのに、結局も何も変わらなかった!」
「ラルフ様も一緒に来てくださると言うのなら、この国に何も未練なんてないわ!」
亜人たちの声は屋敷の壁を激しく震わせた。各々の主張はやがて一つの結論へと収束し――
「英雄ラルフ!」
「我らが救世主!」
「ラルフ! ラルフ! ラルフ! ラルフ!」
“ラルフは英雄である”とする大喝采、そこからの大合唱へと様変わりする。
ふとミーアが、ラルフの傍らにそっと寄り添った。
「ラルフ様、ご覧になってください。貴方は、落ちこぼれなどではありません。こんなにも、貴方のことを必要としてくれる“ヒト”がいる」
どれだけ蔑まれようとも、どれだけ罵倒されようとも、決して折れることなく、己の信念に従った結果が正しいものであったと、その証明を目の当たりにし、ラルフの双眸が感極まったように潤んだ。
「皆……ありがとう! 共に、行こう!」
ラルフの号令に、亜人たちは盛大な雄叫びで応えた。
その光景を一歩引いたところから見ていたミーアは、無機質な笑みを浮かべ、賛辞の拍手を送った。
※
ミーアには、特定の誰かを想うという感情が著しく欠落していた。相手が誰であっても、好きにも嫌いにもならない――たとえ、自分のことを性処理道具としか見ていない者にどんな酷い仕打ちをされても、彼女の心には何も響かなかった。逆に、どれだけ丁重な扱いを受けることがあっても、心からの感謝の念というものは微塵も生まれてこなかった。物心ついてから奴隷として生きていたため、他者に対する感情の抱き方というものを、ミーアは持ち合わせていなかったのだ。
そんな彼女だったが、これまでの生涯でただ一人だけ、特別な感情を抱いた人物がいた。
それが、ラルフだった。
しかしそれは好意ではなく、侮蔑や嫌悪の類であった。ミーアのラルフに対する評価は、亜人が人間を貶す時に使う蔑称――“バニラ”という言葉が、これほどまでに似合う男はいないだろうというものだった。
何の能力も権力もない非力な理想論者――その存在とすべての行動は、ミーアの神経を悉く逆撫でにした。
亜人を哀れみ、その人権を訴えるたびに吐き気を催した。
銃器を持たず、剣にこだわりを持って戦場へ赴く姿に寒気を覚えた。
いつか亜人を劣悪な環境から救い出すという立派な志を持つくせに、未だに亜人を虐げるノリーム王国の騎士として務めている矛盾に嫌悪した。
あまつさえあの男は、それらすべてを己の信念に従った結果とほざくのだ。ミーアにとってラルフは、愚かで非力な人間の、もっともたる象徴的存在だった。
ミーアはこれまで、ガリアの工作員、あるいは諜報員としての仕事に、やりがいや喜びというものを感じたことは一切なかった。
だが、今回は違う。
この愚かで非力な人間の男が、浅ましい感情に煽られ、自分の意のままに破滅への道を突き進んでいる姿を見るのが、面白くてたまらなかった。
そんなことを考えながらミーアは、ラルフ、亜人たちとともに、ノリーム王国の最西部へと赴いた。そこはグリンシュタット共和国と国境を接する区画であり、同国直通の線路を持つ駅が存在する。グリンシュタットと国交が盛んだった頃は、華やかで大きな賑わいを見せた駅だったが、オズボーン家崩壊に伴う当該区画のスラム化もあり、今となっては無人で廃墟同然の有様となっている。
「こちらです」
ミーアは、駅の入り口に張り巡らされていた立ち入り禁止のテープを切り落とし、ラルフたちをプラットフォームへ案内した。
そこには、いくつもの車両を繋げられたグリンシュタット制の装甲列車が、発車可能な状態で待機していた。無論、これはガリア軍の工作活動によって用意されたもので、本物のグリンシュタットの装甲列車ではない。
しかし、ラルフや亜人たちはそんなことなど露知らず、
「もうすでに発車の準備は整っております。王国騎士たちに気付かれる前に、急いで亜人たちを中へ」
ミーアに案内されるがまま、続々と中に入っていった。
亜人たちは慌てることもなく、淡々と静かに車両へと乗り込んでいく。それから三十分ほどで、運転士の亜人を含む全員の乗車が終わり――最後に、ラルフがミーアの手を引いた。
「さあ、ミーアも」
差し出されたラルフの手を見て、ミーアはほんの一瞬、彼にも気付かれないほどの刹那に、嫌悪に顔を歪めた。だがすぐに、その手を取ろうとした――が、突如として、プラットフォームに乾いた発砲音が鳴り響いた。
「区民からの緊急通報があって、先走って一人で飛んできたわ。ラルフ、何をしているの?」
見ると、硝煙を上げる拳銃を手に立つセシリアの姿があった。
ラルフが、ミーアの体を車両の中に押し込める。
「ミーア、先に行け!」
ラルフの行動に、セシリアは驚きと怒りで表情を歪める。
「ラルフ、貴方、何を――」
セシリアが咄嗟に何かを言おうとしたが、それは剣戟の音によって掻き消された。ラルフが突然、セシリアに向かって剣を振るったのである。セシリアは即座に自身の剣を腰から引き抜き、応戦した。
「ラルフ、貴方、何をしているのか理解しているの!?」
「ああ、ようやく目が覚めた!」
ここでセシリアが魔術を使えば、ラルフなど一瞬で打ち倒せるだろう。しかし、彼女はラルフの剣をひたすらに受け、捌くだけであった。
「俺が守るべきは、ミーアたちだ! 亜人を奴隷にするような、人道から外れたことをする国じゃない!」
「血迷ったことを……!」
セシリアは沈痛な面持ちで歯を食いしばり、ラルフの体を剣の圧で勢いよく引き剥がす。
「ラルフ、今すぐ剣を捨てて! これ以上身勝手なことをすれば、いくら私でも貴方を庇いきれない!」
「そのような情け、今となってはもはや不要だ!」
セシリアの投降勧告に構わず、ラルフは再度彼女に向かって剣を振るう。男女の体格差もさることながら、単純な剣技ではラルフの方が上手だった。
魔術と銃の使用を躊躇うセシリアが、列車とは逆方向に追い詰められていく。ついに彼女は、剣を弾かれ、後ろから床に倒れ込んだ。
亜人を積んだ列車から、ひと際大きな蒸気が上がり、駅の空気が激しく震えた。
「ラルフ様、出発の準備が整いました!」
ミーアが、車両出入り口から身を乗り出し、ラルフにそう告げた。
ラルフは、尻もちをついたまま悔しそうに見上げるセシリアに、剣の切っ先を向ける。
「ここまでだ、セシリア。俺は、ミーアたちと共に行く」
「ラルフ……!」
歯噛みするセシリアを背に、ラルフは剣を収めて踵を返す。そのまま列車へと駆け足で赴き、車両の出入り口前で待機するミーアの隣に立った。
「ミーア、よくやってくれた。これで、俺たちは――」
刹那、銃声が一発鳴り響く。それとほぼ同時に、ミーアの体がずるりとプラットフォームに倒れ込んだ。
セシリアの拳銃から放たれた弾丸が、ミーアの左肩を撃ち抜いたのだ。
その間に、準備を整えた列車が、ゆっくりとプラットフォームから動き出す。
「ミーア!」
床に血だまりを作るミーアに、ラルフが青ざめた顔で呼びかけた。
そこへセシリアが、拳銃の銃口を突きつけながら迫る。
「ラルフ、大人しく投降して」
再三にわたるセシリアからの投降勧告――しかし、ラルフは顔に怒りを携えて立ち上がった。
「セシリア、君はなんてことを――」
「なんてこと? それはこちらの台詞よ!」
セシリアも、彼の怒りに負けじと声を張り上げる。
「亜人の引き渡しは同盟締結のために避けては通れない条件! ガリア大公が直々にこの国に足を運んだというのに、今この局面で亜人が一斉に亡命したなんてことになれば、ノリーム王国は間違いなく責任を問われ報復を受けてしまう! 貴方もガリア大公の容赦のなさは知っているでしょう!? そうなれば、この国はガリア軍によって滅――」
「滅んでしまえばいい! 俺は、もう決めたんだ!」
ラルフは、セシリアの言葉を断ち切るように、再び剣を引き抜いた。
それを見たセシリアが、銃把を握る手に力を込めつつ、弱々しく首を横に振る。
「ラルフ……やめて、お願いだから。貴方は何もわかっていない」
「わかっていないのは君の方だ、セシリア! 俺の信念は、守るべきものがある限り、決して折れない!」
「ラルフ、やめて!」
剣を手にしたラルフが一歩踏み出したのと同時に、セシリアが悲鳴のような嘆願の声を上げる。
しかし――
「行くぞ、セシリア・ロス!」
ラルフは剣を振り被り、決死の形相でセシリアへと強襲した。
直後、セシリアが拳銃の引き金を引き――放たれた弾丸は、ラルフの額を貫いた。
ラルフの体は、糸を切られた操り人形のように後ろから倒れ、怒りの表情のまま天井を仰いでいた。後頭部からはとめどない血が溢れだし、線路に赤い軌跡を残していく。
セシリアは、脱力するように両膝を付いて項垂れた。
列車はすでに、完全に駅から旅立ってしまっている。
そこへ、
「彼は、命が尽きるその瞬間まで、己の信念を貫くことができたのです。自分を愛してくれる亜人が、大勢いることを目の当たりにできました。それまでの不遇な扱いからは到底満たされるはずもない承認欲求を満たしたうえでの戦死――本懐であったかと」
左肩の弾痕から血を垂れ流すミーアが、まるでその痛みなど感じていないかのように冷たい声で言った。
「……貴女に何がわかるの?」
セシリアが顔を俯けたまま、低く唸った。
ミーアは、光の灯っていない双眸で、ラルフの死体を横目で見遣る。
「昨夜、ラルフ様は私を抱かれました。その時に、ご自身の胸中をすべて語ってくださいました。私の体に貪るように吸い付き、それこそ発情した猿のように肉欲を発散しながら」
そう言ったミーアの顔には、一切の感情がなかった。
「清く正しく、高潔であろうとしていた人間が、ただのエルフ一人に誘惑されただけで、あのように必死に腰を振り出すとは――中々に滑稽で、趣がありました。そのあと、本人が己の失態に苛まれていた姿もまた同じく」
「ミーア……貴女は何者なの? いったい、何をしたかったの?」
セシリアに問われ、ミーアは数秒黙った。それから一瞬、ぐるりと眼球をあらぬ方に向けた後で、ゆっくりと口を動かす。
「……何も、何も」
まるでそれは、昔話を始めるかのような口調だった。
「私はガリア公国から遣わされたエルフのスパイです。この一件は私の願望から起きたものではなく、国の命令に従ったものになります。強いて私個人の望みを言うのなら、“愚かで非力なバニラ”が、独りよがりの信念を振りかざし、さらなる悲劇を引き起こす様を見てみたかった。どうやら私は、ラルフ様のように、無責任な正義を信念とのたまう人間が嫌いだったようです。ここに来てからの十数年間は、本当、苦行とも呼べるほどのストレスを感じていました」
ミーアの顔が、無表情から、徐々に薄ら笑いを浮かべるものになっていく。それは、喉につかえていた異物が、綺麗に吐き出されたかのような面持ちだった。
「今はとてもいい気分です。こんなに晴れやかな気持ちになったのは、どれくらいぶりのことか。ガリア大公直々の命令も果たすことができ、私にはもう、何も望むものはありません。心の底から、もう死んでもよいと思えるほどに、己の人生を全うしたと思っています」
ミーアが、ラルフの顔を見下ろす。
「それにしても、なんて醜く、愚かで、滑稽な姿でしょう。彼はきっと、己の信念を貫いた物語の主人公として、この上ない有終の美を飾ったと、あの世で思っているのでしょうね。まったくもって浅ましく惨めな――」
セシリアが、ミーアの頭部を撃ち抜いた。




