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分水嶺



 遠くから聞こえる悲鳴に紛れ、銃声と硝煙が幾度も立ち上がる。


「こいつら! どんだけ居るの!?」

「愛衣! 前からも来たわ!」

「っ! 多すぎるって! キリがないよ!」


 オフィーリアの先導で、セシリアとマリアは高い位置に挟まれた城壁を駆けていた。

 ここに至るまで何度も戦闘をこなしていたセシリアは、身体の至る所に傷を作りながらも必死で前後から迫る化け物の群れを相手に焦燥と共に歯を食いしばりながら戦う。


 近道しようとした所為で場所は一本道の城壁の上で、背後には倒しても倒しても終わりの見えない化け物の壁に退路を奪われながら、前方から更に化け物が数体現れる。

 空になったシリンダーから薬きょうを吐き出し、素早く再装填しながら前方の道を切り開いてマリアの手を取って駆け出す。


「はぁっ、はぁっ。千夏ちゃんまだつかないの」

「ここを越えた先よ、ってそいつまだ死んでないわ!」

「しまっ——あぁっ!!」

「セシリア!?」


 殺しきれなかった化け物の一体がセシリアの足首に噛みつき、厚いミリタリーブーツを貫通して柔肉に食らいつかれ、セシリアは苦悶の声と共にそいつの頭を噛みつかせたまま壁に蹴りつける。

 豪脚によって砕かれた化け物を見下ろしながら、セシリアは魔法を使って傷を治し前を向いた。


「セシリア、肩を貸します」

「大丈夫……もう治ったから。それよりお母さんは怪我無い?」

「えぇ、貴女のお陰で傷はありませんが……」


 痛みに堪えながら無理に笑みを作る娘を、傷一つないマリアは痛ましげに眺める。

 守られるばかりで何の役にも立っていないマリアは、何か出来る事は無いかと気にしているが彼女に出来る事はセシリアの手を離さない事だけ。

 決して離さないと固く握る手を握り直しながら、セシリアは痛みの残滓に少しふらつきつつ歩きだす。


「あと少しで避難場所だから頑張って、私も援護するから」

「ありがと千夏ちゃん、でも無茶はしないで」

「愛衣こそ。魔法があっても死ぬかもしれないんだから」


 前方ではレイピアを構えたオフィーリアが化け物の一体を排除しながら、気遣って来る。

 二人共、一度は死んだ経験があるからこそ、その言葉の重みは重々承知している。

 気合を入れ直したセシリアは、再度正面から近づいて来る化け物と背後から迫ってくる群れを一瞥する。

 退路は無い、無いなら前に突っ込むしかない。


 正面の化け物の数が銃と体術だけでは手に負えないと判断したセシリアは、背嚢を漁った。


「千夏ちゃん! 下がって」

「何する気!?」

「グレネード!」

「ばっ! 早く言って!!」


 背嚢から取り出したのはセシリアがアイアスに頼んで作ってもらった、新装備。

 燃焼石を瓶に密封し、その中にヴィオレットから貰った炎魔法を付与した紙を同封した手りゅう弾。

 先端に魔力を流して中の炎魔法を付与した紙を起動させれば、慌てて駆け戻って来るオフィーリアの向こうに放り投げる。


 刹那、銃撃なんて目では無い轟音と衝撃が肌を震わせ、爆発が正面の化け物の群れを木っ端微塵に吹き飛ばす。

 土埃と共に肌を傷つける破片からマリアを護るセシリアは、土埃が晴れると大きく城壁を抉った威力にオフィーリア共々頬を引き攣らせた。


「げほっ……銃だけでなくてグレネードまで作るとか、ミリタリー系の漫画を薦めたのは私だけど流石に……」

「いや、まぁ作ったのは師匠だけどね。にしても凄い威力……とと、急がないと後ろに追いつかれる」


 喋ってる余裕はない。

 後ろから迫る化け物の群れは相手出来る量ではない為、慌てて立ち上がり抉れた足元に気を付けつつ先を急ぐ。

 あれほど強力な爆発だというのに、化け物達は気にした様子も無くただセシリア達の柔らかい肉に食らいつこうとふらふらと歩いて来る。

 本当に理性も感情も無いのだろう。


「あと少し! そこの扉を抜けたらすぐよ!!」

「!! 待って千夏ちゃん! 開けちゃダメ!!」


 後ろを向いていたセシリアは、オフィーリアの声に前に向き直る。

 視線の先ではオフィーリアが扉に手をかけゆっくりと開いている姿。が、その開かれた扉の向こうから幾つもの化け物の影に目敏く気づくが、警告虚しく扉を押しのけて化け物はあふれ出て来た。


「きゃぁぁ!?」

「千夏ちゃん! お母さんはそこで待ってて!」

「待ってください! 危ないですよ!!」


 扉からあふれ出た化け物達に襲われるオフィーリアを助けようと、セシリアは繋ぐマリアとの手を離して駆け出す。

 マリアの制止を振り切り駆け出せば、化け物達に押し倒され身体の至る所に噛みつかれたり引き裂かれたりしているオフィーリアを助ける為に、押し倒し首筋に噛みつこうとする一体の顎を勢いよく蹴り飛ばす。


「千夏ちゃんっ下がって!!」

「うぅっ、ごめん」

「っこの! 鬱陶しいな!!」


 傷だらけのオフィーリアを解放する事には成功したが、その代わりに化け物達の標的はセシリアに移る。

 その数は狭いドアにみっちりと埋まる程で、絡みつく幾つもの腕はセシリアを掴んで固く離さない。

 必死で抵抗し、時に50口径をぶち込むがその勢いに陰りは見えない。


「セシリア! 足!」

「ぐっ!? ったいなぁ!!」


 足元から忍び出て来た一体が、セシリアの足に食らいつくと抵抗が弱まった隙をついて他の化け物達も溢れ出て来た。

 激痛に顔を歪めるセシリアに襲い掛かる化け物の数々に、致命傷こそ辛うじて避けるが全身至る所を喰われ裂かれる。

 肉を裂かれる痛みと骨が削れる不快感が背骨を伝わり、脂汗がにじみ出る。


「あああぁ“ぁ” ぁ” ぁ” ぁ” ぁ” ぁ”!!! ったいんだよぉ!!」


 全身から血を撒き散らし獣の様に吼えながら、必死で振り払う。

 既にリボルバーは弾切れ、装填する余裕なんて無い。ただ一つの拳という武器を振りながら抵抗を重ね、一体、また一体と化け物の身体を破壊する。

 しかし化け物の勢いは留まる所か次から次へと増えていく。

 それでも必死で一体ずつ殴り飛ばし蹴り潰すセシリアは、最悪のタイミングでその声を聴いてしまう。


「来ないで下さい! 離れて!」

「追いつかれた!?」


 正面の相手に時間をかけ過ぎた為、後ろから迫っていた化け物達に追いつかれマリアが石を投げて戦う姿を尻目に捉える。

 焦燥にセシリアは慌てる。

 目の前の化け物の相手だけで精一杯。とても後ろにまでは手が届かない。


(どうする!? どうすればお母さんを護れる! 考えろ! 考えろ!!)


 化け物の一体が首筋に食らいつこうとするのを、右手で阻みながらセシリアは歯を食いしばって慌ただしく真紅の瞳を彷徨わせる。

 一秒でも時間が惜しい、一秒過ぎる度に状況はどんどん悪くなる。

 後ろはどんどん迫ってくる。前は今すぐに全て倒しきる事は出来ない。

 ならばどうする!!

 考えろ!!


「っそ!! やってやる! やってやるよッ!!」


 唯一自由の効く左手を無理やり動かして、背嚢からソレを取り出す。

 最早なりふり構っていられないセシリアは、手りゅう弾に魔力を流して起動させると()()()()()に落とした。


「千夏ちゃん! お母さんをお願い!!」

「愛衣! 馬鹿ッ何してるの!!」

「ごめん!」


 後を前世からの親友だったオフィーリアに託し、セシリア諸共手りゅう弾は化け物を吹き飛ばす。

 捨て身の特攻。すぐさまこの纏わりつく化け物をどうにかする手段に選んだのは、自爆。

 咄嗟の判断で右手に食らいつく化け物を盾にしたセシリアは、爆発と共に道を開くがその姿は城壁の下の闇の中に消えていく。


「セシリアぁぁ!!」

「先に行くわよ! 愛衣! 絶対に死んじゃダメよ!!」


 闇の中に落ちるセシリアは、オフィーリアに手を引かれながら切り開いた道を進むマリアの姿を見送って消える。

 親友に後を託した彼女が見たのは、親友の笑顔だった。

 その笑顔が、嘗てのダキナと被った気がしたのは気の所為の筈だ。



 ◇◇◇◇



「一体何が起きてるデスか!!」


 城下街の一角で、灰色の狼耳と尻尾を持つ可愛らしい少女——ヤヤ——が混乱極まる中を駆けていた。

 いきなり喜色悪い人の様な化け物が現れたと思ったら、ソレはそこら辺を歩く人に襲い掛かり食い殺した。

 ソレは呆然とする人々を前に続々と現れ、普段は活気に満ちた街道が阿鼻叫喚の地獄と化す。


 理解の及ばない光景を前に、人々は泣き叫び、我先にと化け物達から逃げまどう。

 勇敢な者が立ち向かうが、次々とその数を増やす化け物を前にその数も目減りしていく。


 そんな中でも、ヤヤは震えてカチカチと歯を鳴らしながらも弓を構えている。


「にっ逃げるデス! 早く逃げてデス!!」

「助けて! 助けてぇ!!」

「バーストアロー!」


 助けを求める人を前に逃げる事は、ヤヤの誇り高い灰狼の血が許さなかった。

 今すぐ逃げ出したいのだろうに、涙を目尻に貯め震えながらも襲われそうになっている人を一人でも多く助ける為に矢を放つ。


「やった……デス?」

「っ……ぅぁ……驕輔>縺セ縺、驕輔≧繧薙〒縺」

「ひっ、なんで、頭に刺さったのに……」


 螺旋の風を纏わせた矢が化け物の頭を半分抉るが、顔半分しかない化け物はカタカタと震えながら絶命する様子を見せずよたよたと歩きだす。

 見た目が化け物な上、頭を半分飛ばしても死なない化け物の姿にヤヤは困惑と恐怖の入り混じった青みがかった灰色の瞳を揺らす。


 ありえない。

 自分の常識が遥かに及ばないその異形の化け物に、再度ヤヤは矢を放つ。


「早く! 早く倒れるデス!!」


 何本も、それこそ体中に矢を撃ち込んで漸く化け物は歩みを止めて倒れた。

 震える指で放った矢はコントロールなんて出来る筈も無く、普段なら急所を撃ち抜けるヤヤの矢は見る影もない。


「ひっ、まだまだ沢山いるデス」


 しかし漸く一体。

 焼け石に水とはまさにこの事で、終わりの見えなさに次の矢を番える気力すら失ってしまう。

 しかし助けを求める声が聞えれば、はたとヤヤは次の矢を番える。

 しかしその肩を、先ほどまで救助と戦闘に当たっていた中年の冒険家に抑えられる。


「嬢ちゃんっここはダメだ! 早く逃げるぞ!」

「で、でもまだ人が居るデス! 助けるデス!」

「無理だ! 俺らまで死ぬぞ!!」


 幼いヤヤより経験を遥かに積んだ彼の言葉は説得力があり、ヤヤも増え続け今や生者の数を上回る化け物の群れに心の何処かで無理だと理解している。

 しかしヤヤのちっぽけな正義感が、背を向ける事を許さない。ここで逃げたらあそこで助けを求める人は本当に死んでしまう。

 押しとどめる腕を振り払おうとするが、体格差は歴然で振りほどく事なんて出来ない。


「いやっ! 助けて! 誰か! 神様ぁぁぁ」

「いたいいたいイタイよぉぉ!! 助けれぇぇ!!」

「あっ……」


 そうこうしている内に、助けられたかもしれない人たちは無残に悲鳴を上げながら食い殺されていく。

 それを呆然と見つめる事しか出来ないヤヤを、男は無理やり担ぎ上げて逃げようとするが、その背後から化け物が迫っている事に気づくと嫌な汗を流しながら喉を鳴らす。


「っくしょぉ、何なんだこいつら。気味わりぃ」

「ヤヤが……ヤヤが助けなかったから……」

「おい嬢ちゃん! 呆けてるんじゃねぇ! 死ぬぞ!」


 耳元で怒鳴られても、ヤヤは立ち直れず信じられないと瞳孔を開いたまま錆びついた人形の様に鈍い動きで顔を左右に振る。

 一秒だって時間が惜しい。刻一刻と退路は塞がれ化け物は迫ってきている。

 男は一瞬ヤヤを放って逃げるそぶりを見せるが、固く血が出る程に歯を食いしばると勢いよく振り返った。


「~~だぁぁ! だからガキは嫌いなんだよ!!」

「!?」


 振り返った勢いのまま、既に360度囲まれて逃げ場を無くした中で、男はヤヤを乱雑に両手でつかむと勢いよく化け物の壁の向こうに放り投げた。

 突然の事に受け身も取れず、固い地面に倒れたヤヤは痛みに漸く正気を取り戻す。

 慌てて顔を上げるが、見えるのは化け物の背中だけ。

 その向こうで、男の怒声が聞こえる。


「やってやるよ! 全員ぶっ殺してやる!!」

「知らないおじさん!!」

「誰がおじさんだガキ! 俺はまだ29だ!! てめえはさっさと逃げやがれ!!」


 震える膝に鞭を打って立ち上がるヤヤは暫く剣が肉を裂く音を、その灰色の狼耳が拾っていたが、すぐさま男の悲鳴と肉を食らい気色悪い音を拾う。

 込み上げる吐き気と自己嫌悪に、ヤヤは涙を流しながらゆっくりと後ずさり、一心不乱に掛け出した。


「うあああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」


 声を出さなければ足が止まってしまいそうだった。

 涙で視界が滲んで何度も転んだ。

 震える身体はすぐさま体力の限界を訴える。


「ごめんなさい、ごめんなさい。ごめんなさいデス」


 食い殺される人の救いの眼から顔を背けた。

 助けを求める人の声から耳を塞いだ。

 口から漏れるのは荒い吐息と謝罪の言葉だけだった。


「嫌! 助けて! この子だけでも助けて下さい!」

「おかーさん? おかーさん、おきてよー、おきてよー」

「なんなんだよっ、なんなんだよぉぉ!!」

「あはははははは、たべられちゃったぁぁぁああ!!」


 必死で走った。

 込み上げる感情をこれ以上吐き出したら、もう走れないと分かっているから謝罪の言葉を呟くだけで必死で抑える。

 何度も何度も手の甲で目をこすり、何度も鼻をすすりながら。

 来たばかりで一度も通った事のない道を、死体を踏み越えながら必死で走った。


 前しか見えない。前も曇って見えない。

 何か柔らかい物に躓いて転んでも、それが何かを察しても、喉が焼ける苦い物が通っても必死で堪えて走った。


 ただ友達に会いたくて来ただけなのに。

 困ってる人を助けたかっただけなのに。

 あの時、苦しむ人を見て何かをしてあげたいと思ったのに。


 後悔と自己嫌悪、そして少しの混乱がヤヤの思考を混沌に落とし込みながらも身体は生へしがみついているのか走るのを止めない。


 漸く人気のない比較的静かな路地裏に辿り着けば、限界を迎えた汗まみれの身体はもう立つ事も出来ないと膝を突く。


「はぁっ、はぁっ、ごめんなさいデス。ごめんなさいデス」


 走り続けて燃える様に熱いのに、ガタガタと寒さに凍える様に震える身体を抱きしめるヤヤの口からはそれしか出てこない。


 ぐちゃ。


 未だ荒い息を吐いて微塵も疲れの取れていないヤヤは、その音を聞いてしまった。

 聞き覚えのある、嫌な音。悲鳴とワンセットの不快な咀嚼音。

 ゆっくりと振り返れば、まるでガムでも食べているかのように口の中の肉をくちゃくちゃと咀嚼する様々な人間のパーツを繋ぎ合わせた化け物が立っていた。

 その足元で固く我が子を抱きしめる母親の躯を咀嚼する他の化け物も、つられてヤヤの方へ顔を向ける。


 食事の邪魔をされた不快感か、それとも新たに新鮮な肉を前に目移りしたのか。

 少なくとも、ヤヤには眼すら定かではないその化け物の顔が’“そうだ、まだまだ足りない“と貪欲に欲している様に見えた。


「っあああああぁぁぁあああああ!!」


 理不尽に人を喰い殺す化け物に、堪えきれなかった感情の爆発がヤヤを襲い、吠えながら矢を構える。

 がむしゃらに型も狙いも無い。

 ただ目の前の許しがたい蛮行を犯す化け物を前に、持ちうる魔力の全てを籠めて一心不乱に矢を放つ。


「ふざけるなデス! 死ね! 早くしんじゃえデス!!」


 腕を吹き飛ばした。

 足を削った。

 心臓を抉った。

 頭を貫いた。


「ふーっ! ふーっ!」


 気づいた時には全ての矢を撃ちきっていた。

 荒く息を吐くヤヤの顔は、魔力の枯渇によって青白くふらつく身体を気力だけで抑えている。

 ふらふらと、化け物の死体の向こうで倒れる我が子を硬く抱きしめる母親の死体に近づく。


 死ぬ間際ですら決して離さないで身を挺して守った母親と、それでも顔を抉られている子供の死体を前にヤヤの手から弓が滑り落ちた。


「ヤヤが……ヤヤが……」


 ヤヤに罪は無い。

 もし自分が少し早く来ていれば助けられたかもしれない。なんて益体の無い自責の念に襲われる。

 そんな事を考えても仕方の無い事なのだ、そんな事は彼女も分かっている。だが思わずにはいられない。

 恐怖に屈して逃げなければ。

 最後まで諦めなければ。


「ぐすっ、ひぐっ。ごめんなさいデス、ごめんなさいデス……セシリアちゃん……フランちゃん……」


 零れる涙と共に、擦り傷だらけの膝を着けばもう立ち上がれない。


「縺薙s縺ォ縺。縺ッ縺薙s縺ー繧薙?縺斐″縺偵s繧医≧」

「縺?>螟ゥ豌励〒縺吶?蜒輔?譎エ繧後〒縺」

「莉頑律縺ョ縺秘ッ縺ッ縺斐■縺昴≧縺ァ縺咎?ゅ″縺セ縺」


 その背後から何処からともなくまた現れた化け物に気づいても、ヤヤは動く気力が無かった。

 乾いた笑みを零して諦めの境地のまま、尻餅を突けばすぐにその背は壁に突き当たった。


 退路は無く逃げる事も出来ない。

 矢も尽きて戦う事も出来ない。

 身体も心も限界で立ち上がる事も出来ない。


 たった12歳のヤヤはにじり寄ってくる化け物を前に、余りに似つかわしくない諦めと自虐の笑みを浮かべた。

 普段の元気いっぱいなヤヤなら決して浮かべない、人生で初めての表情。

 ゆっくりと目を閉じれば、化け物が近づいて来る音が聞こえる。

 きっと自分の人生はそこで終わるのだろう。

 友達と再会する事も出来ず、仲間と肩を預け合える事も出来ず、家族に恩返しもしきれず。あっさりと一人寂しく終わるのだろう。


(お母さん、お父さん、お兄ちゃん達ごめんなさいデス。セシリアちゃん、もっとセシリアちゃんの役に立ちたかったデス……フランちゃん、最後にもう一回だけ会いたかったデス)


 つぅっと、ヤヤの目尻から一筋の雫が零れ……その姿を影が覆った。



 ◇◇◇◇


 化け物の群れを、一つの業火の華が焼き払う。

 悲鳴すら焼き尽くす業火は、瞬く間に化け物達を炭化させ灰燼と化す。

 魔法に依って生み出された業火が収束すれば、その向こうからは軍服を纏ったクリスティーヌが右手を突き出して立っていた。


「着いて早々、これは一体何ですの」


 豪奢な縦巻きツインテールの金髪を鬱陶しく払いながら、翠の瞳を剣呑に細める彼女は至る所で倒れる食い殺された人々に黙礼を送る様に深く目を瞑る。

 その背後から音も無く化け物が忍び寄ってくるが、その手がクリスティーヌの清い身体に触れる直前、化け物の身体を魔力の糸が固定し、勢いよく後方に引きずられながら壁に叩きつけられ倒れ伏す。


「分かりません。が、至る所でこの化け物が暴れていて街は大混乱ですね」

「見た事も無いし聞いたことも無い化け物に、突如起こったこの騒動……作為めいた物を感じますわ」

「はい、どうやら王城を中心にこれは広がっている様です」


 肌を見せないメイド服に身を包み、明るい紫のボブカットと怜悧な紫の瞳を更に鋭くするヴィオレットは、方々からにじり寄ってくる化け物を処分しながら索敵の結果を報告するが、その必要もない程至る所で戦闘や蹂躙が行われているのは察せられる。


 ヴィオレットの報告を聞いたクリスティーヌは、高くそびえ立つ王城を見上げ、散らばる死体を見下ろす。

 どれもこれも、苦しそうに、辛そうに、悲しそうに殺されている。


「……っ」

「お嬢様?」

「ヴィー、ワタクシはこれを誰が起こしたのかも、何故起こしたのかもわかりませんわ。分かりたくもありませんもの」


 決して振り返らず、クリスティーヌは固く拳を握る。

 その肩は小さく震え、溢れた怒気が殺気となってヴィオレットの肌を泡立たせた。


「ワタクシは、ワタクシの心に基づいて生きてきましたわ。帝国貴族としての矜持、クリスティーヌ・フィーリウス・ローテリアとしての信念。そして、嘗て我らが祖先達が守ったこの世界に生きる一人としての魂」


「縺薙s縺ォ縺。縺ッ縺薙s縺ー繧薙?縺斐″縺偵s繧医≧」


「お嬢様っ、後ろに——」

「ベニトアイト」


 普段と変わらない流れる様な美しい魔法。

 氷の様な宝石の槍が化け物の全身を穿ち、蹂躙する。

 徹底的に、存在すら許さないと言う様に破壊する。


 右手を横に広げた態勢で留まるクリスティーヌは、そちらを見ていない。

 まっすぐに、苦しみながら死んだ人々の瞼を優しく、血で白い手が汚れるのも厭わず一人一人眠りに着かせる。

 せめて、死後の世界で安らかに眠れるように。


「ごめんなさい。ワタクシは無神論者だから、神には祈らないの。でも、貴女が死後を安らかに過ごせることを願っていますわ」


 謝罪と黙祷を落とし、クリスティーヌは静かに立ちあがる。

 その視線は真っすぐに()()()()()()()()向けられていた。

 その顔を、ヴィオレットは見る事は出来ない。

 10数年の付き合いのある彼女ですら、今の主の顔を見る事など恐ろしくてできない。

 それほどに、クリスティーヌの背中から伝わる怒りは恐ろしかった。


「ヴィオレット」

「っ! はい!」


 愛妾では無く、名前で呼ばれる。反射的に背を伸ばしたヴィオレットは次の言葉を生唾を呑んで待った。

 クリスティーヌは、王城でもヴィオレットも無い方を見ながら、深く息を吸ってから口を開く。


「貴女は救護者の救出や治療に当たりなさい」

「は? いえ、お嬢様今はお傍を離れる訳には行きません!」


 しかしいきなりの状況を考えない命令に、ヴィオレットは流石に反抗する。こんな何処が安全かも分からない状況で別行動なんて愚策極まるし、何より聡明な筈のクリスティーヌは普通そんな命令をしない。


「いいからっ! 貴女は早くここを離れなさい!」

「出来ません! 何があるか分からない今の状況で他を優先なんて、お嬢様の命令でも無理です!」

「黙って言う事を聞きなさい!!」

「嫌です!」


 二人は激しく己の意見を曲げずに怒鳴り合う。

 片や頑なにヴィオレットを遠ざけようとするクリスティーヌと、片や頑なにクリスティーヌの傍から離れようとしないヴィオレット。

 そもそも状況を考えれば、別行動こそが危険なのは当たり前で訳も言わず遠ざけようとするクリスティーヌに反抗するのは自明の理だろう。


「良いから早くどこかへ行きなさい! さもないと——」

「さもないと? 優秀で従順なお姫様は自分の我儘で手を上げるのか~?」

「っ! ……やはり居ましたわね」

「……この声」


 喧嘩する二人に降りかかる、男の声。

 その声にクリスティーヌは苛立たし気に顔を顰め、ヴィオレットは記憶の奥にある聞き覚えのある声に肩眉を上げる。

 先ほどクリスティーヌが見つめていた闇の向こうから、その声の人物が石畳を踏む足音がゆっくりと近づいて来る。


「始め見た時は誰か分かんなかったけどよー、まさかこんな所で会うとは奇遇だな? クリス」

「貴方にその名前を呼ぶのを許した覚えはありませんわ、イライジャ様」

「おいおい、兄にそんな口聞くなんて偉くなったもんだな、昔みたいにお兄様って呼べよ」

「まさか……イライジャ様? お嬢様の実兄の?」


 呆けるヴィオレットの声に、イライジャと呼ばれた男はにやりと口を歪め、クリスティーヌは舌打ちを一つ鳴らす。

 目の前の男は、クリスティーヌと同じ金色の髪を撫でつけ、クリスティーヌと同じ翠の力強い瞳を楽しそうに細めている。

 しかしその恰好はクリスティーヌとは真逆。

 地肌の上から着た黒いジャケットの下からは幾何学的な模様の刺青が走り、鍛え上げられた肉体には幾つもの傷が出来ている。


 右手に朱色の槍を持つ彼が、一目で貴族であるクリスティーヌの兄だと分かる者はそう居ないだろう。

 似通った容姿を除けば、二人の雰囲気は真逆で、その互いに向ける視線は兄妹の再会とは思えない。


「風の噂で傭兵になったと聞きましたが、まさかこの状況を作り出したのは貴方ですの」

「いや、俺は依頼を受けてここに来ただけでこれは知らねぇ。面白そうな仕事だと思ったけど思いの外詰まんなくてな。でもまぁ、思わぬ収穫もあったもんだ——」

「ベニトアイト」

「!?」


 イライジャの言葉を遮って、クリスティーヌは宝石の槍を撃ち出すがイライジャは驚いた様子こそ浮かべるも素早く槍で全て叩き落す。


「ひゅ~、躊躇いなく急所に攻撃とはなかなかやるなぁ。俺そこまで嫌われてたか?」

「殺しきるつもりはありませんわ、大事な証人ですもの。拘束し、然る後に法廷で全てを語ってもらう必要がありますもの……が、個人的な感情を言うならあの家の人間は皆嫌いですわ」

「あっはっは! 嫌われたもんだな! ……なら良い事を教えてやる。今回の依頼主の狙いは王城だ。もしかしたら王様も殺すつもりなんじゃねーか?」


 イライジャの言葉に、クリスティーヌの動きが止まる。

 イライジャから視線こそ外しはしないが、尻目に王城を見る彼女の眼には焦りと躊躇いが見える。

 このままここでイライジャの相手をしても良い物か、それともその確証の無い情報を鵜呑みにして目の前の男に背を向けるべきか。


「お嬢様。先ほどの発言は撤回します」

「ヴィオレット?」


 逡巡するクリスティーヌの視界を、ヴィオレットの高い背が塞いだ。

 主を守る様に、主の代わりに戦う様に。ヴィオレットはナイフを構えてイライジャと対面する。

 その顔は、先ほど傍を離れる事を頑なに拒んだものでは無く、覚悟を決めた女の顔。


「この男の言葉を信用する訳ではありませんが、王城が襲撃されてるのも事実。あそこにはブリジット殿下も居ます。今ここでこの情報を持つのはお嬢様だけ、私がこの男を捕まえますので、お嬢様は殿下方の救出へ」

「ヴィー……分かったわ、必ずやあの男をワタクシの前に引きづり落としなさい。死ぬことは許さないわよ」

「仰せのままに」


 後を託し、クリスティーヌは駆けだす。

 それを止める素振りも見せず見送ったイライジャを睨みつけながら、ヴィオレットは深く息を吐いて全身に魔力を流し込む。


「止めないんですね」

「依頼に含まれてねぇからな。それよりも、お前あいつが昔拾ったガキだろ? 戦えるんだよな、戦うんだろ、ならさっさと俺と踊ろうぜ」


 楽しそうに犬歯を見せながら槍を構えるイライジャに、ヴィオレットも無言でナイフを構える。

 全ての音が無くなった。

 悲鳴も、戦闘音も、鳴き声も、風の音だって。


「ふっ!」

「ははぁっ!!」


 金属が打ち鳴る音だけが、血と煙に塗れた夜闇に響く。


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