第二章 王女の決意Ⅳ
アリスの案内で入ったのは二階建てのこぢんまりとした宿屋だった。一階は酒場となっており、昼下がりの今はさすがに客がいない――というよりも、そもそもまだ酒場は開店していないようだ。吹き抜けとなっている二階廊下にはいくつもの部屋があり、そこが宿泊用の部屋になっているのだろう。
「ただいま戻りました、ご主人様」
アリスが言うと、カウンターの陰からのそっと大柄な影が現れた。熊かと見まがうほどの巨漢で、小奇麗に整えられた髪や髭には白髪が混ざっており、それなりの年齢を感じさせる。エルリオは巨漢の姿を見るなり、途端に表情を険しいものにした。それをシオンが見て、咄嗟に彼の肩に手を置く。
「落ち着け。アリスが酷い扱いを受けていないのは何となく感じているだろ」
シオンに言われて、エルリオは少しだけ肩の力を抜いた。一方、巨漢――宿の主人は、シオンたちにじろりと睨みを利かせた。これでエプロンをつけていなかったら、盗賊団のボスにでも間違われるような人相だ。その凄みに、ステラが思わずといった様子で後ずさりする。
「悪いが酒場は十八時からだ。宿なら十五時。どちらにしても今は準備中だ」
宿の主人はそう言うと、再びしゃがんでカウンターの陰に隠れてしまった。そこへ、アリスが小走りで近づいていく。
「ご主人様、この人はアリスの伯父さんなんです」
アリスは屈託のない笑顔で主人にそう報告した。直後、カウンターに頭をぶつける宿の主人――それから驚いた顔で、シオンたち三人を見遣る。エルリオが、一歩前に出た。
「姪が世話になったようだな。貴様のような〝バニラ〟のもとにアリスがいたとは――虫唾が走る」
エルリオは頭の布を解き、耳を露出させた。憎悪と嫌悪で顔が歪み、エルフ特有の美貌は見る影もない。宿の主人は、そんな鬼の形相と化したエルリオを目の当たりにしても、怯えた素振りは一切見せなかった。むしろ安堵に表情を緩めている。
「そうか……それは、よかった」
主人はそのままカウンターに両手をつき、長い息を吐きながら目を瞑った。その意外な反応に、シオンとステラが揃って怪訝になる。
「店が始まる前でちょうどよかった。少し、話をさせてくれないか?」
主人から会話の打診があった。
※
長テーブルの一角にシオンたちが座ると、飲み水の入ったグラスが一人ずつ配られた。それを手伝うアリスの姿はとても活き活きとしており、この子が奴隷であることを忘れてしまうほどだった。
間もなく宿の主人がその巨体を着席させ、真摯な面持ちでシオンたち一同を見遣る。
「俺はドミニク。見ての通り、ここの店主だ。そして、この子――アリスを買い取った人間でもある」
その言葉を聞いたエルリオの眉間に深い皺が寄せられる。今すぐにでも飛びかかりそうなほどに頭に血を昇らせているようだったが、どうにか有りっ丈の理性で堪えている。
そんなエルリオの姿を見たからなのかはわからないが、
「まずは謝る。アンタたちエルフを奴隷として働かせていること、はらわたが煮えたぎる思いだろう。それも、こんな子供を。本当に、申し訳ない」
謝罪の言葉が、真っ先に投げられた。これにはエルリオも面食らったようで、怒りの表情を咄嗟に解いてしまっていた。
「アリスを取り戻しに来たエルフと会うことがあれば、腹を刺されてもおかしくはないと覚悟していた。だが、これだけは信じてほしい。俺はこの子に、店の手伝いこそさせていたものの、何一つとして傷つけるようなことはしていない」
ドミニクが言って、エルリオがアリスを見る。するとアリスも、その言葉に同意するようにして笑顔になった。
「ご主人様は優しい人だよ」
アリスの無邪気な笑顔が、ドミニクが言っていることを真実と証明していた。
「そのご主人様っていうの、何とかならないのか?」
「ごめんなさい……」
「ああ、いや、そんな悲しい顔をしないでくれ。収容所や奴隷商人に、そう教えられていたのはわかっている。怒っているわけじゃないんだ。だけど、いつも言っているだろ、人前ではせめて店長とか、オヤジさんとか……」
アリスの落ち込む表情に、ドミニクが慌てふためく。まるでそのやり取りは、主人と奴隷というより、祖父と孫のようであった。奴隷のエルフがこのような手厚い待遇を受けていることを目の当たりにして、エルリオはまるで夢でも見ているかのように呆然としていた。
そんな彼に代わって、シオンが口を開く。
「アンタ、この子が奴隷市場で売られている姿を見て不憫に思って買い取ったのか?」
「その通りだ」
ドミニクからの即答に、シオンは顔を顰めた。亜人の奴隷化が合法とされているこの国でその振る舞いができることに、いささか疑念があったのだ。
「ガリア人にしては珍しいな。亜人に対して、随分と人情的だ」
「なら逆に訊くが、こんな小さな子供が冷たい檻の中で一人震えている姿を見て、お前は何も思わないでいられるのか?」
まさしくこれぞ慈愛から生まれる怒りの眼差しといった感じで、ドミニクはシオンを睨みつけた。
シオンはそれを見て、小さく息を吐く。
「エルフ――しかも女児ともなれば、かなりの金額を払わされただろうに」
「なんとでも言うがいい。善行とまでは言わないが、独り身のジジイの気まぐれでこの子が元気で生きられるんだ。周りからどう言われようと、俺はそれだけで満足だ」
ドミニクが言い切ると、それに同調するようにステラが頷く。
「そうですよ。どんな形であれ、こうしてアリスちゃんが笑顔でいられているんです」
「そうだな。それで――」
ステラの言葉を雑に流して、シオンは今度、エルリオに視線を向けた。
「アンタはこれからどうする、エルリオ?」
エルリオはそこで、ハッとして意識を目の前に戻した。シオンは目を細める。
「普通に考えれば、アンタはアリスを連れ帰るべきだろうが、状況が状況だ。この子はこのままここで暫く保護してもらうというのも、ひとつ手かもしれない」
エルリオも同じようなことを考えていたようで、何とも言えない表情でいた。だがそこに、ドミニクが割って入った。
「いや、俺は、はなっから迎えが来た時には素直にこの子を引き渡すつもりだった。少し嫌なことを言うが、ここが酒場兼宿屋であることを何かと勘違いした客がいて――アリスが部屋に連れていかれそうになったことが何度かあった。もちろんそんなことはさせなかったが、正直、こんなところにこの子をいつまでも置いておきたくないっていうのが俺の本音だ」
それを聞いて、エルリオがますます頭を抱えたそうな顔になる。これからどうするべきか――悩むシオンたちを余所に、いつの間にか、ステラとアリスが、長話に飽きてしまったのか、二人して店の隅で遊び始めていた。
話が迷走しそうになった時、不意に店の扉が強くノックされた。エルリオが咄嗟に布で耳と頭を隠す。直後、店主のドミニクが了承していないにも関わらず、扉が乱暴に開かれた。
「看板は閉まっていたようだが、なぜ客がいるのかな?」
宿に入ってきたのは、三人組の男たちだった。一人は小奇麗な身なりの老齢の男で、入って来て早々に高圧的な態度で振る舞ってきた。その両脇に立つ二人は、この街の憲兵らしい。
ドミニクの表情が、その三人組を見た瞬間、嫌悪と怒りで歪んだ。
「ちょっとした手違いですよ、領主殿。アンタには関係のない話だ」
「関係がないことはないだろう。以前から、今日この時間、この店に来ると伝えていたはずだ。予定を押さえていたのに、別の客を入れるとは何事か」
「この人らは客じゃない。それに、この時間に店はやっていないと返事したはずですがね」
ドミニクが苛立ちを隠さずに言うと、領主と呼ばれた男は顔を少しだけ引きつらせた。
「ふん、御託はいい! さっさと〝例の話〟をさせてもらうぞ!」
領主が鼻息を荒げると、彼の脇に控えていた憲兵二人が突然小銃の先をシオンたちに向けてきた。
ドミニクが、観念したように首を横に振る。
「すまないが、お前たちとの話はここまでだ。次はこの男の相手をしないと駄目らしい」
「こいつがこの街の領主か?」
シオンがすかさず小声で訊くと、ドミニクが小さく頷いた。
「ああ、フレデリックって野郎だ。街の一切を仕切っている。もちろん、エルフの奴隷についてもな」
「なるほど、いいことを聞いた。ありがとう」
シオンはそれだけを言い残し、ステラとエルリオを連れて店の扉へ向かった。フレデリックとのすれ違いざま、やけに陰湿な視線を向けられた。それにステラが露骨に腹を立てていたが、シオンが彼女の首根っこを掴んで事なきを得る。
店の外に出て、シオンは改めてステラとエルリオを見遣った。
「さっきのドミニクの口ぶりだと、今も奴隷の売買記録はこの街の領主――さっきのフレデリックという男が管理していそうだ」
その言葉を聞いたステラが息巻いた。
「じゃあ、早速とっちめないと!」
「お前はいつからそんな過激派になった」
「だって――」
「エルリオ」
ステラを無視して、シオンは、先ほどからずっと俯きがちなエルリオを見た。
「アリスのことはなるべく早くに結論を出しておいてくれ。連れていけば、あの子にも暫く放浪の旅をさせることになる。ドミニクを信じてここに残らせるのも選択肢だ」
「……理解している」
その回答とは裏腹に、未だにエルリオは酷く悩んだ顔のままだった。
シオンは一度溜め息を吐いて――
「偵察がてら、少し街の中を歩こう。一時間後に、またこの店の前に戻る」
そう提案をした。




