第二章 おかあさんⅩⅣ
イザベラの宮殿は、ラグナ・ロイウの中央に、大聖堂と隣接する形で存在する。北に大聖堂、南には海を携え、この都市の最高権力者の居城として、荘厳かつ煌びやかに鎮座していた。
宮殿内部のとある広間では、夕方に開催されるニューイヤーパーティの準備が着々と進められていた。宮殿の使用人たちが、派手なクロスで覆われた長テーブルの上に、次々と豪勢な料理を運んでいる。
そのようにして宮殿全体が賑やかな活気に包まれているのとは別に――南側の海を展望できる小部屋にて、エレオノーラは一人、窓際で佇んでいた。特徴的な薄桃色の髪をストレートに下ろし、淑やかな紺色のドレス姿で、朱色を帯びつつある日没の太陽を、じっと眺めている。
そこへ、
「エレオノーラ。今日は少し落ち着きがないみたいだけど、何かあったのかしら?」
不意に、背後から声をかけられた。
振り返ると、小部屋の扉の前に、イザベラが立っていた。艶やかな長い黒髪と張りのある色白の肌は、三十を過ぎてもなお大衆の目に若々しく映る。その美しさは損なうどころか、一層の色香を携え、あたかも周囲を誘惑するかの如く、磨き上げられていた。
エレオノーラは窓際から離れつつ、気づかわしげな顔をするイザベラへと向き直る。
「何でもありません、お母様」
そう言って微笑む娘を見て、イザベラもまた表情を和らげた。
「そう? なら、よかった。もう少しでパーティの時間だから、ちゃんと準備を済ませておきなさい」
「はい」
短い返事をして、会話をそれきりに小部屋から出ようと、エレオノーラは扉へ向かって歩みを進める。
そんな時、ふと、イザベラが、またしても背後から――今度は、忍び寄るように手を伸ばしてきた。
「お母様?」
イザベラの手はエレオノーラの首筋に触れ、ねっとりと顔の正面に回された。自身の手の動きに合わせるようにして、イザベラの本体もまたエレオノーラの正面へと回り込む。
「本当、綺麗な顔をしているわ……エレオノーラ、私の愛しい娘……」
イザベラのその声色は、娘に向けるものというより、恋焦がれる意中の人へ囁いているかのようだった。イザベラは、ひとしきり嘗め回すようにエレオノーラの顔を両手で撫でると、不意に、目のあたりで動かすのを止めた。
「この金色の瞳――“あの人”にそっくり……」
まるで、ガラスケース越しに宝石を眺めているかのような眼差しだった。エレオノーラの顔をなぞるイザベラの指が、そのまま眼窩へと伸ばされるのではないかと思わせるほどに、そこには異様な高揚感が含まれている。
「貴女の体に、“あの人”と同じ血が流れていると考えるだけで……」
熱い吐息を漏らすイザベラは、恍惚とした表情でエレオノーラに顔を近づける。
互いの唇が触れるのに、あと既の所まで迫ったところで――
「お母様、お戯れはその辺にしてください」
エレオノーラが、自身とイザベラの顔の間に人差し指を立てた。
娘からの軽い叱責に、イザベラは正気を取り戻してハッとする。
「あら、ごめんなさい。ついつい」
イザベラはすぐにエレオノーラから離れ、口元を手で押さえながら愛想笑いをする。
部屋の扉がノックされたのは、その直後だった。エレオノーラが入室を許可すると、メイドが一人、開かれた扉の前に立っていた。
「イザベラ様、エレオノーラ様、会場の設営が整いました。そろそろご準備の方を」
「ええ、今行くわ」
イザベラの返事を受けたメイドが、その場で一礼をしてすぐに踵を返す。それに続いてイザベラも部屋を後にしようとした。
「それじゃあ、エレオノーラ。また、後でね」
イザベラは退室する間際、視線だけをエレオノーラに向け、妖美な微笑みを見せてきた。
それに応えるように、エレオノーラが軽い笑顔を見せ、母親の背を見送る。
そうしてまた、部屋にエレオノーラ一人だけが残った時――彼女の顔は、仮面を被ったかのように、感情を失っていた。
「――いかれたクソババアが」
※
開店前の閑散としたスラムの酒場に、緊張の糸が張り詰める。
刀の切っ先を眼前に突きつけられたネヴィルは、眉一つ動かさず、じっと黒騎士の動向を伺っていた。
「……シオン殿は、僕から何を知りたいんですかね?」
「アンタがこの件について知っていること全部だ。エレオノーラとイザベラの関係、実際どこまで抑えている? あの二人、本当に母娘なのか? それと、ソーヤーは何者だ? なんで今回の作戦に同行させる? 兄弟に見せかけて怪しまれにくくすることが本当の目的じゃないだろ?」
シオンは、刀の切っ先を徐々に下ろし、ネヴィルの首下に刃先を触れさせた。そのまま軽く引いただけで、頸動脈を斬り裂くことができるような状態だ。
「始めからアンタのことを信用していたわけじゃないが、いよいよ不安になってきた。俺と本当に組む気があるのなら、この件に関わること、今すべて話せ」
シオンから発せられた低い声には、微かな殺気も込められていた。首に触れる刃が脅しでないということは、それが如実に証明していた。
ネヴィルは観念したように深い息を吐き、眼鏡のブリッジを人差し指で軽く上げる。
「……先に、ソーヤーのことを話しますかね。とは言っても、僕もまだ半信半疑です。“彼女”から直接聞いただけですから」
「ソーヤーが女の子だってことは認めるんだな?」
「はい。さて、逆に僕からも一つ訊いてみますかね。ソーヤーが女の子だったという事実が確定して、貴方の中で何か新たな考察や結論は生まれましたか?」
刀の刃が首の皮に触れていることなどにまったく臆した様子も見せず、ネヴィルは試すようにシオンに訊いた。
シオンは、ほんの一瞬、思案を巡らせるように視線を落とし、
「……イザベラの娘――本当の娘は、もしかしてソーヤーなのか? だからソーヤーはイザベラの好物を知っていて……。前にアンタから聞いた戸籍上の年齢も、ソーヤーなら一致している」
これまでの情報を整理した結果を、早口でネヴィルに回答した。
ネヴィルは、無言で目を閉じ、それを肯定する。
「いったい、何がどうなっている? じゃあ今、イザベラの隣にいるエレオノーラは何で――」
「シオン殿」
一つの事実が明らかになったところで、また謎が深まり、シオンはやや混乱気味にネヴィルへの質疑を続けた。だが、ネヴィルが険しい目つきで、それを一度制止する。
「ここで少し話を変えます。貴女、“紅焔の魔女”エレオノーラ・コーゼルのこと、どう思っています? 三ヶ月前に、騎士団と結託して自分を陥れた憎い敵ですか? それとも、自分の命を救ってくれた恩人ですか? はたまた、それらには該当しない別の感情を抱いていたりしますか?」
唐突に逆質問を受け、頭の中の整理が追いついていないことも相俟って、シオンは若干苛立ちに顔を顰める。
「その質問の意図は?」
「……ここで渋っても、遅かれ早かれ彼女の正体を知ることになりますかね。さっさと言っちゃいますか」
「さっきから何を――」
「エレオノーラ・コーゼルは、教皇アーノエル六世ガイウス・ヴァレンタインの実子です。教皇本人はまだ知らないみたいですけどね」
衝撃の事実を告げられ、シオンの赤い双眸が大きく見開かれた。
「つまり彼女は、貴方がこの世で一番憎んでいる男の血をその体に宿しているということです」
硬直したままのシオンには構わず、ネヴィルはさらに話を続ける。ついでに、首に突きつけられていた刀を指で挟んでそのまま静かにどかせた。
「言葉も出ないほどに驚いているところ悪いですが、パーティの時間も迫っています。ここからは一方的に話しますね。今回の件、ひいてはこの街の現状を一言で表すなら――“狂気に囚われたイザベラの哀れなままごと”、といったところです」
シオンは、混乱する頭のままその言葉を耳にし、さらに眉根を寄せる。
「“とある事件”をきっかけに、いかれてしまったんですよ、あの女は。そしてソーヤーは、イザベラの実子としての責任から、狂人と化してしまった母親をどうにかして元に戻し、ラグナ・ロイウを私物化した罪を償わせようと考えている」
ネヴィルは瓶ビールの中身を一気に飲み干し、徐にカウンターの椅子から立ち上がった。それから雑に口元を腕で拭ったあとで、
「始めから楽な仕事とは思っていないでしょうが――今ここでこの話を聞いた以上、貴方にはとことん付き合ってもらいますよ、黒騎士殿」
今度はネヴィルが脅迫するようにして、困惑に固まったままのシオンにそう告げた。
6月終わるまで更新頻度落ち気味です。




