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第十五話 霧絵との逃避



 奏翔と霧絵が共に連れ立って逃避劇を始めていた、その頃。

 ひなたは買い物袋を両手に下げたまま、必死に奏翔を探し回っていた。

「はあ、はあ……。かなちゃん、どこ行っちゃったの……?」

 そばにあったガードレールにもたれかかりながら、しばし乱れた呼吸を整えるひなた。そうしている間にも、視線だけは忙しなく辺りを見渡していた。

 奏翔の姿を見失ってから、かれこれ十数分以上も経つ。心当たりのあるところもいくつか探してみたのに、一向に見つからないままだった。

 いつもだったら、どこにいてもすぐに見つけられる自信があるのに、今だけは波長が合わないというか、奏翔にああもはっきり拒絶されたせいもあってか、いつもの勘がどうにもうまく働かなかった。

「かなちゃん……。一体どうしちゃったんだろ……」

 何度電話しても全然繋がらないスマホのディスプレイを見つめながら、ひなたは不安げに言葉を漏らす。

 あの怯え方は尋常ではなかった。それも不良や獰猛な犬に襲われたとかそんなレベルではなく、もっと深刻な事態を窺わせるくらいのなにかが。

「…………」

 思わず握りしめた両手をぐっと胸の前まで寄せて、深い吐息をつく。

 もうかれこれ十数年近く──それこそまるで家族のように接してきたが、あんな奏翔を見るのは初めてだった。単に怯えているくらいならなにか怖いことでもあったのかと心配するだけで済むが、あれは視界に映るすべてが信用ならないとでも言いたげな、疑心暗鬼に満ち満ちた目だった。

 その猜疑心が幼なじみであるはずの自分にも向けられて、それが形容できないほどショックでならなかった。響一郎や鳴といった親類を除けば、自分が一番奏翔に近い存在なのだと自負していただけに。

「かなちゃん……」

 祈るように組んだ手を鼻先まで寄せて、ひなたは静かに瞑目する。

 奏翔の身になにがあったのかは知らない。だが、なにかしら危険なことに巻き込まれているのは、奏翔のただならぬ様子を見れば一目瞭然だった。

 下手に関われば、自分にまで危険が及ぶかもしれない。しかしながら、あの状態の奏翔を放っておこうとは微塵も思わなかった。

 自分になにができるかはわからない。具体的にどう危機的状況に立たされているかも不明瞭なため、警察に相談することもできない。けれど。

「わたしがなんとかしなきゃ。響一郎おじいちゃんとも約束したんだもん。かなちゃんはわたしが守るって」

 今でもはっきり覚えている。それはまだ小学生になったばかりの頃、響一郎が海外に赴く度に寂しがってぐずっていた奏翔をあやしながら、たまたま遊びに来ていたひなたに顔を合わせてこう告げたのだ。



『ひなたちゃん、儂がいない間、こいつの面倒を見てあげてはくれないかのう? 娘の鳴もいてくれるが、あいつも仕事でなかなか帰ってこれない時もあるし、よかったらちょくちょく構ってあげてほしいんじゃよ』

『いいよー。わたしがかなちゃんを見ててあげるー』

『それは助かる。それでできれば、今後も儂が仕事でいなくなる時に奏翔の様子を見てあげてほしんじゃ。普段は強がっていたりもするが、この通り寂しがり屋でな。儂が親代わりをしているが、一緒に居てやれない時も多いし、なにかと心配なんじゃよ』

『じゃあわたしがかなちゃんのお母さんになってあげる~。それならだいじょうぶ?』

『お母さんか。ははっ、それはいい! じゃあお母さんとして、どうか奏翔のことを守ってあげておくれ』

『うん! ひなたママにまかせて!』



 そう無邪気に頷いて、ひなたは奏翔の親代わりになることを決めた。

 あの時は小さかったこともあって、深く考えずに了承したが、今となっては本当に自分が奏翔の親代わりなのだと心から思うようになった。だから──

「早くかなちゃんを見つけなきゃ。だってわたし、お母さんだもんっ」

 気合を入れるようにパンパンと両頬を叩いて、ひなたは力強く顔を上げた。

 いつまでもこんなところでウジウジしているわけにはいかない。こうしている間にも、奏翔の身に危険が迫っているかもしれないのだから。

 とはいえ、このまま無作為に探し回るのはさすがに効率が悪い。思い付くところはさんざん捜索したし、なにか手掛かりでもあれば助かるのだけど──



「あら? ひなたさんではありませんの。こんなところで会うなんて奇遇ですわね」



 と、不意に背中から声をかけられ、ひなたはすぐさま振り返った。

 そこには、田舎の一般道にはあまりにも不釣り合いなリムジンが、車の往来の邪魔にならない位置で一時停車していた、そしてその広い後部座席に、煌びやかな私服を着たエリカが窓を開けて顔を覗かせていた。

「はっ。ひなたさんがここにいるということは、もしかしたら奏翔さんも近くに? どこですの! どこにいるんですの奏翔さん!」

「エリちゃん! グットタイミング!」

 なにやら勝手な思い込みで奏翔の姿を求めるエリカに構わず、ひなたは高級車だということも忘れて窓に駆け寄った。

「かなちゃんがどこにいるか知らない? ずっと探してるの!」

「……知らないもなにも、今のわたくしの行動を見ていなかったんですの?」

 などといつもの調子でツッコミを入れつつも、ひなたのいつになく焦った様子に「なにかあったんですの?」とすぐさま真剣な面持ちになって訊ねた。

「うまく言えないけど、かなちゃんが危ない目に遭っている気がして。スマホも全然繋がらないし、すごく心配で……」

「奏翔さんが……?」

 いかにも不安げに表情を曇らせるひなたに、エリカも緊急性を感じ取ったのか、眉間にシワを寄せて聞き返す。

「すでに自宅に帰っているという可能性は?」

「それはないと思う。下校途中にかなちゃんと別れたんだけど、とっくに家に帰っていておかしくない時間帯にこの近くで見かけたから。とても怯えてた感じだったし、なにかから逃げている途中だったのかも……」

「それは、確かに心配ですわね……。わかりました。わたくしがなんとかしましょう」

「え? 今の話、信じてくれるの?」

 きょとんとするひなたに、エリカは少し呆れたように嘆息して、

「当たり前じゃありませんの。幼なじみとはいえ、あの奏翔さんが信頼しておそばに置いている方なんですのよ。わたくしが信じないわけがありませんわ」

 言いながら、エリカは座席に置いてあった鞄からスマホを取り出して操作し始めた。

「本当はわたくしも一緒に探して差し上げたいのですけれど、これからお父様の大事なお客様と会わなければならない用があるので、居場所だけ教えますわ」

 そのスマホでどうやって居場所を探るんだろうと疑問に首を傾げるひなたに、エリカは豊満な胸を居丈高に張って、こう繋げた。

「その代わり、絶対に奏翔さんを助けなさいな。でないと、この千条院エリカが承知しませんわよ?」




 柊から逃げている間に、奏翔はこれまであったことを霧絵に話した。

 さすがにエリクシアなんてファンタジーな代物を信じてもらえるわけがないので、そこはぼかして真城や宵町先生の件も伏せつつ、大まかに事情を説明した。

「それで警告文みたいな手紙が届いて以来、実際僕の命を狙う組織から何度も狙われたりしたんだよ。マンションの屋上からフェンスを落とされたりとか、軽トラックに轢かれそうになったりとか。さっきなんて拳銃で撃たれそうになったし……」

「……そう。にわかには信じがたいけれど、そんな大変な目に遭ってきたのね……」

 陰鬱に語る奏翔に、同情的な目線を送る霧絵。すべてを信じたわけではないようだが、少なくともかなり深刻な事態に巻き込まれているという点だけは理解してくれたようだ。

 そんな奏翔と霧絵は今、路地裏の入り込んだ道に逃げていた。霧絵に手を引っ張られた時はどこへ連れて行く気なのかと思っていたが、どうやら柊を撒くためにあえて建造物の多い閑散とした道を選んだようだ。おそらく少しでも柊から姿が見えなくするためなのだろうが、周囲への被害も考慮してくれたのかもしれない。

 そのおかげもあってか、今のところ、どうにか柊と接触せずに済んではいるが──

「このたまに聞こえてくる足音って、やっぱり柊さん……?」

「でしょうね。周りに人はいないし、それも私達を追っているような感じだから」

 ということは、やはり狙いは奏翔と見て間違いはなさそうだ。これだけ執拗に追跡してくるということは、今日中に決着を付ける気でいるのかもしれない。

「ところで今さらだけどさ、委員長はこのまま僕と一緒にいて平気なの? もしかしたら委員長まで酷い目に遭うかもしれないのに……」

「それこそ今さらよ。ここであなたを見捨てたら、委員長の名が廃るってものよ。一生後悔することになるわ。なにより──」

 と、分かれ道に入ったところで一区切り置いたあと、入念に周囲を見渡してから、再度歩を進めて言葉を紡いだ。

「困っている人を助けるのは当然のことよ。それで私まで危険が及んだとしても、その時にまた対処すればいいわ。だから、音無君が気に病む必要なんて一切ない」

 なんて頼もしい言葉だろう。普段はポンコツな面が目立つだけに、やけに霧絵がカッコよく見える。

「……それより、これからどうしたものかしら。このまま柊さんが諦めて帰ってくれるのが一番いいのだけれど、そんなつもりはなさそうだし。むしろちょっとずつ距離を詰められているような気さえするわ」

 言われてもみれば、心なしか足音がだんだん近付いているような気がする。やはり暗殺者なだけあって、気配に敏感ということなのだろうか。柊と遭遇した時点では、けっこう距離が離れていたはずなのに。

「……あのさ、説得とかって無理なのかな……?」

 未だ霧絵に手を引かれながら、奏翔はおそるおそるといった態で口を開いた。

「いつから僕を殺そうとしていたのかはわからないけど、それまでクラスメートとして仲良くしていたわけだし、情に訴えかけたらどうにかならないかな……?」

「バカね。フェンスを落としてきたり、無人の軽トラックを突っ込ませたりするような人なのよ? 本気で説得なんてできると思う?」

「無理……かな」

 当たり前でしょ、と奏翔の提案をあっさり一蹴して、まっすぐ前に向き直る霧絵。

「とにかく今は逃げることだけを考えないと。このままだと追いつかれかねないわ」

「どこかに隠れてみるのは? もしかするとあちこち動き回っているせいで、逆に気配を感じ取れやすくなってるのかも……?」

「……一理あるかもしれないわね。音無君の話を信じるなら、相手はプロの暗殺者ってことになるし。一旦どこかに身を隠すのは悪くない手かも」

 そうは言っても、と依然として塀と塀の間にあるような小道をあえて選びながら、霧絵は辺りを見回す。

「隠れられそうなところなんて、どこにもなさそうね。下手に民家の庭なんて入ったら、それこそ騒ぎになって本末転倒だし、かと言ってお店の中だと、もしも見つかった時に逃げ場がなくなっちゃうし」

「前に通り過ぎた公園とか神社はどう?」

「見晴らしが良過ぎてダメね。見つけてくださいって言っているようなものだわ」

「でも、他に隠れられそうなところなんて…………あ」

 と、そこでなにげなく目線を上げて塀を超えた先を見てみたところで、少し古びた様相のマンションを発見した。

「あそこに行ってみるのは? 確かけっこう前から廃墟になっていたような……」

「あのマンションね。いいわ。人もいないでしょうし、早速向かいましょう」



 柊の追跡を避けつつ、急いで廃墟へと駆け込む奏翔と霧絵。

 するとそこには『KEEP AUT』と表記されている黄色いテープと、工事現場でなどでよく見かける立て看板が所々に設置されていた。取り壊し予定日も決まっていないのか、まだユンボなどの重機は敷地内には見当たらず、当然のことながら作業員の姿も見受けられなかった。つまり、忍び込むのには絶好の場所というわけだ。

「ちょうどいいわ。柊さんに追い付かれる前に入ってしまいましょう」

「あ、でも部屋には入れないだろうから、階段とか踊り場くらいにしか隠れる場所がないと思うんだけど、大丈夫かな?」

「横幅だけでも八部屋以上はあるし、これだけ広ければ十分よ。ほら、急ぎましょう」

「う、うん」

 首肯して、霧絵と共に正面の方から廃墟となったマンションへと入っていく。

 廃墟というだけあって壁もけっこう変色して痛んではいるが、足場は比較的しっかりしたままなので、崩れなどの心配は必要なさそうだった。これならどの階層にも問題なくいけそうだ。

「ひとまず、この踊り場で待機しましょうか」

 と、三階まで上ったところで霧絵は不意に立ち止まり、外から姿が見えないように腰を屈めた。

「……柊さん、今どの辺りにいるのかな?」

 霧絵に倣う形で奏翔も腰を屈めながら、小声で訊ねる。

「さあ……。これでどうにか撒けたらいいのだけれど……」

 返事をしつつ、霧絵は吹き抜けとなっている壁からおそるおそる顔を覗かせて、下の様子を眺める。

「今のところ、近くに柊さんはいないようね。もっとも私の見える範囲だけしか判断できないから、裏手に回り込まれていたらどうしようもできないけれど」

「裏から入れそうなところなんてあったっけ?」

「急だったから確認はしていないけれど、こういうところには大抵裏手に非常口があったりするものよ。もしかしたら私達がここに潜んでいるのに気付いて、勘付かれないようにあえて非常口から入ってくる可能性も否めないわ」

「な、なるほど……」

 思わず感嘆の吐息をこぼす奏翔。今までこういうマンションに行った経験がなかったので、そういった発送には思い当たらなかった。さすが成績上位者だけのことはある。

「でも正直言って、これも一時しのぎにしかならないでしょうけどね。仮に今日をなんとか乗り切ったところで、また明日から狙ってくるはずでしょうし」

「あ、それもそうか。じゃあ今のうちに遠方に逃げた方がいいってこと?」

「それが長期間続けられる資金が、今手元にあったらね。それとも音無君は、宿の心配がいらないほどのお金を持っているのかしら?」

「いや、さすがにそんな金は手持ちにないよ……」

 仮に今からATMでお金を下ろせたとしても、働かずに町から町へ逃れるだけの貯金額なんて、バイトもしていなければ標準の高校生が貰える程度のお小遣いしか叔母から渡されない奏翔にあるわけもなかった。

「そうなると、最悪、柊さんと対峙するケースも考えないといけないけれど、拳銃まで持っている相手に素手で挑むなんて現実的じゃないし……って、いけないっ!」

 突如、そんな焦燥に駆られた声を漏らして、俊敏に壁から頭を隠す霧絵。

「き、急にどうしたの?」

「……柊さんよ。柊さんが今、このマンションの前まで来ているわ……」

 冷や汗を垂らしながら声を押し殺すように言う霧絵に、ぞっと背中に怖気が走った。

「な、なんでここに……? 柊さんからは見えてなかったはずなのに……」

「さっき敷地内にあった砂利道をしきりに観察していたみたいだから、私達の足跡でも見てここが怪しいと踏んだのかも……。どちらにしても勘が鋭いのは確かね。他にも隠れられそうな場所はいくつかあったのに、このマンションに目を付けたのだから」

「どうしよう! 柊さんがここまで来ちゃったら……!」

「落ち着きなさい。ひとまずここから離れるわよ。できるだけ物音を立てないようにね」

 言いながら真っ先に階段を上った霧絵に、奏翔も無言で頷いて、静々とあとを追う。

「で、これからどうするの……?」

 すっかり霧絵の腰巾着みたいになっている自分に情けなさを憶えつつ、そのいつになく頼もしい後ろ姿に問いかける。

「そうね……。このままマンション内を歩いていたら柊さんと遭遇しかねないし……。そうなると屋上に行く方が無難かも……」

「えっ。でもそれって、逆に逃げ場がなくなっちゃうんじゃ……」

「少なくとも、こうして下手に動き回るよりはマシよ。柊さんが私達の気配を辿ってきているのならなおさらね」

「もしも柊さんまで屋上に来ちゃったら……?」

「その時はすべての出入り口をどうにか塞いで、屋上から助けを呼ぶしかないわね。その間に突破されてしまったら、もうなす術はないけれど」

「そんなあ……」

「情けない声出さないでよ。私だって怖いんだからね……」

 と、ここに来るまでずっと手放さずに持っていた鞄をぎゅっと抱きしめた霧絵に、奏翔は「あっ」とか細く呼気をこぼした。

 そうだ。狙われているのは間違いなく奏翔だが、さりとて霧絵にまで矛先が向かない保証はどこにもないのだ。それを考えずに自分ばかり怖がって、なんと愚かなことか。身勝手な言動ばかりの自分が恥ずかしくて仕方がない。

「ごめん委員長。自分のことばかりで……」

「別にいいわよ。気持ちはわからないでもないし。それよりもほら、急ぐわよ」

 振り向きざまに苦笑しながら言った霧絵に、奏翔はもしもの場合は男の自分が霧絵を守ろうと固く胸に誓いながら、力強く頷いた。



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