第三章 信念は噓よりも危険な真理の敵ⅩⅤ
ミーアは、ガリア大公が裸のままベッドの上で一服つけている傍らで、黙々と給仕の衣装を着直していた。首元から胸にかけて覗くエルフらしい白い柔肌の上には、ガリア大公によって付けられたいくつもの赤い痕が残っている。彼女は、下腹部に残る微かな異物感を覚えながら、鏡の前に立ち、最後に髪を整えた。
出立の準備が終わり、ミーアは、部屋の扉の前に立った。そこで一度振り返り、ガリア大公に向かって深々と一礼をする。
「それでは行って参ります、ガリア大公」
「抜かりなくやってこい。お前がただの性処理道具ではないということをしかと示せ。ええと、今は、ミーア、だったか」
「激励のお言葉、痛み入ります。不肖が承りました任務、必ずや成功させてみせます」
ふとミーアは、この“ミーア”という名が何番目のものだったか、思い出そうとした。彼女がこの名を名乗るようになったのは、十年以上も前の話である。奴隷商から逃げ出してきたエルフという体でこの国に潜り込んでから名乗り始めた名前だが、これまでに名乗った中で一番長く使われた名だった。今となっては、妙な愛着すら持ち始めている。
なお、本当の自分の名前は、もはや憶えていない。そもそもとして、出生の経緯を考えれば、自分に本当の名があったかどうかも疑わしい。
五十年以上前、物心ついた時から、ミーアはガリアのとある一家のもとで奴隷として飼われていた。それから二十年ほどの間、幾度となく飼い主を変え、奴隷としての日々を過ごしていた。
そんな彼女に転機が訪れたのは、とある貴族に飼われている時だった。
その貴族はある日、ミーアに別の奴隷の始末を命じてきた。その奴隷はミーアと同じエルフの女で、来客をもてなす接待要員として屋敷に住まわされていた。なぜその奴隷が始末されたのか。彼女は、とある会合の接待中に、来客の機嫌を酷く損ねてしまったらしい。飼い主である貴族はそれに激しく怒り、他の奴隷への見せしめにと、殺すことに決めた。
そしてその実行役に、ミーアが選ばれたのである。
ミーアは言われた通り、その奴隷の頭を躊躇いなくハンマーで叩き割った。ミーアとしては、ただ主人の命に従っただけのことだが――見物客たちは、その光景に強い嫌悪感を示し、各々大小様々な悲鳴を上げた。
だが、見物客たちの中に一人だけ、ミーアの仕事ぶりに拍手を送った人物がいた。それが、今のガリア大公――カミーユ・グラスであった。
当時、カミーユは貴族でありながらガリア軍の将校を務めており、同国の諜報部隊にも通じている人物だった。そんな男に、ミーアは目を付けられた。
命じられたままに、人形のように働くミーアのことを、カミーユ・グラスはとても気に入ったようだった。そして彼は、彼女を貴族から高値で買い取り、ガリアの特殊工作員として育てることにしたのだ。
ミーアはそれから、ガリア公国の諜報員になるべく、数年の訓練を経て、三十年以上も同国のために働いた。
ある時は里を追われたはぐれ者のエルフとして別の里に潜り込み、そこに住まうエルフたちをガリア公国の奴隷とすべく手引きをした。
またある時は、他国の有権者の懐に奴隷として入り、暗殺を実行した。
そして彼女は今、ガリア公国から辛くも逃れた哀れなエルフとして、このノリーム王国に十年以上潜伏しているのである。いずれガリア公国の脅威となるであろう、同国と同じく大陸四大国のひとつ――グリンシュタット共和国の動向を隣国の観点から探るべく、彼女はノリーム王国に赴いたのだ。
ノリーム王国に入国して早々、ミーアはオズボーン家に拾われた。当時まだ十歳にもなっていなかった嫡男のラルフが、野良猫のように行き倒れた“演技”をしている彼女を見つけたのだ。ミーアはそのままオズボーン家に給仕として雇われることになった。そこで長らく平穏な日々を過ごしつつ、裏では様々な諜報活動を行っていた。
三百年近い寿命を持つエルフであれば、十数年の出来事などさほど昔と感じることもないはずなのに――ホテルを出たミーアは、そんな当時のことをどこか懐かしみながら、王国騎士団の隊舎へと向かった。
時刻はすでに深夜の一時を回っていた。隊舎までの道のりに、民間人の姿は一人も見かけなかった。恐らくは、日中の魔物の襲撃を警戒してのことだろう。
今宵の隊舎も、街中同様、非常に静かだった。王国騎士のほとんどが、今もなお王城にて同盟締結の是非を議論する国王たちの警護に当たっているということもある。それに加え、ガリア軍兵士の工作活動もあり、隊舎の入り口から“とある部屋”に向かうまでのルートは、完全な無人の状態を確保されていた。
その“とある部屋”というのが――隊舎の地下倉庫隣に位置する、ラルフの部屋だ。
「み、ミーア!? 何故ここに――」
それまでベッドで眠りについていたラルフが、傍らに立つミーアの気配を察して目を覚ました。彼は思わず声を上げたが、ミーアが、すぐに唇を重ねて黙らせた。
ラルフは、ミーアからの一方的なキスを受けつつ、困惑の表情で固まった。異様なほどに静かな数秒を経て、ラルフが勢いよくミーアの体を引き剥がす。
「いきなり何をする!?」
ラルフの声は怒号に近かった。だが、ミーアが間髪入れずに、また唇を被せていく。今度は、ラルフも抵抗の意思を示せなかった。
「ラルフ様」
離した唇の間に糸を引かせながら、ミーアが呼んだ。
「どうか、この哀れなエルフと、最後の一夜をお付き合いいただけないでしょうか?」
唐突なミーアの願いに、ラルフはいよいよ混乱で呼吸を乱し始めた。
「何を、言い出す?」
「明日、この国がガリア公国と同盟を結ぶことになれば、亜人はすべて奴隷として同国へ引き渡されてしまいます。ですから、せめて最後に、敬愛するラルフ様に抱かれてから旅立ちたいのでございます」
エルフ特有の異常なまでに整った容姿でミーアは誘った。それを目の当たりにしたラルフは、きつく目を閉じて顔を背けた。
「い、いや、それは――」
「セシリア様を忘れられませんか?」
セシリアの名を聞いたラルフが、ハッと目を見開く。
「セシリアは……関係ない」
ラルフはそれから暫く、斜め下を向いて固まった。
そこへ、
「ラルフ様、私を見てください」
ミーアが、自身の服を雑に脱ぎながら、彼の下半身に跨った。
「私は、貴方を心の底から尊敬し、愛しております。まだラルフ様が幼かった頃からお仕えし、ずっと傍で見守らせていただきました。人間と亜人、分け隔てなく“ヒト”として接することを信条に、気高い志を胸に抱き、ひたむきに剣を振るうその御姿に、私は幾度となく心を打たれました。私がこの国で酷い仕打ちを受けてもなお生きられるのは、ラルフ様が常にお傍にいてくださったからです」
ミーアの艶やかな指先が、ラルフの腫れた顔に触れる。
「しかし、それほどまでに慈悲深く聡明なお方が、どうしてこのような仕打ちを受けなければならないのでしょうか? そして、こんなにもラルフ様が苦しんでおられるというのに、どうしてセシリア様は助けてくれないのでしょうか?」
ラルフの両目が大きく見開かれ、小刻みに震える瞳の中にミーアが映し出される。
「ラルフ様」
ミーアが、ラルフの体に体重を乗せた。
「例えこの世に審判の日が訪れようとも、私は貴方の味方です。貴方のすべてを肯定し、受け入れます」
ミーアはラルフの首に両腕を回し、互いの吐息がかかる距離にまで顔を近づける。
「そんな女の、ささやかな最後の望みです。どうか――」
ミーアが発しようとした言葉の最後は、ラルフの唇によって妨げられた。まるで、飢えた獣が極上の肉に食らいつくような勢いだった。
ラルフはそれから、ミーアの体を貪るように抱いた。ぼろぼろのベッドが悲鳴のような軋みを上げる。ラルフはそんなことなど意にも介さず、一心不乱にミーアと繋がった。
ミーアは、ラルフが腰を打ち付けるたびに小さく笑った。彼女の体内には、まだガリア大公の体液が残っている。そこにラルフの体液が注がれていくことが、妙に滑稽に思えてならなかったのだ。
果たして、亜人の奴隷化を正義とする男の体液と、自分の体液が、今抱いているエルフの体内で混ざり合っていることを知れば、ラルフはどんな反応をするだろうか――無論、そんなことは言わないが、ミーアは微かな愉悦を覚えつつ、ラルフの想いを受け入れるように彼の体を受け入れた
「……ありがとうございます、ラルフ様」
二時間は繋がっていただろうか。ラルフは、水中から上がったように大きな息を吐き、ミーアから体を離した。
「俺は……俺は、なんてことを……!」
すると、突然、ラルフは自分の行いを悔いるようなことを言い出した。ベッドの上に仰向けになりながら、目元を片腕で隠し、過呼吸のように息を荒げる。
「自分を心から慕ってくれたミーアを……こんな、こんな、衝動的な欲求を満たすためだけに……!」
そんなラルフの頭を、ミーアは胸元で抱き締めた。
「これでよいのです。誰一人として、不幸になどなっておりません」
「君は、君はどうして、こんな落ちこぼれの俺に、ここまで優しくしてくれるんだ……!」
「無論、ラルフ様を愛しているからでございます」
ミーアは、子供のように泣き始めたラルフの頭を優しく撫でる。
「先ほども申し上げたように、私のすべてはラルフ様です。たとえ貴方が世界のすべてから拒絶されようとも、私の心は常にラルフ様と一緒にあります」
ミーアの胸の中から、微かな嗚咽が起こる。
「あの騎士の言っていた通りだ……! 俺が、俺がもっと早くに行動していれば……! こんな国、さっさと見限っていれば……!」
ラルフはミーアの体を強く抱きしめた。
「ミーア……君を失いたくない……! 今この局面になって……こんなにも君が愛おしい存在だったと気付かされた……! ミーア……どこにもいかないでくれ……!」
「――もし、まだ間に合うとしたら?」
ミーアがラルフの耳元でそう囁くと、彼は救いの御手を差し伸べられたような顔を上げた。
「ラルフ様、今こそ、ご自身の信念に従う時です」




