第56話 名前のない蜜月
「……帰りも、腕組んだらダメ?」
ほうら、始まったぞ。
この、鼓膜を甘く震わせる美声と、潤んだ瞳。一度味わったら決して逃れられない、九条 葵特製の媚薬のようなものだ。
だけど、安易に流されるわけにはいかない。
これ以上、無用な敵を増やすのは得策じゃない。俺のささやかな平穏(既に瀕死だけど)を守るためにも。
「だ、だめに決まってるだろ?」
「どうして? 朝はよかったのに?」
「あ、朝はほら、色々あったから」
言い訳を並べると、彼女は不満げに唇を尖らせ、上目遣いで俺を見つめてくる。
……あざとい。しかし、可愛い。
俺たちの身長差はそこまでないはず。なのに、その角度で見上げるということは、わざと少し屈んでいるということになるよな。
けれど、分かっていてもその仕草だけで、俺の心臓は簡単に跳ねてしまうのだから……俺も存外にチョロい男だ。
「だって、まだ学校だぞ。あまり目立ちたくないんだ」
「どうして目立つと駄目なのかしら」
「て、敵が増えるんだよ」
「敵? ……それは大げさよ」
きょとん、とした彼女の顔。本気で分かっていない。
やれやれ……これだから『天然な高嶺の花』は質が悪い。
自分がいかに全男子生徒の『憧憬』の的であり、その視線がどれほどの熱量を持っているか。その自覚が、彼女には決定的に欠けている。
あるいは、心底どうでもいいと思っているのか。
その、どちらかなんだろう。
「大げさじゃないって。さっきも教室を出るとき、田島に凄い睨まれたんだから」
「ええっ、全然気づかなかったわ。……ごめんなさい」
彼女は申し訳なさそうに眉を下げる。
嘘だろ……本当に気づいていなかったのか。あれだけ強烈な執着と、粘りつくような視線を向けられていたのに?
それはそれで、逆に心配になってくるよ。
九条 葵という女性は、誰よりも美しく、皆が憧れる存在。
だけど、その行き過ぎた『憧憬』は、時として歪んだ感情に変わることがあるのではないか。
ひっそりと高嶺に咲く花だからこそ、それを無惨に手折ってやりたい──そんな歪んだ欲望を持つ輩が現れないとも限らない。
彼女のこの危ういほどの『無防備さ』は、いつか取り返しのつかない事態を招くのではと、不安が胸をよぎる。
「別に、九条さんが謝る必要はないんだけどね」
「でも……」
「勝手に嫉妬してるのは向こうだし、俺は気にしてない。ただ、もっと周りに気を付けた方がいい」
俺は声を低くして、諭すように言った。
君は、自分が思っている以上に、衆目を集める存在なのだから。
気を付けてほしくて。
「何かあってからじゃ、遅いんだぞ」
「わかったわ。……でもね、水無月くん」
彼女は少しだけ唇を尖らせると、心外だと言わんばかりに胸を張ってみせた。
「これでも、一人の時はちゃんとしてるのよ?」
その言葉に、ハッとする。
そういえば、学校での彼女は『完璧なる』高嶺の花だった。誰の接近も許さず、常に周囲に気を配り、隙なんて微塵も見せなかったはずだ。
学級委員はもちろんのこと、学院の次期生徒会長も恐らく彼女で決まりだろう。……もっとも、彼女が立候補すればの話だけど。
そんな完璧な彼女が、俺の前でだけは、その武器を降ろしている?
「まさか……俺がいるから、気を抜いてるってこと?」
「ふふ。ご想像にお任せします」
楽しげに笑って、一歩、距離を詰めてくる。
その全幅の信頼が嬉しい反面、やっぱりどこか危なっかしい。俺は、彼女に刻み込むように真っ直ぐに見つめ返した。
「何かあったら……どんな些細なことでもいい。いつでも俺に連絡してくれよ」
「え?」
「こんな体でも、やれることはそれなりにあるさ……必ず、助けになるから」
真剣に告げると、彼女は驚いたように目を瞬かせ──
見る見るうちに、その大きな瞳に透明な膜が張り詰めていく。
「……うん。うん」
彼女は小さく、何度も頷いている。
その拍子に、長い睫毛から真珠のような雫がひと粒、こぼれ落ちた。
「えっ、九条さん!?」
「あ……ごめんなさい。違うの、悲しいんじゃないの」
狼狽する俺を見て、彼女は慌てて指先で涙を拭う。
そして、どこか遠い場所を──ここではない何処かを懐かしむような瞳で、俺を見つめた。
「嬉しくて、懐かしくて。……ずっと昔、同じことを言ってくれた人のこと、思い出しちゃったの」
──ドキリ、と。
胸の奥で何かがひび割れるような、嫌な音がした。
懐かしんで、涙を流すような相手。
それはつまり、彼女にとって『特別な誰か』が存在したということだ。
彼女の瞳は俺を映しているようで、その実、俺を通してその『誰か』を見ているのかもしれない。
顔も知らない、過去の亡霊。
そんな実体のない相手に嫉妬するなんて馬鹿げている。けれど、胸に走った痛みは嘘をつけない。
「……そっか。きっと、大切な人だったんだな」
言ってから、猛烈に後悔した。
余裕ぶった言葉とは裏腹に、腹の底がジリジリと焼けるように熱い。俺は、どうしてこんなにも腹を立てているのか。
「ええ、とても」
彼女は愛おしそうに目を細めた。
その迷いのない即答が、余計に俺の心を逆撫でする。
そして彼女は、濡れた瞳のまま、滑らかな発音で言葉を紡ぎ始める。
「It's a truly precious memory. That's why I clung to it and came all the way to this school, So-kun.(本当に大切な思い出なの。だからそれに縋って、私はこの学校までやって来てしまったのよ、蒼くん)」
「え? ……また英語かよ。どうせ意味は教えてくれないんだろ?」
「ふふ、そうね。まだ、内緒かな~」
悪戯っぽく舌先を出す彼女に、俺は小さく溜息をついてみせる。
はぐらかされた。
けれど、ここで引くような俺じゃない。
「いいさ。いつか自分で分かるようになってやるから」
「期待してるわね」
彼女は指先で涙を拭うと、何かを振り切ったように上機嫌にステップを踏み、さらに距離を詰めてくる。
「じゃあ、学校を出たらいいの?」
「……え、もしかして、さっきの続き?」
「そうよ、もう」
「せ、せめて……電車に乗ってからにしてくれよ」
う……、まだ腕を組む話は生きていたのか。
俺が苦し紛れに妥協案を出すと、彼女はパッと顔を輝かせた。
「ふふ、約束よ?」
その笑顔の眩しさたるや。
俺はため息交じりに頷き、彼女と並んで夕暮れの路を駅へと向かう。
重苦しい足取りで改札を抜け、ホームへ滑り込んできた田園都市線に乗り込む。車内はそれなりに混雑しているけれど、人と人が押し合うほどではなかった。
……なんでだよ。もっと混んでおけよ!
すし詰め状態で、視界も遮られるくらいで丁度いいのに。
普段なら「座りたい」「空いてろ」とあれこれ願うくせに、今日ばかりは逆。
この程度の混み具合じゃ……周りから、俺たちが丸見えじゃないか。そうだろ?
俺の切実な願いも虚しく、プシューと無情な音を立ててドアが閉まってしまう。
ああ、電車が動き出してしまった。
逃走経路、封鎖。
「……はい、約束」
隣から、弾むような声。
返事をする猶予すらなかった。というか、彼女は返事など待っていなかった。
ギュッ、と。それこそ、待ってましたとばかりに、彼女のしなやかな腕が俺の左腕に絡め取られる。
「ちょ、九条さん早すぎない!?」
「あら、電車に乗ったらって言ったのは水無月くんよ? 二言はないわよね?」
「それはそうだけどさ……」
彼女は嬉しそうに微笑むと、捕まえた腕を逃がさないように両手で包み込み、今度は大切な宝物でも抱くように、そっと抱きしめ直した。
伝わってくる、信じられないほどの柔らかさと、温もり。
似た背丈の二人だからこそ、彼女が少し身を寄せるだけで、その甘い吐息や気配までがダイレクトに伝わってきてしまう。
……正直、嬉しいよ。
健全な男子として、気になる美少女に腕を組まれて嬉しくないわけがない。
ただ、二の腕に押し当てられる魅惑な感触の正体については、深く考えないようにしよう。考えたら顔の形が保てなくなる。
けれど、同時に強烈なプレッシャーも襲ってくるんだ。
周りの乗客からの「爆発しろ」という視線も痛いけど、最寄り駅を出たばかりの車内にはまだまだ同じ学校の生徒が多い。
もし誰かに見られたりしたら。
きっと、面倒なことになる。
それに──さっきの涙。
彼女が大切にしている、過去の『誰か』への想い。
こんなに物理的な距離は近いのに。
体温まで共有しているのに。
……彼女の心の一番深い場所には、別の誰かがいるのかもしれない。
俺が思ってるより、互いの心は近くないのかも。
左腕の熱さと裏腹に、胸の奥が少しだけ冷えた気がした。
第56話、お読みいただきありがとうございます。作者の神崎 水花です。
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