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彼女は俺の魔法使い  作者: 虹色
第3章 変化
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2 我慢と大切なもの


「太河、ちょっとトイレ行こうか」


そう声をかけると太河が静かにうなずいた。


大鷹たちはこのまま待っていると言った。俺は、今日はもう別れてしまっても仕方ないと思ったのだけど。


「傷付けてしまったなら謝りたいから。もう会う機会がないかも知れないし」


まっすぐな瞳で紅蘭さんが言った。覚悟したような表情は思いのほか大鷹に似ていた。


まだ硬い表情の太河と一緒に建物内のトイレに行った。礼央の姿は――誰の姿もそこにはなく、手を洗い終わったところで太河に「大丈夫か?」と尋ねた。


「うん」


しっかりとうなずいた太河。でも、すぐに視線が揺れ、力なく下を向いてしまった。


「兄ちゃんがあんなこと言うなんて……」

「うん。俺もびっくりした」


思ったとおり、太河がショックだったのは紅蘭さんの言葉よりも礼央の態度の方だった。俺も同じだったし、同時に、伝わってきた。礼央の悲しみが。


親を亡くしたことだけじゃない。高校卒業後に就職することも、ほんとうは悲しいのだ。


大学の勉強は通信制や夜間など、仕事をしながらでも可能だ。礼央はその道を歩むつもりだ。けれど、道はあっても自分ができるかどうか不安になることもあるだろう。それに、俺が淋しいように、いや、今の仲間たちと同じ道を進まない礼央は俺よりももっと、淋しいはずだ。これからどんどん、仲間内でも進路の話題が増えるだろうし、卒業後に会っても立場が違ってしまうのだから。


礼央には就職せずに進学する道もある。ご両親の残したお金にアルバイトをすれば、親戚の家を出るのも可能だと言っていた。でも太河と一緒に、太河の保護者として暮らすために、親戚を説得するためにも就職が必要だと礼央は結論を出したのだ。


目指すのは不景気にも強いと言われている公務員。中でも、転勤がほぼ市内に限られる地元の市役所だ。自分が興味のある仕事を選ぶのではない。それほど礼央には太河が大切なのだ。


けれど、気持ちは簡単に整理できるものではないと思う。


“好きなこと” で仕事を選ばない決意をした礼央が、モデルという仕事のマイナス面さえも楽しんでいる紅蘭さんに対して反感を、そして羨望を抱いたとしても無理はない。それを太河も感じ取ったのだろう。


「俺、兄ちゃんに甘えてるのかな? 兄ちゃん、ほんとうは無理してるんじゃないかな? 景くんが感じてること、正直に話して」


すがるような瞳で尋ねる太河に胸が痛くなる。俺にできるのは、俺が信じていることを伝えることだ。


「礼央はたぶん……いろいろ我慢をしてると思う」


太河がぐっと息を詰めた。苦しさを隠そうとする太河にそっと問う。


「だけど、じゃあ、太河は? 何も我慢してないのか?」

「あ……」

「俺も……まあ、こんな感じに生きてるけど、あるよ。そういうのって、たぶん何かを……自分のプライドとか家族とか、大切なものを守るために必要なんじゃないかな。そりゃあ、我慢し過ぎて無理になったらダメだけど」


太河がゆっくりうなずいた。それを確認して続ける。


「我慢は無理とは違う。我慢は……その先に何かが、希望が、あるからできるんじゃないかな」


太河がもう一度、今度はしっかりとうなずいた。きっと、太河にも思い当たることがあるのだ。


「礼央にはたぶん、紅蘭さんがすごく気楽に生きているように見えたんだと思う。それで……自分と比べてみて、ちょっと取り乱しちゃったんだよ、きっと」


礼央が紅蘭さんと自分を比べた――。


自分の言葉にはっとする。比べることが礼央の悲しみを増幅させたのだ。


「だけど、礼央は太河を重荷に思ったりはしないよ。逆。礼央が頑張れるのは太河がいるから。太河がとっても大事だってこと、礼央の顔見てれば分かるもん、俺。太河だって、礼央のこと大事だろ?」

「うん」

「それとおんなじだよ。きっと同じくらい」

「うん……、そっか」


太河の頬に血の気が戻って来た。弱々しいけれど微笑みも。


「礼央が無理しないように、俺がちゃんと見てるから。太河は礼央が余計な心配しなくて済むようにするんだぞ?」

「うん、分かった」

「紅蘭さんのことも、礼央は絶対大丈夫。ちゃんと自分の気持ちを修正できるから。たぶん今ごろ、言い過ぎたって反省してるよ」

「そうかな……?」

「もちろん!」


少し強く肩を叩くと、太河はほっとした様子で「そうだよね」と言った。


「よし。じゃあ、戻ろうか」

「うん」


すっきりした顔でうなずいた太河が、歩きながら、一緒に住んでいる従妹が買ってくる雑誌に紅蘭さんが載っているのだと教えてくれた。ほかの同じようなモデルとはどこか違っていて、一番輝いて見えるのだと。


もしかしたら……いや、きっと、紅蘭さんにも俺たちからは見えない我慢があるのだろう。でも、それを見せないのが――見せないだけじゃなく、我慢しながらでもより幸せに見せるのがモデルという仕事なのかも知れない。


屋上に戻ると、大鷹たちは柵にもたれて無言で海をながめていた。初夏の光が降り注ぐ海を前になにやら深刻そうなカップルに見えるふたりに、少し増えてきた客は遠慮して距離を置いているようだ。プライバシーを保つための男装はきちんと効果を発揮している。


「お待たせ」という声に振り向いたふたりは、俺が微笑んでうなずくとほっとした様子で緊張を解いた。と思ったら、紅蘭さんが太河に頭を下げた。


「あの、ごめんねっ。ボク、いけないこと言っちゃったみたいで。ほんとうにゴメンなさい!」

「あ、い、いいえ。そんな」


照れて慌てる太河を見ながら、俺は紅蘭さんの「ボク」はデフォルトなんだなあ、などと思った。


「あたしからもごめんなさい」


謝り合う太河と紅蘭さんを見ていた俺に大鷹がそっと言った。


「せっかくの休日に、あたしたちのせいで変なことになっちゃって」

「いや。大丈夫だよ」


そう。礼央も太河も大丈夫だ。俺には分かる。


「礼央も失礼なこと言ったよね。反省して戻って来ると思うよ」


建物の方を見たけれど、礼央はまだ現れない。そこに「えぇっ?!」という紅蘭さんの声が聞こえた。


「ご、ごめん。ほんとうにごめん。どうしよう? ボク、ほんとうに酷いこと――」


取り乱した様子に太河と俺が驚いているうちに、紅蘭さんの目から涙が落ちた。女子に目の前で泣かれた経験のない俺――たぶん太河も――は何もできずに立ち尽くすだけ。


大鷹も驚きつつも、そこは姉妹だけあって、「ちょっとごめんね」と俺たちにことわって紅蘭さんをベンチへと導いて行った。それからひとりで戻って来ると、また「ごめんね、びっくりさせて」と謝った。


「びっくりさせたのは僕の方なんです」


太河が言った。


「僕たちには親がいないって話したので、それで――」

「え?! そうなの?!」


大鷹が確認するように俺を見た。それに応えてうなずくと、彼女は「そうだったんだね」と労わる表情を太河に向けた。


「ごめんなさい。そういうひとがいるということは頭では分かっていたけれど、自分の身近にあることだとは気付いていなかった。もしかしたら、あたしもどこかで礼央くんを悲しませたり傷付けたりしていたかも知れない」

「俺も、礼央から事情を聞くまでは同じだったから」

「あ、べつに気を使ってもらわなくてもいいんです」


太河が明るい表情を向ける。


「ただ知っててもらえれば。僕には兄がいるし、世話してくれてる親戚も優しいし、それに、あと2年すれば兄と一緒に暮らせるから」


カッコいいぞ、太河! と、心の中で言った。


「え? あと2年すればって、じゃあ今は? 別々に暮らしてるの?」


大鷹がまた目を丸くした。


「そうなんです。施設に入れるのは可哀想だって親戚が。でも、みんな子どもがいるから一人ずつ別々に」

「そうだったんだ……」


ため息をつくように彼女が言った。


「じゃあ今日は大事なお出かけの日だったのね。それなのに、お兄さんと一緒の時間を減らすようなことをして、ほんとうにごめんなさい。あたしたちと会ったばっかりに……」

「まあ、お互いさまじゃないかな。礼央だって紅蘭さんに失礼なこと言ったし」


元はと言えば、そっちが先だった。太河も隣でうなずいた。


ちょうどそこで礼央が建物から出てきた。


花壇の間を歩いてくる姿からはどんな気分なのか分からない。近付くにつれて見えてきた表情は硬い。まだ気持ちが収まっていないのだろうか。


紅蘭さんも気付いてベンチから戻って来た。きっと礼央に謝るつもりなのだろう。赤くなった鼻の頭に泣いていた気配が残っている。


「景、ありがとう」


礼央の最初のひと言は俺に向けてだった。太河を頼んだからなのだろうけれど、俺のことなんか後回しでいいのに。


俺がうなずくと、ようやく礼央は紅蘭さんに視線を向けた。その表情は挑むようにもにらむようにも見えて、俺は息をひそめて太河の肩にそっと手を掛けた。





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