第8話 大爆発
土曜日の朝。それは、昨日とはまた違う種類の諦観から始まった。
朝食との戦いの結果? 言うまでもない惨敗デス。無様にスプーンを落とし、盛大にため息をつき、早々に白旗を上げて終わり。
情けないから、これ以上の説明は勘弁してほしい。
そして俺は、つくづく自分が救いようのない人間だと思い知る。
つい先日、お前は事故で車に轢かれたばかりではなかったか? だというのに、もうこの入院生活に嫌気が差しているのだから度し難い。
ここにいても、何もすることがないんだ。今の俺にやれることと言えば、ぼーっと日がな一日テレビを見るか、ただ寝るだけという。救いのない二者択一だけだもんな。
まるで隠居生活だよ。
まだ十代の身なのに。
そんな虚無の牢獄から抜け出したくて、何度か歓談スペースのようなところへ向かってみるも、いるのはお年寄りか、どこかのご家族ばかり。
話し相手になりそうな人なんて、誰一人いそうにない。
これなら家で、雑事に追われていた方がよっぽどマシだったと思うほどに、とにかく、暇で暇でしょうがなかった。
そこでふと、俺は自分の私物のことを思い出す。
事故に遭う前に着ていた制服や、通学鞄。それこそ、財布やスマホは一体どこへ行ったんだろう。気になって。多少動く左の指で、ベッドサイドに備え付けられたクローゼットの扉を、なんとなしに開けてみる。
すると、意外や意外。
中には、綺麗に畳まれた新品の下着やタオル、それから旅行用のシャンプーなんかが入ったミニセットが、整然と並べられていた。
そういえば……。
入院初日、まだ意識が朦朧としていた俺に、彼女が「必要なものは、ここに入れておいたから」とかなんとか、言っていたような気がするぞ。
今頃思い出すなんて。
やっぱり俺、相当テンパってたんだろうな。
ありがたい。どこまでも真っ直ぐな彼女の好意が、本当にありがたかった。
でも、財布やスマホが無いのは不安でしかないよな。
あっ!? そういえばバイト先に、何の連絡も入れていないじゃないか……!
「あちゃ~、しまったなあ……無断欠勤になるよな、やっぱり」
ベッドの上で一人、頭を抱えていると、
「何が、しまったの?」
慌てて声のした方へ顔を向けると、そこに、いつの間にか九条さんが立っていた。黒のロングスカートに、ごつめのブーツがとてもお洒落な、昨日とは全く違う私服の姿で。
けど、今の俺にはその反則的な私服姿を吟味している余裕など微塵もない。
俺は衝動的に、時計へと目をやる。
午前十一時!
そうか、週末の面会時間はこの時間だったか。
「九条さん! 会いたかったんだ、本当に!」
それは、もはや懇願に近い響き。
スマホを無くした焦り。バイト先への連絡手段を失った焦燥と、そこに現れた救いの女神への安堵。それら全てがごちゃ混ぜになった、必死の叫びだった。
けど、その言葉を受け止めた九条さんは、まるで時が止まったかのように、ぴしりと固まっている。
「え……?」
長い睫毛に縁取られた切れ長な瞳が、戸惑うように、数回、ぱちぱちと瞬く。
そして、次の瞬間。
雪のように白かったはずのその頬が、みるみるうちに夕焼けのような朱色に染まっていくから、鈍感な自分でも気づいてしまう。
なにか、やらかしたぞ、と。
「きゅ、急に……そんな、まっすぐに言われても……」
──あ、やばい。これ、盛大に勘違いされてるやつだ。
俺の脳裏で、警報がけたたましく鳴り響く。
だが、時すでに遅し。
ってまさか、自分がこんなベタな言葉を使う日が来るなんて……。って、今はそれどころじゃない!
彼女は何かを決心したように、ぎゅっとスカートの裾を握りしめると、上目遣いに俺を見つめてくる。ああ、もう間に合わない。これ絶対後で、怒られるやつだ……。
急げ、蒼!
「……わ、私も……その、会えなくて、寂しかった、かも?」
「違うんだ九条さん! スマホが無くて! バイト先に連絡もできてない!!」
俺の魂の叫びと、彼女の勇気を振り絞ったであろう謎の告白が無慈悲に衝突する。
そして始まる、大爆発へのカウントダウン……。
5、わけもわからず、ぽかんと俺を見つめる彼女がいて。
4、次第に顔は俯き、肩はワナワナと震え出す。
3、やがて、自分の盛大な勘違いに気づいたのか、その顔は前日の比ではないほど灼熱に染め上がり。
2、未だかつてみたことのない表情を浮かべている。
1、その美しい瞳の端に、大粒の悔し涙が、きらりと浮かんで。
──ああ……。
「蒼くんのバカ! アホ! 死んじゃえ!」
「く、九条さん……!?」
「無理! 無理無理無理、もう無理!」
言葉が終わるや否や、彼女は弾かれたように身を翻し、病室を飛び出していった。
「ちょっと、待ってくれ!」
俺は、骨折の痛みも忘れて追うけど、彼女は止まらない。エレベーターホールの方へと走り去っていく背中を、ただ呆然と見送るしかなかった。
閉じるエレベーターの扉を見送り、俺はトボトボと、幽霊のような足取りで自分の病室へと戻ってきた。一体、何だったんだ、あの反応は。
一人になった俺は改めて、先ほどのやり取りを脳内で再生してみせる。
俺が「会いたかった」と言った。
その直後、彼女の顔が赤く染まった。
彼女が、その言葉を誤解をするかもしれないことは承知していた。だから慌ててスマホの話をした途端、彼女は爆発した。
『私も会いたかった、かも』
誤解から生まれた言葉とはいえ、まるでカップル同士みたいな会話だった。
彼女、まさか、俺のことを好きだったりする訳!?
ナイナイナイ。
それだけは、天地が引っくり返ってもナイね。断言してもいい。初めて、まともに喋ったのが、つい数日前だぞ? しかも事故の当日からときた。
過去に、クラスで何度か目が合ったことはあったけど、それらしい反応なんてタダの一度も無かった。その設定は、流石に無理があるわ。
どう結論付けようとしても、脳裏に焼き付いて離れない。九条さんのあの、本気で傷ついたような、泣き出しそうだった顔が。
「はあ、謝んないと、な……」
誰に言うでもなく、そう呟く。
理由は正直、わかるようでわからない。でも、とにかく、俺は彼女を傷つけてしまった。その事実だけが、鉛のように胸に重くのしかかっている。
深く重いため息をつき、俺がベッドに深く身を沈めた時だった。
スライドドアが今度は遠慮なく、がらりと開かれる。
この遠慮の無さは、絶対に九条さんではない……。
「蒼、元気にしてたか! 俺が来てやったぞ!」
太陽のような笑顔を浮かべた健太が眩しい。
「小園君、静かにね。……水無月くん、どう? 調子は」
その後ろからは、心配そうにこちらを覗き込む、担任の吉岡先生の姿もある。
だけど俺の目は、有難いその二人を通り越して、その後ろに釘付けになっていた。
そこにいたのは……。生気を失い、禍々しいドス黒いオーラを放ちながら、能面のような顔で俺をじっとり見つめる、九条さんの姿だったから。
「聞いて驚け、蒼。病院の玄関でな、偶然、九条さんに会ったんだよ。ちょうど帰るところだって言うからさ、『だったら水無月のお見舞いに行かない?』って、誘ってみたんだ。俺に感謝しろよ?」




