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勇者の資格

 


 魔王城のあった森林地帯とは違う森の中。高い山々に囲まれ、針葉樹が並び立った寒々しい森林地帯。

 そこに、空間の歪みと共にアダムとティアが現れる。


「はぁっはぁっ……!」

「よかったー♡ ティアの機能ちゃんと使えたー♡ もう安心だよアダム♡」


 クリスティーヌの魔法から危機一髪で逃げる事の出来たアダムは、脂汗を流して疲弊しつつもティアの言葉に肩の力を抜く。

 彼も遅まきながら、逃走に成功したことに気づいた様だ。

 周囲に人の気配は無く、見覚えのある様な無いような木々の群れを眺めた。だが怪訝な表情を浮かべる、あの時アダム自身で魔法を使った訳では無いのにどうして空間跳躍が出来たのか。


「何故……空間跳躍が?」

「ふふーん♡ それはティアがアダムの魔法を使ったからだよ!」


 その疑問に、ティアは胸を張って堂々と答える。


「ティアの機能は原初の母——ティアマト。その母胎はあらゆる存在を内包する事が出来て、しかも触れた相手の魔法を限定的に行使する事が出来るの! あっ! 勿論黒龍ちゃんも今はティアの胎の中で眠ってるよ!」


 ティアの説明に息が整ったアダムは短く答えると、膝に手を当てて重たく立ち上がる。

 その身体はエリザベスに打ち込まれた注射によって、上手く動かせない状態だが歩くくらいは出来るらしい。

 深く息を吐いて自らの手を見下ろすと、苛立たし気に歯ぎしりして傍の木を殴りつけた。

 大きく幹が抉れ、豪快な音を立てて若い筈の木が折れて倒れ音が響く。


「この俺がむざむざ劣等種共から逃げるなど……腸が煮えくり返りそうだ」


 怒りに顔を歪ませ、恨みがましく呟くアダムにティアはおろおろと慌てている。声を掛けようか掛けまいかと悩んでいると、アダムが振り返ってビクッと跳ねた。

 そのままアダムはゆっくりと手を伸ばしてきて、また殴られるかもと怯えながら目を瞑ったティアの頭が、撫でられた。

 きょっとんとした顔で、ティアは目を開く。


「だが良くやった」

「……うん! アダムの為なら何でもできるよ♡」


 褒められたことでティアは純粋無垢に満面の笑みを浮かべた。余りに無垢で幼いが故に、アダムの目が笑っていないのにも気づかない。


「さて、ここは帝国内の霊峰の麓か」

「うん♡ ティアはお外に出た事なかったから、ここしか知らなくて……ごめんなさい」

「いや丁度良い、この身体の定着率を上げる為には魔道歴の施設が必要だ。ここなら……黒龍ファフニールを封印していた施設がある筈だな」


 ティアのご機嫌取りもそこそこに、アダムはさっさと目的地を目指して歩き出してしまった。

 その後をぴょんぴょんと慌てて追いかけるティアを一瞥もくれず、さっさと先を進むアダム。

 だが暫くも進まない内に、彼の歩みが止まった。


「止まれ!!」


 鋭い警告と共に、潜んでいたのだろうか沢山の人が飛び出してアダムを取り囲んだ。

 狩人や山賊ではない、皆一様に甲冑を着込んだ騎士だ。その甲冑に刻まれた紋章は、帝国の物。

 全員が抜剣し、鋭くアダムを睨みつけている。


「腐敗した帝国貴族の残党が、幼い少女を連れてここに隠れ潜んでいると陛下よりの勅命が下った。貴様も貴族の端くれなら、潔くここでその罪を償え」

「っち、そういう事か。女狐め」


 これがエリザベスの罠であると気づき、舌打ちを鳴らす。博打に近い策ではあるが、実際にそれに掛かってしまった今では悪態を尽くしか出来ない。

 確かに効果的だ、今のアダムは満足に戦うのも難しい。


「どどど、どうしよアダム!? ティアもう機能使えないよ!?」

「オーバーヒートか、無理をすれば後に響く……劣等種め」


 そしてタイミングの良い事に、アダム達にも抵抗する手段が無い。口八丁で何とか凌げるだろうか。


「こんな幼子に拘束衣を着させて……」

「クソ貴族が」


 無理な様だ。

 帝国ではエリザベスが王位を簒奪するまで、貴族による無慈悲な搾取がまかり通っていた。そしてエリザベスが王位を得た時、腐敗した貴族は漏れなく粛正された。

 つまり今ここで腐敗した貴族を狩ろうとする騎士は、義憤と憤怒を以って確実に剣を振るうだろう。

 それぞれ鋭い視線で剣を手ににじり寄る騎士たちを前に、アダムは奥歯を噛んで打開を探る。


「覚悟!!」


 静止の声を上げた騎士が、正面から剣を掲げて飛び込んでくる。

 仮に目の前の騎士をねじ伏せても、周囲を囲む騎士に隙なく殺されるだろう。指先一つ動かそうとすれば、すぐさま殺される。そういう殺意に囲まれているから。


「アダム!」


 ティアが庇おうと、前へ出ようとして転んでしまう。アダムも魔法を使おうと魔力を高ぶらせるが、それが間に合わない。


「それは神の慈悲なり。一切の不浄を許さず、一切の悪を断ち切る神の怒りなり——ケイオスボルテージ」


 後方から静かな声で響いた詠唱と共に、紫電の奔流が騎士を呑み込んだ。

 圧倒的暴力を冠する、無慈悲で神々しい紫の雷。自然と言う名の神だけが生み出す事の出来る雷が、人の手によって人を殺した。

 それが出来るのは、この世界に一人だけ。最上の勇気と強さを誇る人類の旗印にのみ授けられる称号を持つ者だけ。


「雷!?」

「ゆ、勇者アレックス・ガルバリオ!」


 金髪碧眼。端正な顔立ち、立ち振る舞いは一切の隙が無い。貴族的な美しさと、騎士としての合理性。

 その魔力も、常人とは一線を画す物だと察せられる。

 まさに神に祝福されたとしか思えない、そういう存在がアレックスだった。だが彼は勇者と呼ばれ、人類に期待されている。

 その男が、国は違えど同じ騎士を手にかけているのにその顔には何の表情も浮かんでいない。


「何故勇者ぎゃァっ!?」


 狼狽える帝国騎士に、アレックスは剣先を向けると何の躊躇い無く更に紫電を放った。

 また一人と、紫電に飲み込まれ帝国騎士の狙いがアレックスに移る。

 何人もの騎士が、困惑と怒りを雄たけびに混ぜながら剣を振るった。


「すまない」


 アレックスは静かに謝罪すると、剣を低く構えた。多数の騎士を前に、始めて彼は申し訳なさそうに表情を曇らせ、その剣を振るう。

 魔法ですら至上に近い物だった。そしてその剣技もまた、ただの騎士には反応できない速度で振るわれる。涼し気で綺麗な音が響くと、帝国騎士の雄たけびが止むと共に地面に転がった。


「ひっ……ひっ!」


 最後に、新人だろうか怯えて尻もちを着いてしまった騎士が残った。まだ幼さが残る顔立ちに、恐怖と困惑を張り付けて返り血を浴びたアレックスを見上げている。


「何故、何故ボク達を攻撃するんですか……そ、そこの男は、腐敗した帝国貴族なんですよ!? どうして勇者と呼ばれる貴方が!? ……かふっ」


 どうしてと、夢なら目が覚めてくれと舌を縺れさせながらも必死で説明する最後の騎士の胸に、剣が突き立てられる。

 結局、彼は最後まで抵抗らしい抵抗一つ出来ずに地面に倒れた。

 その虚ろな目は、恨みがましそうに最後までアレックスを捉えて離さない。


「あこ……がれ、てたのに……」

「……」


 事切れた新人騎士を唇を噛んで見下ろしていたアレックスは、贖罪のつもりか瞼を閉ざして背を向けた。

 そのまま、危うさを覚えさせる虚ろな目をアダムに向けた。その顔は、かつてセシリアに一目ぼれした勢いのまま告白した頃の様な明るさは無い。ましてや、勇者などと呼ばれているとは思えない程に、翳がかっている。


「ははっ、良く来てくれた。お陰で助かったよ」


 倒れたティアに目もくれず、アダムは両手を広げてアレックスを歓迎する。

 しかしアレックスは今だ騎士の血が滴る剣を握ったまま、翳差す眼を向ける。


「随分雰囲気が変わったな? あぁ、この姿に驚いているのか?」

「……どうでも良い」


 ただ短く、明るく歓迎するアダムを拒絶する。


「……お前の姿もどうでも良い。ただ一つだけ聞きたい」


 剣を鞘に納め、視線を斜め下に逸らす。その先には、黒焦げた騎士の死体がある。人の形をまだ保っているが、風に撫でられて崩れた死体が。


「本当に、お前の言う通りにすれば俺の理想の世界が来るのか」


 その言葉に、アダムの顔が愉悦に歪む。人類の旗印となる勇者が、自らの手で同族を手に掛け、利己的な願いを口にしたから。


「あぁ勿論」

「……そうか」


 そう言ったアレックスは、倒れたまま立ち上がるのに悪戦苦闘しているティアを見下ろし固く目を閉ざす。

 以前までの彼なら、騎士であった彼なら迷わず手を刺し伸ばしただろう。しかし手を差し伸ばす事はせずに、ただ現実から目を背ける様に目を閉ざしただけ。


「さて、それじゃあ先を急ごう。何安心すると良い、君の望む世界はすぐそこだぞ」

「アダム~♡ 待ってよ~。ティア立てないの~」


 さっさとアダムは死体を踏み越え、肉体の定着率を戻す為に先を急ぐ。その後を追うアレックスは、ふと思い出したように口を開いた。


「なぁ、何が目的なんだ。一体何をするつもりなんだ」


 その問いに、アダムは嗜虐的な笑みを浮かべて振り返った。

 悪魔の様に邪悪で、子供の様に純粋に。


「世界を正しい姿に戻す。まずは魔界の門を開くのさ」


 300年前に人類に侵攻してきた悪魔の王の身体で、平和を願って死んだ魔王の身体を奪った贋物が、300年前の過ちを再び起こすと答えた。

 その答えを最後に、誰の言葉が発せられることなく足音が一つ増えた。



 ◇◇◇◇



 もしかしたら勇成国にあるかもしれない、しかし何処にあるのかが分からない一室。

 入り口は襖が一つ、対面には満月が眺められる丸窓があるだけ。畳張りで、灯りと言えば畳の上に置かれた提灯が妖しく室内を照らす。

 そんな妖艶で幻想的な和室に、金色の毛並みが美しい九つの尾を生やした着物をはだけさせて着る妖艶な女性が煙管を片手に気怠げに鎮座していた。


「ふー。珍しいの、イングリット坊が妾の元へ来るなんて。ばぁに小遣いでもせびりに来たのかぇ?」

「月に一度は来てるじゃないですか、それに僕はもう15ですから子ども扱いはしないで下さい」

「くふふ、妾からすれば人など童と変わらんわ」


 ころころと耳に心地の良い、甘くて飲みやすいが度数の高い酒の様な声で九尾の妖艶な女性——イナリ——は笑う。

 対面にいる童顔の少年。

 金色の狐尾が一つ尾、黒い髪と15と言うがもっと幼く見える少年は目のやり場に困りながら唇を尖らせて子ども扱いは止めて欲しいと言う。

 彼はイングリット。正統なる勇成国の王太子で、目の前のイナリの孫に当たる。


「坊は相も変わらず愛らしいのぉ、そんなかあいらしぃ顔でむくれても妾を悶えさせるだけじゃぞ?」

「もう! からかわないで下さい! 今日は真面目な話をしに来たんです!」


 けらけらとイングリットの反応に笑うイナリは、その妖艶な美女と言う容姿からは想像できない程の年月を生きている。

 何故なら、彼女は300年前の人魔大戦の生き証人で、勇成国を築き上げ人類を勝利に導いた初代勇者ブレイドの妻なのだから。

 平時なら仲睦まじいお祖母ちゃんと孫の対面だが、イングリットは一つ襟を正すと真剣な表情を浮かべた。


「イナリおばあ様、一つお聞きしたい事があります」

「何じゃ? 年寄りの昔話で良ければ幾らでも語るぞ?」


 蠱惑的に目を細めながら、イナリは煙管を加えて流し目を送る。

 それすらも並みの男のなら昇天してしまいそうな官能さを放つが、如何せん肉親であるイングリットには頬を赤らめるだけで効果が無い。

 いや。正確に言うなら本当に真面目な話が控えているから余計な事は考えないのだろう。


「勇者とは、何でしょうか。300年前の戦争、果たして本当に人と悪魔は相容れなかったのでしょうか」


 孫の言葉にイナリは痛みを堪える様に僅かに目を細めると、彼方を眺めて紫煙を一つ吐く。

 からかうのを止め、昔に想い馳せながら重たく口を開いた。


「そうじゃな……坊は勇者とは何だと思おておる?」

「勇者とは、人類の希望の旗印。武芸に優れ、智略に富み、清廉潔白な心を持つ真の英雄……でしょうか」

「くふふ……べた褒めじゃのぉ」


 勇者とは何かを問われ、イングリットは淀みなく答える。

 凡そ、勇者と言う物に人々が思うような理想そのものだろう。寝物語に聞かされるような、少年心を擽る憧れの境地。それこそが勇者と言う物。

 そう答えるイングリットに、イナリは苦笑を浮かべて煙管を叩く。さて何から話した物かと躊躇うように彼女は小首を傾げた後、ややあって左手の薬指に納まる指輪を眺めた。


「300年前、まだ旦那様がこの世界に来たばかりの童であった時は勇者なんて物は存在しておらなんだった。勇者とは戦い、守り抜き、死した者を称える言葉でしかなかったのじゃ」


 イナリは静かな、水面に揺らめく夜空の月明りの様な声で、歌うように耳触り良くイングリットの勇者像を否定する。


「旦那様もそうじゃ。20にも満たない童の身で、異邦の地より戦いの為に呼ばれてしもうた。自分はただの学生だから、なんてよく言って笑って居ったわ。最後までの」


 イングリットは謡うような言葉に耳を傾け、静かに衝撃を受ける。

 初代勇者ブレイド。人類と悪魔の生存を賭けた大戦において、類まれなる力を以って勝利を齎した存在。そして今の国を作り上げた神の代理人。

 そう言われている。イングリットもまたそのお話を聞き、育ったから。

 だがその初代勇者が、自分と変わらぬ年で全く無関係だったと言われれば、衝撃を受けるのも致し方ないだろう。


「勇者なぞ、追い詰められた大衆が作り出した虚像に過ぎん。命を奪う事に、失う事に嘆かぬ者はおらん。どれだけ強かろうと、どれだけ賢しかろうと人は等しく弱く脆い。勇者などと言う重圧に、耐えられる者がどれだけいようか」


 その言葉にイングリットは俯いた。

 その重圧を知らぬ訳が無い。王族、王太子。そういう肩書を既に背負っている身。勇者への憧れでたゆまぬ努力を重ね、勇者と呼ばれた騎士を一心に慕った。

 だがイナリの言葉を聞いた今、果たしてイングリットが憧れた騎士は一体どういう気持ちだったのか、その心の一片すらもイングリットは知らない。


「……アレックス殿は……」

「初代勇者の血は王家の血筋、勇成国はその力で民を守り続けて来た。だが此度の勇者は、王家の血を引く物ではない。なまじ武の才があり、坊が才が無いが故に選ばれてしもうた。果たしてそれを喜ぶ様な男なのかのぉ」


 イングリットは深い後悔に呑まれ、唇を噛んで肩を震わせた。

 思い返されるのは、困った様な控えめな笑顔でイングリットの頼みを聞いてくれるアレックスの姿。

 戦う才が無いイングリット。体格に恵まれる事も、非凡な知恵を持つ事も無かった。だがそれでも剣術の指南や、騎士としての心意気を厳しくも優しく教えてくれたアレックス。

 寝物語で聞かれた勇者への憧れは、アレックスへの憧れや親愛へと移っていった。

 だが彼は、一度でも心の内を明かしただろうか。そう思えば、そんな記憶が一つも無かった。


「……300年前の大戦の事じゃったな。歴史には悪魔が侵略してきて、旦那様が魔王を討ち争いは収まった。そう語られておるの」


 気を遣ったのか、イナリは話題を切り替えた。

 イナリも、イングリットが童心ながらに勇者に憧れ、身近な目標であるアレックスを憧れているのを知っている。

 それでも中途半端な答えを返さないのは、イナリなりの心遣いだ。淡々と、自分の意見を述べる。それがどういう心境の変化を起こすかは、イングリット次第だ。彼が成長すれば良し、そうでないなら……仕方の無い事。

 俯き反応しないイングリットを尻目に、イナリは見慣れぬ字が書かれた古びたノートを取り出す。表面を撫でればカサついているが、大事に保管されているのが分かる。

 イナリの夫である初代勇者ブレイドが書いた、彼の故郷の字である日本語で書かれた日記。


「大まかには間違っておらぬ。確かに悪魔の多くは獣と変わらぬ残虐性で、殺し犯し弄んだ。じゃが一つ訂正するなら、魔王軍と魔王は悪では無かっただけじゃ」


 俯いたまま答えないイングリットに耳に届いているのかは分からない、だがイナリは古びた日記を開いて視線を落としたまま独り言ちる。

 苦笑を浮かべたのは、相も変わらず汚い字で書かれているからか、字が読めない事だからか。


「魔王は……魔王ファウストとその配下の魔王軍は理性的じゃった。他の悪魔共は理性無き獣じゃ、衝動のままに暴れる。魔王は謝罪しおったわ、畜生の処理を任せてすまないと」


 そうやって語られる魔王の姿は、歴史には影も形も描かれない物ばかり。

 誰が想像できようか、人類を蹂躙し尽くした悪魔の長が人類の勇者に謝罪するなど。戦争の生き証人で蹂躙された側のアイアスが、まるで友人の事の様に語る姿など。

 イングリットの興味が惹かれる。


「旦那様と妾、そして魔王ファウスト。この三人で戦争の終結を秘密裏に諮っておった。旦那様は勇者として悪魔を切り、魔王は悪魔として人類を殺す。そんな中での協力関係じゃ、多くの困難と苦難に塗れたの」

「……では、もっと被害を抑えられたのでは?」


 イングリットの当然の疑問に、イナリは力なく首を振る。

 そう、魔王が理性的で協力的なら、勇者がそれを受け入れているならもっとうまくいけたのではないだろうか。

 しかし現実は、幾つもの国が滅び人類は滅亡寸前まで追い詰められたとされている。如何に酷い戦況だったとしても、そこまで収集が着かなくなってしまう物なのだろうか。

 深く瞑目し、心を鎮める様に深呼吸したイナリが次に目を開いた時、その目は肝が冷える程に底知れない怒りが浮かんでいた。


「邪魔者が現れたのじゃ。魔道歴の亡霊、妾達の努力を踏み躙り更なる混沌を齎した、まっこと最低最悪な下種がの」


 常に余裕の姿勢を見せている妖艶なイナリが、初めて見せた極めて鋭い殺意。イングリットからすれば祖先の見た事も無い姿、そして尋常ではなく濃密な殺気。

 戦争を経験した彼女だから出せる物だろう。熟成に熟成を重ねすぎて黒を更に黒くしたような、さながら深淵の様に深く重たく、一度踏み込んでしまえば二度と出る事は叶わない闇だ。

 戦争を経験したことのないイングリットには、強すぎる。一瞬死を覚悟してしまい尻尾が逆立った。それでも咄嗟に唇を噛んで気を失うのだけは避ける。

 そうしなければならない程の殺気。イナリのその下種に対する怒りは計り知れない。


「名をアダム。魔道歴に作られた、寄生体じゃ。奴は言っておった、人間とは最も神に近い存在じゃと、あらゆる欠点や弱点を克服でき、あらゆる可能性を等しく極められる。そうあれかしと作られた自分こそ、神に相応しいと……あぁすまんすまん! 怖がらせるつもりは無かったんじゃよ? ほれ、よい子よい子してやろうぞ?」

「いっ……! いりません!」


 つらつらと淀みなく、低い声で怒気を放っていたイナリだが、イングリットが蒼白な面持ちで居るのに気付くとそれも鳴りを潜め、優し気なお祖母ちゃんの表情に戻る。

 そのおかげか、イングリットも詰まった息を吐くと、なんとか逆立った尻尾をゆらゆらと揺らすばかりに落ち着かせて佇まいを直した。

 少なくとも、本能的に死の恐怖を味わったばかりにしては立ち直りが早い。生来の物か、はたまたスペルディア王国での経験が生きたのか、確かにその根幹に折れない心が宿っている。

 その様子に関心しつつ、謝罪を口にして心を落ち着かせたイナリは、意識的に感情を切り離しつつ安心させるように普段通りに話を再開した。


「本来なら、魔王と旦那様、そして妾で暴れる悪魔を斃して人類の勝利と言う形で終わらせる筈じゃった。だが件のアダムは、あろう事か魔王の存在を明るみに出し、人々に明確な終わりを見せてしまったのじゃ」

「……魔王が元凶、殺せば終わる……とかですか?」

「うむ。聡明で良い子じゃの」


 察しが良い。イングリットは凡その事情を理解し、その先を当てた。追い詰められた人類が、群として見ていた悪魔の中に唯一絶対の敵を見つけてしまったのだ。

 そうなってしまえば、例え全ての魔王軍以外の悪魔を殺害したとしても、人類に安寧は齎されないだろう。言ってしまえば、イナリと勇者ブレイドと魔王ファウスト。その三人が練った計画の根底が崩れてしまったという事。

 そうなってしまえば、止まる事など叶わない。


「奴は決して表には出なかった。だが魔王ファウストの肉体を常に狙ってはおった。訳は分からぬ、しかし奴は疲弊した人類を悪魔の囁きで狂奔へ導き、戦火は狂気と共に広がった。最早、旦那様が魔王を討つまでそれは止まらぬ所までのぉ」

「そうだったんですか……それが真実」


 落としどころを無くし、混迷に混迷を重ねた戦争の果ては人類の勝利。

 しかし歴史書に描かれない真実を知ったイングリットは、少なからず衝撃を受けたのか膝の上に乗せた手を固く握り込んだ。

 イナリの語り草はそこで終わり。重たい沈黙が静寂を支配する。


「……じゃが、何故に今になって妾に斯様な事を聞いたのじゃ? スペルディア王国での経験が心境の変化を呼んだのかぇ?」


 気まずい沈黙を破って、イナリは今更ながらな質問をかける。孫に昔話を迫られてつい訳を聞くのを忘れていたのだろう。

 本当に今更な質問にイングリットは苦笑した。訳を分かっていて答えてくれたとおもっていた所でこれだ、やっぱり中身は年寄りなのか。


「それもあります……が、先日アレックス殿が姿を消しました」


 もの悲しそうに苦笑を浮かべながら、イングリットは消え入りそうな乾いた笑い声を上げて答えた。

 物騒な話に、イナリの眉間に皺が寄るのを見てイングリットは詳しく説明する。


「スペルディア王国での騒乱の後、アレックス殿はなにやら思いつめたような表情で居ました。気づいていながら僕は何もできず、アレックス殿が忽然と姿を消して……それでふと思ったのです、もしかしたらアレックス殿は勇者という重責を厭ったのではと」


 その言葉に怒りや詰りは無い。ただただ罪悪感と後悔が滲んでいる。

 もっと早くに気づいていれば、もっと勇気があって相談の一つでも出来れば。イングリットはひたすらに自分を責めるばかり。


「思えば、アレックス殿は一度とて自分を勇者だと言った事も、それを誇った事もありませんでした。僕が流石勇者と呼ばれる程だと手放して褒めれば、彼は寂し気な苦笑を浮かべるだけでした」


 懐かしそうに思い出を振り返るイングリットの表情は、温もりに触れて幾分か柔らかくなったが、それ以上に痛みを堪える様に声が震えている。


「今のお話を聞いて何より思いました。わが国の王家は初代勇者様の直系、にも関わらず王家の血の無い彼が勇者と呼ばれる事が、どれだけ重たく苦痛であったか。きっと、彼はそんな物を欲していなかったのでしょう。僕と剣を交えていた時だけは、凄く暖かくて柔らかい笑みを浮かべてくれましたから」


 胸に手を当て、大事そうに抱えるイングリットの姿は純粋な想いに比例して儚くも美しい。

 それを慈しむように眺めるイナリは、ゆったりと身体を起こすとイングリットの頭を愛情深く撫でだす。


「誠に、そのアレックスを思っておるのじゃのぉ」

「……はい、この想いは僕の宝物です」


 撫でられてなのか、胸に秘める想い故なのかイングリットは目を細めて口元を綻ばせる。イングリットにアレックスを責める様子は無い、ただそこにあるのは無上の親愛と身を案じる心だけ。


「イナリおばあ様」


 頭を撫でられていたイングリットが、決意を秘めた様子で顔を上げる。

 少年の顔ではない。覚悟を決めた漢の姿がある。


「300年前の因縁、僕が……僕たちが決着をつけます。そして、僕は必ず大切な人を救います、守り抜きます」


 スペルディア王国での経験。そして自分の心に気づいたのか、イングリットは力強く宣言した。

 イナリはその姿に目を丸くして驚いてしまう。さながら、久しぶりに会った孫が想像以上に成長している姿を見て驚いたお祖母ちゃんの様に。実際そうなのだが。


「それでは、貴重なお話ありがとうございます! これ以上長居しては、母上に怒られるのでそろそろお暇させて頂きます! また来ますね、おばあ様!」


 驚くイナリを尻目に、イングリットは勢いよく立ち上がると元気一杯に風の子の様に走り去っていってしまった。

 実はイングリット、スペルディア王国での負傷が原因で母親に絶対安静を言い渡されていたのだ。もし言いつけを破ったことを知られては、母親の怒号が国中に響くだろう。一瞬の内にイングリットは消えてしまった。


「……なんとまぁ、子の成長は目まぐるしいのぉ」


 可愛らしくもきょとんとした間抜け顔のまま、両手を胸元に上げて固まっていたイナリはそれだけ絞り出して苦笑を浮かべた。

 一気に静かになった部屋に一人残った彼女は、再び煙管を加えるとボロボロの日記を撫でて顔を綻ばせる。


「申し訳なくは思おておるのじゃよ? 妾達のやり残しを孫達におしつけてしまうのは。だがのぉ、妾の話を聞いて終わらせるといってくれたのじゃ。嬉しいと思ってしまうのもしようがないじゃろ」


 ひじ掛けに身体を預けたまま、イナリは大事そうに日記を胸に抱きしめ目を瞑る。もう記憶の中にしかいない愛しい人との思い出を振り返りながら、彼女は幸せそうに微笑む。


「久しぶりに感情を出したから疲れたのじゃ、微睡みの中で旦那様に会いに行くとするかのぉ」


 寂しい涙を一筋流しながら、彼女は幸せそうに眠りについた。

 きっと、幸せで悲しい夢を見ているのだろう。人の恋心に充てられて、イナリの中の少女の様な恋心がぶり帰ってしまった。


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