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九条葵は償いたい ~その献身には理由がある~  作者: 神崎水花
第一章 始まりは突然に

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第6話 偶像崩壊?

 パフンと。スライドドアの閉まる頼りない音よ。


 病室には、再び俺と九条さん。二人だけが取り残された。

 先ほどまでとは比べ物にならない、致死量レベルの気まずい沈黙の中でもう、どうしていいかわからない。

『彼女かい? すごい美人な子を連れてるね』だって?

 先生、貴方は……なんという爆弾を置いていくのですか。

 繊細な十代への嫌がらせとしか思えない! 迷惑この上ないよ、ホント!


 この沈黙を何とかせねば、と。

 そう思えば思うほどに、喉がカラッカラに乾いて、何の言葉も出てこなくなる。


「……なんか、ごめん」

 やっとのことで絞り出したのは、我ながら情けないほどに弱々しい、謝罪の言葉だったよ。近頃、謝ってばかりな気がする。

 それを聞いて彼女は、椅子に座ったまま、文庫本に視線を落としたままに、静かに問い返えしてくる。こういう時の美人って怖いんだな……。

 うすら寒いものがあるよ。


「……なにが?」

 少し気圧されそうになる。頑張れ、負けるな。

「いや、さっきの、医者の……」

 そこまで言って、俺は言葉を噤む。

 彼女はぴたりとページをめくる指を止めると、顔を上げずに、けれど、やけにハッキリとした口調で俺の言葉を遮った。


「別に、問題ないわ」

 本当に問題ないの? これって結構大事なことだと思うけど、ってあれ?

 どこまでもクールに決めたつもりだったり、するのかな?

 

 だってさ、つっけんどんにそう言い放った君の白い頬が……さっき背中を掻いてくれた時よりも、今度ははっきりと朱に染まっているのをどう、説明するんだい?


 この日、この時をもって。

 俺の中での『九条 葵』という女性のイメージは徹底的に、日々塗り替えられていくことになる。

 昨日までの彼女は、自分にとって『高嶺の花』という偶像だった。おまけに、モデルというバリアまで纏う豪華仕様っぷり。

 当然完璧で、常に冷静で、他の追随を許さない美貌を装備。決して感情を乱さない、芸術品のような女子だったんだ。だというのにだよ?

 

 いま目の前にいる彼女の姿は、医者の台詞に動揺して、それを隠そうと必死にポーカーフェイスを装ってる感じが透けて見える。

 耳や、頬の赤みまでは隠しきれていない──ただの、一人の女の子だったんだ。


 ──なんだ、俺と同じじゃん。

 それを見て、知って、感じて。俺の胸に痛烈な何かが芽生えてくる。

 それは、今まで感じたことのない、甘くて、少しだけ苦しい感情。

 ああ、なんだ……。九条さんって、こんな顔もするんだ。今日初めて、俺は彼女のことを可愛いと。そう、思ってしまった。

 今までは、綺麗、と感じるだけだったのに。


 人って不思議なもので、相手は自分と何ら変わらない一人の人間。

 そう知るだけで、途端に怖くなくなるんだ。

 いまはもう、どちらともなく、言葉を失ったまま静かな時だけが過ぎていく寡黙が、嫌じゃなくなっていた。当初あった妙な圧迫感は、もう二人の間には存在しない。

 

 窓の外が、夕焼けの茜色に染まり始めた頃。ガラガラと音を立てて、夕食を乗せたワゴンが病室にやってきた。

 トレーの上に並べられたのは、白米に味噌汁、小ぶりな焼き魚に、ほうれん草のおひたし。それと少しの添え物。

 ごく普通の、ありふれた病院食というやつだ。

 だけど今の俺にとってそれは……エベレストよりも高く、マリアナ海溝よりも深い、絶望的な巨壁だったんだ。


 こちとら育ち盛りの高校男児だよ。

 続けざまに何食も断てるものではない。かといって、箸も、スプーンも、今の俺にはまともに扱うことさえできない。

 プラスチックの蓋と格闘しようとして無様に失敗するのを、彼女はただ黙って横で見ていた。そして、俺が全てを諦めて天井を仰いだ、その時。

 

 静かに、彼女が椅子ごと身を寄せる。

 当たり前のような顔で、当たり前のような所作で、当たり前に俺の味噌汁の椀を手に取り、スプーンでそっとひと匙すくう。

 そして俺の口元に、そっと差し出す。

 吸い込まれそうなほど澄んだ瞳には、何の迷いも写っていない。

「え……?」

「あーんとでも、言えばいいの?」


「いや、そうじゃなくて」

「食べないと、良くならないわ」

 冷徹なまでの絶対的な正論を前にしては、もう何も言えなかった。何より、自分自身お腹が空いて仕方がなかったというのも大きい。

 

 とはいえ、この口を開けてスプーンを迎え入れるという動作の羞恥は、並大抵ではない。恥ずかしいにも程がある!

 世のカップル達はよくもまあ、平気でいられるものだと感心してしまうよ。

 

 遠慮がちに、少しづつ開かれていく唇。

 そこへ割って入る、一杯の匙が。

 そうして口腔を満たす味噌汁の何と美味しいことよ。そういえば、昨晩あたりから何も食べていないような気がするぞ?

 こうなるともう、スプーンを受け入れることに抵抗がなくなってしまうから。リズミカルに彼女が運んでくれる食べ物を、凄い勢いで食べ尽くしてしまうのだ。

 もう少しゆっくり食べるべきだったか……。

 みっともなかった、かも。


「男の子の食欲って、すごいのね」

「いやぁ……昨晩から何も食べてなかったから、それもあると思う」

「え、お昼は食べなかったの?」

「食べようとはしたんだけどね」

「ごめんなさい。もっと早く来るべきだったわ」

「いやいや、九条さんは学校があるから」

 

 そう言って笑いかけるも、彼女は何か言いたそうに唇を噛み、悲しげに俯いてしまった。その姿を見て、俺はぼんやりと考えていた。

 

 ただのクラスメイトに、ここまでしてくれるのか、と。

 それも昨日までろくに話したこともなかった相手にだよ。その理由は、ぶっちゃけ一つしか思い当たらないじゃないか。

 俺を轢いてしまった、という、どうしようもない罪悪感。全てそこから来ているに違いなかった。そうだろ?


 だとしたら、それは間違っているよな。

 何だか名残惜しくもあるけど、俺は、彼女のその重荷を、少しでも軽くしてやらなければならないと思うに至った。


「……九条さん」

 彼女の目を真っ直ぐに見つめ、続けていく。

「君は後ろに乗っていたから知らないのかもしれないけど。あれは、女の子を助けようと、車道に飛び出した俺が悪いんだ。だから、君がそんな風に、罪悪感を感じることはないよ」

 それが、今の俺に吐ける、最大限の誠意の言葉。


「だから、もういいよ。それに、毎日来なくたっていい。君には君の生活があるんだし」

 だけど、その言葉を聞いた彼女の反応は、俺の予想とは全く違っていて……。


 ──それに安堵するでもなく、微笑むでもないんだ。ただ、その美しい顔を、まるで泣き出しそうになるのを必死で堪えているかのように、苦しげに歪ませている。


 そして、ぽつり、と。

 誰に聞かせるでもない、吐息のような、あまりにもか細い声で呟くから。

「……蒼くん……やっぱり、優しい」

 やっぱり、聞こえなくて。

 愚かにも、聞き返してしまうんだ。

「え、なんて? ごめん、聞こえなかったよ」

「ううん、なんでもない。……なんでも、ないから」


 そう言って、彼女は再び、逃げるように文庫本の世界へと沈んでいく。だけど、その白い頬は夕焼けの茜色よりも、もっとずっと、深く赤く染まっていたような……。

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