第57話 何も話せない二人
吐き出される帰宅ラッシュの人の波。
その猛烈な雑踏に紛れてホームに降り立つと、彼女は俺の腕をさらに強く引き寄せ、嬉しそうに顔を覗き込んできた。
結局、電車の中でただの一度も、彼女がその腕を緩めることはなかった。
ホームへ降り立ったというのに、彼女の体温はずっと俺の左腕にある。
「あのね、今日はスーパーに寄ってもいい?」
「ああ。もちろん。食材かい?」
「そうなの。ふふ、初めてね。二人でお買い物」
「え? 初めてだっけ?」
「そうよ、もう」
言われてみれば、そうか。
君と暮らすようになってから、毎日が濃密すぎて。スーパーでの買い出しすら初めてだなんて、言われるまで気づかなかった。
まるで、もう何年もこうして連れ添ってきたかのような、不思議な錯覚。
羞恥や、ドキドキといった感情は未だに暴れ回っているのに、心のどこか深い部分は、妙に落ち着いているんだ。
こんなとびきりの美人と過ごしているというのに。
そんな彼女に引かれ、向かったのは駅直結──二子玉川の地下に広がるフードショーだった。
そこへ向かうエスカレーターに乗りながら、彼女が不意に口を開く。
「そういえば、体育の時間だけれど……私がこっそり手を振ったの、気づいてくれた?」
一段低い位置から、彼女がくるりと振り返り、俺を見上げてくる。
ただでさえ可愛いのに、この段差はずるいよな。自然と強調された上目遣いと、離れてしまった体温に、得も知れぬ感情が胸を締め付ける。
「もちろん。あまり女子の方ばかり見ているわけにはいかないから、ところどころだけどね。そこはちゃんと見てたよ」
「ふふ、ならよかった」
彼女は満足げに微笑むと、静かに前を向いた。
俺の視線は吸い寄せられるように、一段下にいる彼女の背中を捉えてしまう。
今はもう、その艶やかな黒髪がさらりと背中を覆い隠しているけれど。
振り返り際に柔らかく舞うその髪を見た瞬間、今日の体育の授業で見た光景が、フラッシュバックのように鮮明に蘇った。
高く結い上げられた、躍動するポニーテール。
走るたびに、軽やかに揺れる毛先。
そして何より──普段は黒髪のカーテンに守られている、驚くほど白くて、無防備なうなじや、形の良い耳がさ。
その凛とした美しさと、ふとした瞬間に覗く健康的な色香が、俺の網膜に焼き付いて離れないんだ。
「……あのさ」
口をついて出た声は、自分でも驚くほど掠れていた。
彼女が不思議そうに振り返る。
「なあに?」
「……今日の、体育」
俺は少しだけ視線を逸らし、頬が熱くなるのをごまかしながら、けれど、伝えずにはいられなかった本音を紡ぐ。
「初めてじっくり見たけど……その。ポニーテール、すごく似合ってたよ」
素直な感想を伝えると、彼女はきょとんと目を丸くし──それから、嬉しさを噛み締めるように目を細める。
口元に、可憐な花がふわりと咲いた。
「……そう。似合ってた?」
「ああ。すごく」
「誰よりも?」
「そうだね」
「ふふ。ありがとう」
彼女は短く礼を言うと、どこか意味ありげな、それでいて少し照れたような笑みを浮かべて、再び前を向いた。
エスカレーターを降りると、そこはもう食のテーマパークみたいで。
明るい照明の下、色とりどりのデリや焼きたてのパン、そして新鮮な食材が所狭しと並び、夕飯の買い出しに来た人々でごった返している。
慣れない手つきでカートを取りに行こうとした俺を、彼女が呼び止めた。
「水無月くん、ごめんなさい。ちょっとお手洗い行ってきてもいい?」
「ああ、構わないよ。行っておいで」
「すぐ戻るから……待っててね?」
「わかったよ」
彼女は小走りで化粧室へと消えていく。
俺はカート置き場の近くで、邪魔にならないように端へ寄り、スマホを取り出して時間を潰すことにした。
周囲はカップルや家族連れで溢れ、幸せそうな喧騒に包まれている。
この活気ある空間に一人でぽつんと立っていると、さっきエスカレーターで離れてしまった彼女の体温が、急に恋しくなるから不思議だ。
早く戻ってこないかな、なんて。
離れたのはほんの数分だというのに、随分と寂しがり屋になったものだと。自嘲気味に一人笑う。
数分後。
「お待たせ、水無月くん」
鈴が鳴るような声に顔を上げる。
そこには──
「……あ」
君というやつは……、本当に。
戻ってきた彼女の姿を見て、俺は言葉を失ったよ。
さっきまで背中を覆っていた、あの艶やかな黒髪がない。代わりに、高い位置で結い上げられた髪の毛先が、歩くたびに軽やかに揺れている。
フードショーの明るい照明を受けて、先ほどの記憶の中と同じ、白く華奢なうなじが眩いほどに輝いていた。
ポニーテール。
まさに今さっき、俺がエスカレーターで「似合ってた」と言った、あの髪型そのままに。
──たった一言。
俺の何気ない感想一つで、彼女はわざわざ髪を結い直してくれたのか。
誰のためでもない。俺に見せるためだけに。
「どう、かな?」
彼女は俺の目の前まで来ると、恥じらうように上目遣いで俺を見てくる。
白い肌の頬だけが、ほんのりと朱に染まって。
「さっき、似合うって言ってくれたから……」
その健気さと、破壊的な可愛さに。
俺の理性の堤防は、あっけなく決壊した。我ながら、思いのほか脆かった。
「……似合うよ。君は本当に可愛い。ずっと見ていたくなる」
「えっ」
彼女が目を見開いて固まる。
俺も、自分の口から飛び出した言葉の残響を耳にして、固まる。
……あれ? 今、俺、なんて言った?
心の声が、フィルターを通さずにそのまま出力されてなかったか?
「あっ!?」
遅れてやってきた羞恥が、マグマのように俺の全身を一気に駆け巡る
時が止まった。また、止めてしまった。
周囲の喧騒が遠のき、互いの顔がみるみるうちに赤く染まっていくのが分かる。
俺は口元を押さえ、彼女は両手で頬を包み込み、そのままフリーズした。
今の俺たちは、茹でダコよりも赤い自信がある。
「あ、いや、その……」
「う、ううん……あ、ありがとう……」
これ以上見つめ合っていると、二人とも爆発してしまいそう。
俺は逃げるようにカートを引っ張り出し、彼女もまた、慌てて逃げるように売り場へと足を向けた。
ぎくしゃくとした、奇妙な二人連れの誕生だ。
会話は恐ろしいほど、何もない。
俺がカートを押し、彼女がそれを導くように少し前を歩く。
けれど、二人とも視線はどこか宙を泳いでいて、まともに商品を吟味しているようには見えなかった。
俺の頭の中では、さっきの自分の台詞がエンドレスでリピートされている。
『君は本当に可愛い』
『ずっと見ていたい?』
ああ……やっちまった。
あんな気障な台詞を、よくもまあ堂々と。
『先生、君の将来がとっても心配になってきたわ』
吉岡先生、さすがの慧眼です。
俺も、自分の将来が少し心配になってきました……。
漏れ出た本音の処理に追われ、俺はただ機械的に、彼女の後ろをついていくだけになっていた。
一方の彼女はといえば。
真っ赤な顔を隠すように、棚の商品を次々と手に取っては、俺が押すカートのカゴへと放り込んでいく。
「…………」
「…………」
ギクシャクしていても。
何も言わずとも。
格好だけでも、主導権を俺に預けてくれる君が、今日もそこにいる。
怪我人なんだから、全部彼女がやってくれても格好はつく。
けれど彼女は、カートを押す役目を俺に譲り、さりげなくサポートに回ってくれている。あの牛丼屋の時もそうだ。俺がスプーンで不格好にかきこんで食べるのを、手を出さずに黙って見守ってくれていた。
あれもこれも、外で全部彼女に世話を焼かれてしまったら……男として立つ瀬がない。その辺りの機微を、彼女は痛いほど分かってくれている。
だからこそ。
端から見れば、今の俺たちは、それはもう完全に──
よそう。そこから先は、危険な妄想だ。
自分で考え、自らドツボに嵌まる。
この自覚が、殊更にまた己の羞恥を掻き立てる。
俺はまだ冷めそうにない熱い頬を、誰も見ていないことを祈りつつ、そっと片手で仰いだ。




