第9話 氷の花子さん
地獄とは、まさにこういう場面のことを言うのではあるまいか。
本気でそう思った。
今は背中に、だらりと冷たい汗が流れるのを感じている。
どうやれば、この三人がここに集うというのだ?
学校じゃあるまいし。
無邪気にドヤ顔の親友。それはまだいい。
普段は教壇の上でしか見られない、男子憧れの吉岡先生がどうして。おまけに私服姿が心臓に悪すぎるだろ。そして、俺の迂闊な一言のせいで、氷のオーラを放つに至る学校一の美女、九条さんがいた。
これまた反則的な私服姿で。
神よ、何故我を見捨てたのか。
ここは我の病室ではなかったのか?
どうにも、役者が揃いすぎているだろうに。
ただならぬ気配に、何かを感じ取ってくれたのか……。吉岡先生が助け舟を出すように、健太へと話しかける。
よし、いいぞ先生! この流れを断ち切ってくれ!
俺は心の中で、祈るように先生に声援を送る。
「こら、小園君。ここは病院なのよ? あんまり騒がしくしないの。大人しくする約束だったでしょ」
「うす! ななちゃん先生」
ポカッ、と間の抜けた音がして、先生の綺麗なチョップが健太の脳天に吸い込まれるように、叩き込まれていた。
「だーれーが、ななちゃん先生よ。いい加減、その呼び方はやめなさい」
「いってぇ……。……サーセン」
全く反省の色がない顔で頭をさする友人は、余程罰が悪かったのだろうか。その気まずさを誤魔化すように、何も考えずにこの場の最大の地雷原へと突き進んでいく。
ああ、何も知らないとは、かくも恐ろしいものか。
「そういえば九条さん、さっきの話だけどさ。誰か知り合いでも入院してたりすんの?」
吉岡先生の追求をかわすためか、あるいは健太なりの純粋な疑問だったのか。どちらにしろそれが、俺にとって地獄の釜の蓋を開けるに等しい言葉になるとは、等の本人も夢にも思うまい。
九条さんはゆっくりと、まるで錆びついたブリキ人形のように、それへと答えていく。俺へと向けるその瞳には、一切の光なく。
「いえ、どうでもいい人よ」
俺にだけ分かる、絶対零度の氷の刃。
それは冷たく、とても硬質なものだった。
「わざわざ休みの日に、それこそちゃんと準備をして面会に来たと言うのに、あまりにもひどい対応をされたから。だから、帰ることにしたの」
共に過ごしたこの数日。
俺がずっと見てきたのは、無口な中に、確かな温もりを宿した瞳だった。不器用な優しさと、ほんの少しの好意が、その奥で静かに揺れていたのに。
今はもう、仮面に隠れて見えない暖光。
「なんだ、それ。そんな奴の見舞いになんか行く必要ないぜ、なあ、蒼」
振るな、俺に!
頼むから、こっちに振らないでくれ。
魂の叫びも虚しく、一名を除いた好奇の視線が、俺という名の生贄へと集まる。
「ああ。確かにな……」
自分自身を「酷いやつだ」と断罪する。これこそ茶番以外の何者でもないではないか。あまりにもシュールな絵面だ。どんな悲喜劇だよ。
「でもまあ、そいつも今頃、反省してんじゃねえかな?」
おっ、さすが親友、そう言うのを待っていたんだよ。
吐かれた言葉に、俺は藁にもすがる思いで同調し、必死に九条さんへと視線を送った。
『そうなんだよ、心の底から反省してる』と。
流れに便乗するなら、今しかない。
「うんうん、その通りだと思う。きっと反省してるよ」
だというのに、俺の願いを込めた視線は彼女の冷たい無関心に阻まれ、届くことすらなかった。それから、彼女は吐き捨てるようにこう続けたんだ。
「そうかしら。とても、そうは見えなかったわ。追いかけても来なかったもの」
俺の心に木枯らしが吹いた。春だというのに。
「うわ、ひっでえ奴」
うるさいぞ、健太。それ以上、俺の心を抉るな。
分かってるよ。ああいう時、男は女を追いかけるべきなんだろ? 映画やドラマなら、間違いなくそうだよな。
でも、息をするだけで痛むこの胸で、どうやって追えと言うんだ。右腕だってまともに動きやしない。恋愛ドラマの主人公のようになんて、なれない。
あまりにも不毛で、あまりにも気まずい会話が繰り広げられる中。
この地獄のような場に、ただ一人。
担任の吉岡先生だけが、全てを見通したかのような、それでいてどこか慈愛に満ちた微笑みを浮かべていたことなど。
パニックの渦中にいた俺が、気づけるはずもなかったのだ。
その後、どうやってその場を乗り切ったのか、正直あまり覚えていない。
吉岡先生が、当たり障りのない学校の話や、退院後の注意点をいくつか話してくれたことも。健太は時折それに茶々を入れ、その度に先生に軽く怒られていたことも。まるで、分厚いガラス越しに遠くの出来事を眺めているかのように、全てがぼんやりとしていた。
やがて、終わりは訪れる。
「じゃあ、そろそろ私達は帰るわね。水無月くん、お大事に」
「おう、蒼。また学校でな!」
エレベーターの扉が閉まり、蒼のいる病室の光景が、細い線となって完全に切り離される。箱が静かに下降を始める、その無機質な動作音だけが響く中、それまで無理に明るく振る舞っていた小園 健太が、ふう、と大きなため息をついた。
「はー、しかし、よかったよ。骨折は酷かったみてえだけど、命に別状なくて。マジでほっとした」
それは、親友の無事を心から喜ぶ、偽りのない本音の言葉。
どこまでも普通で、ありきたりで、だからこそ温かいその言葉に、それまで凍りついていた彼女の何かが、少しだけ溶けたのかもしれない。
隣に立つ九条葵が、か細い声で相槌を打った。
「……ええ。本当に、そうね」
吉岡 七海はそんな二人の様子を、ただ黙って、どこか優しい目で見守っている。
ちん、と軽い音がして、一階に到着したことを告げた。
開いた扉の向こうは、面会時間を終えようとする人々で、ざわめきに満ちている。
その人の波を抜け、病院の玄関口がもう間も無くという頃になって九条 葵は、ふと足を止めた。
「あの……私、さっき言った最初にお見舞いに来た人に、もう一度、顔を出してくるわ。変な別れ方も嫌だし」
その声は驚くほど平坦で、感情が読み取れない。
だが健太には、そんなことなどお構いなしだ。
「へえ、律儀だな、九条さんは。分かった、じゃあ俺と先生は先に帰ってるわ」
「ええ」
健太が軽く手を上げて、吉岡 七海も「気をつけてね」と声をかける。
九条 葵は小さく一度だけ会釈すると、くるりと踵を返した。先ほどまで三人が歩いてきた道を、今度は一人で、迷いのない足取りで戻っていく。
その細い背中が、雑踏の中に見えなくなるまで、吉岡 七海は、どこか物言いたげな、それでいて全てを見通しているかのような複雑な表情で、静かに見送っていた。
~あとがき~
第9話、お読みいただきありがとうございます。作者の神崎 水花です。
地獄の空中戦、いかがでしたでしょうか。健太と先生には見えない蒼と葵のせめぎあい、すれ違いが焦点でした。
物語は、ここからさらに加速していきます。「面白かった!」「二人のすれ違いが、もどかしい!」と、少しでも思っていただけましたら、ぜひ下の「☆☆☆☆☆」を「★★★★★」に変えて、応援していただけると嬉しいです。飛び上がって喜びます。
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