第6話 偶像崩壊?
パフンと。スライドドアの閉まる頼りない音よ。
病室には、再び俺と九条さん。二人だけが取り残された。
先ほどまでとは比べ物にならない、致死量レベルの気まずい沈黙の中でもう、どうしていいかわからない。
『彼女かい? すごい美人な子を連れてるね』だって?
先生、貴方は……なんという爆弾を置いていくのですか。
繊細な十代への嫌がらせとしか思えない! 迷惑この上ないよ、ホント!
この沈黙を何とかせねば、と。
そう思えば思うほどに、喉がカラッカラに乾いて、何の言葉も出てこなくなる。
「……なんか、ごめん」
やっとのことで絞り出したのは、我ながら情けないほどに弱々しい、謝罪の言葉だったよ。近頃、謝ってばかりな気がする。
それを聞いて彼女は、椅子に座ったまま、文庫本に視線を落としたままに、静かに問い返えしてくる。こういう時の美人って怖いんだな……。
うすら寒いものがあるよ。
「……なにが?」
少し気圧されそうになる。頑張れ、負けるな。
「いや、さっきの、医者の……」
そこまで言って、俺は言葉を噤む。
彼女はぴたりとページをめくる指を止めると、顔を上げずに、けれど、やけにハッキリとした口調で俺の言葉を遮った。
「別に、問題ないわ」
本当に問題ないの? これって結構大事なことだと思うけど、ってあれ?
どこまでもクールに決めたつもりだったり、するのかな?
だってさ、つっけんどんにそう言い放った君の白い頬が……さっき背中を掻いてくれた時よりも、今度ははっきりと朱に染まっているのをどう、説明するんだい?
この日、この時をもって。
俺の中での『九条 葵』という女性のイメージは徹底的に、日々塗り替えられていくことになる。
昨日までの彼女は、自分にとって『高嶺の花』という偶像だった。おまけに、モデルというバリアまで纏う豪華仕様っぷり。
当然完璧で、常に冷静で、他の追随を許さない美貌を装備。決して感情を乱さない、芸術品のような女子だったんだ。だというのにだよ?
いま目の前にいる彼女の姿は、医者の台詞に動揺して、それを隠そうと必死にポーカーフェイスを装ってる感じが透けて見える。
耳や、頬の赤みまでは隠しきれていない──ただの、一人の女の子だったんだ。
──なんだ、俺と同じじゃん。
それを見て、知って、感じて。俺の胸に痛烈な何かが芽生えてくる。
それは、今まで感じたことのない、甘くて、少しだけ苦しい感情。
ああ、なんだ……。九条さんって、こんな顔もするんだ。今日初めて、俺は彼女のことを可愛いと。そう、思ってしまった。
今までは、綺麗、と感じるだけだったのに。
人って不思議なもので、相手は自分と何ら変わらない一人の人間。
そう知るだけで、途端に怖くなくなるんだ。
いまはもう、どちらともなく、言葉を失ったまま静かな時だけが過ぎていく寡黙が、嫌じゃなくなっていた。当初あった妙な圧迫感は、もう二人の間には存在しない。
窓の外が、夕焼けの茜色に染まり始めた頃。ガラガラと音を立てて、夕食を乗せたワゴンが病室にやってきた。
トレーの上に並べられたのは、白米に味噌汁、小ぶりな焼き魚に、ほうれん草のおひたし。それと少しの添え物。
ごく普通の、ありふれた病院食というやつだ。
だけど今の俺にとってそれは……エベレストよりも高く、マリアナ海溝よりも深い、絶望的な巨壁だったんだ。
こちとら育ち盛りの高校男児だよ。
続けざまに何食も断てるものではない。かといって、箸も、スプーンも、今の俺にはまともに扱うことさえできない。
プラスチックの蓋と格闘しようとして無様に失敗するのを、彼女はただ黙って横で見ていた。そして、俺が全てを諦めて天井を仰いだ、その時。
静かに、彼女が椅子ごと身を寄せる。
当たり前のような顔で、当たり前のような所作で、当たり前に俺の味噌汁の椀を手に取り、スプーンでそっとひと匙すくう。
そして俺の口元に、そっと差し出す。
吸い込まれそうなほど澄んだ瞳には、何の迷いも写っていない。
「え……?」
「あーんとでも、言えばいいの?」
「いや、そうじゃなくて」
「食べないと、良くならないわ」
冷徹なまでの絶対的な正論を前にしては、もう何も言えなかった。何より、自分自身お腹が空いて仕方がなかったというのも大きい。
とはいえ、この口を開けてスプーンを迎え入れるという動作の羞恥は、並大抵ではない。恥ずかしいにも程がある!
世のカップル達はよくもまあ、平気でいられるものだと感心してしまうよ。
遠慮がちに、少しづつ開かれていく唇。
そこへ割って入る、一杯の匙が。
そうして口腔を満たす味噌汁の何と美味しいことよ。そういえば、昨晩あたりから何も食べていないような気がするぞ?
こうなるともう、スプーンを受け入れることに抵抗がなくなってしまうから。リズミカルに彼女が運んでくれる食べ物を、凄い勢いで食べ尽くしてしまうのだ。
もう少しゆっくり食べるべきだったか……。
みっともなかった、かも。
「男の子の食欲って、すごいのね」
「いやぁ……昨晩から何も食べてなかったから、それもあると思う」
「え、お昼は食べなかったの?」
「食べようとはしたんだけどね」
「ごめんなさい。もっと早く来るべきだったわ」
「いやいや、九条さんは学校があるから」
そう言って笑いかけるも、彼女は何か言いたそうに唇を噛み、悲しげに俯いてしまった。その姿を見て、俺はぼんやりと考えていた。
ただのクラスメイトに、ここまでしてくれるのか、と。
それも昨日までろくに話したこともなかった相手にだよ。その理由は、ぶっちゃけ一つしか思い当たらないじゃないか。
俺を轢いてしまった、という、どうしようもない罪悪感。全てそこから来ているに違いなかった。そうだろ?
だとしたら、それは間違っているよな。
何だか名残惜しくもあるけど、俺は、彼女のその重荷を、少しでも軽くしてやらなければならないと思うに至った。
「……九条さん」
彼女の目を真っ直ぐに見つめ、続けていく。
「君は後ろに乗っていたから知らないのかもしれないけど。あれは、女の子を助けようと、車道に飛び出した俺が悪いんだ。だから、君がそんな風に、罪悪感を感じることはないよ」
それが、今の俺に吐ける、最大限の誠意の言葉。
「だから、もういいよ。それに、毎日来なくたっていい。君には君の生活があるんだし」
だけど、その言葉を聞いた彼女の反応は、俺の予想とは全く違っていて……。
──それに安堵するでもなく、微笑むでもないんだ。ただ、その美しい顔を、まるで泣き出しそうになるのを必死で堪えているかのように、苦しげに歪ませている。
そして、ぽつり、と。
誰に聞かせるでもない、吐息のような、あまりにもか細い声で呟くから。
「……蒼くん……やっぱり、優しい」
やっぱり、聞こえなくて。
愚かにも、聞き返してしまうんだ。
「え、なんて? ごめん、聞こえなかったよ」
「ううん、なんでもない。……なんでも、ないから」
そう言って、彼女は再び、逃げるように文庫本の世界へと沈んでいく。だけど、その白い頬は夕焼けの茜色よりも、もっとずっと、深く赤く染まっていたような……。




