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九条葵は償いたい ~その献身には理由がある~  作者: 神崎水花
第三章 あなたを追いかけて

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第55話 彼女は上機嫌

 ああ、だめだ。どうにも勝てそうにない。

 俺が何をどう否定しても、彼女の笑顔が深まっていくばかりだ。この人には、一生敵う気がしない。

 本気で、そう思い始めている。

 

 そんな甘恥ずかしい敗北感を一人味わっていると、廊下の方からドタドタと騒がしい足音が近づいてきた。


「あー、暑い暑い! マジで疲れたー!」

「早く椅子に座りてぇ」


 更衣室から戻ってきたクラスメイトたちが、次々と教室へ雪崩れ込んでくる。静かだった教室が、一気に熱気を帯びた日常へと塗り替えられていく。

 俺と九条さんの『二人だけの時間』は、これにておしまい。

 楽しい時間はいつだって、あっという間に過ぎ去ってしまうものだ。


「あ、水無月くん!」


 自分の席に戻るなり、高階さんがくるりと振り返った。

 運動直後の紅潮した頬。

 額に張り付いた髪をかき上げながら、彼女は期待に満ちた瞳で俺を見ている。


「ねえねえ、さっきの私のシュート、見ててくれた?」

「ああ、見てたよ」


 俺は素直に頷く。

 彼女のボールさばきや、華やかなシュートスタイルは、確かに目を引くものがあったから。よく覚えている。


「手首が効いててさ、こう、一瞬空中に浮いてるみたいで」


 俺はさっき見た彼女のフォームを真似て、軽く手を動かしてみせる。

「すごく格好良かった。綺麗だった。さすがだよ」

「……あ、ありがと。ふふ、水無月くんに褒められるの、癖になりそう」


 高階さんは「やった」と小さくガッツポーズをして、照れ笑う。

 その様子を見て、前の席の健太も「待ってました」とばかりに身を乗り出して会話に割り込んだ。


「俺も見てたぜ! 高階さん、マジでキレッキレだったよな! 俺も感動し──」

「ちょっと、こっち見ないでくれる? 変態」


「……えっ」


 健太の言葉を遮る、氷点下の冷たい声。

 いつぞやの、隣の氷の花子さんに決して劣らない、絶対零度の響き。

 高階さんは、さっきまでの俺への満面の笑顔をスッと消し、自分の体を守るように両手で肩を抱いて、軽蔑の眼差しを向けている。


「いやらしい目で見ないでよ。ああ、ヤダ。視線だけで妊娠させられちゃうわ」

「おい、どんな特殊能力だよッ!?」


 健太の渾身のツッコミが教室に響く。

 それはもう、虚しく。

 

「さすがにそれは、言いがかりがひどすぎないか」

「あんた、自覚ないの? さっき長谷川さんのこと、下から舐めるように見てたじゃない。しかも人のことを小さい方って……」

「ぐっ……そ、それは……」

「はい。有罪。死刑」

「ああ、そんなああ」


 バッサリと切り捨てられ、健太が机に突っ伏して撃沈する。


 せめて、あの「なんだ、小さい方(胸が)か……」という失言さえ無ければ、俺も助け舟を出せたかもしれないのに……。すまん健太、無理だ。

 君子危うきに近寄らずだ。


 あとな、健太。

 高階さんは、決して小さくない。

 あれは比較対象(長谷川さん)が、規格外すぎただけなんだ。

 

 日頃の行いというのは、こういう時に返ってくるものなんだな。強く生きてくれ、親友よ。


 賑やかすぎる二人を横目に、俺はそっと隣を盗み見る。


 九条さんはといえば。

 教科書を広げながら、ニコニコと。

 それはもう、背景に花が咲き乱れるような聖母の如き笑みを浮かべて、俺たちのやり取り……というより、俺を眺めていた。


 その手元。

 細く綺麗な指先が、俺がさっきこっそりと触れた机の一点に、愛おしむようにそっと手を重ねられている

 まるで、俺がそこに残した微かな熱を。

 手のひらで閉じ込めて逃がさないように。


 ……重い。とてつもなく重い。

 く、くそっ。

 しかもこれじゃあ、ゴミのせいにした意味がないじゃないか……。


 そうして、六限目が終わり。

 いよいよ、終わりのホームルームへ。


「はい、じゃあ今日はここまでよ。気をつけて帰るように」

「「「先生、さよならー」」」


 数多の椅子を引く音が重なる。

 放課後の鐘の音は、生徒たちを縛る鎖を解き放つ合図の音色。

 それを聞いて部活へ向かう者、遊びに行く約束をする者、早々に帰宅する者。

 それぞれの放課後が、慌ただしく動き出す。


「じゃあね水無月くん、九条さん。私、今日部活あるから先行くね。また明日」


 高階さんが、鞄を片手にひらひらと手を振る。

 あの身軽さと華やかさだから。てっきりダンス部かテニス部あたりだと思っていたのに。


「部活? 高階さんって、何部なの?」

「ん? 茶道部よ」

「さ、茶道……!?」


 予想外すぎる答えに、思わず変な声が出てしまう。

 この派手ななりで、茶室で抹茶を点てていると? 

 ……意外と、着物姿や正座が似合うのかもしれない。ギャップ萌えというやつか。

 

「あは、意外って顔ね。ま、週に一回か二回しかないんだけど。じゃあね!」

 嵐のように、けれど爽やかに彼女が駆け出していくと、続いて健太も立ち上がった。

「んじゃ、俺もバスケ行ってくるわ。またな蒼。九条さんも」

 

 高階さんと健太が、それぞれ手を振って教室を出ていく。そんな賑やかなやり取りに苦笑しつつ、ふと、横顔に粘りつくような嫌な視線を感じて──俺は反射的に振り返った。


 教室の前方、窓際。

 そこに、じっとりと暗い瞳でこちらを睨みつけている男がいた。

 あの田島だ。


 目が合うと、彼は露骨に舌打ちをし、憎々しげに俺を睨め付ける。

 その瞳に宿っているのは、明確な敵意と、どす黒い嫉妬。

 衆人環視の中で九条さんにきつく拒絶され、あまつさえ俺との腕組を知ったとするならば、その歪みはそう簡単に消えやしないだろう。


 厄介だな。

 正直、今の俺の状態で向かって来られると、あまりに不利だ。

 ──だからといって、怯えて彼女の手を離すつもりもない。


 来るなら来ればいい。

 まあ、できれば怪我が治ってからにして欲しいものだけど。

 こればかりは相手次第か。

 

 隣りの九条さんはといえば。

 田島の殺気など微塵も気づいていないのか、あるいは端から眼中にないのか。ただひたすらに、俺だけを見て笑顔を向けてくる。


「行こうか、九条さん」

「ええ」


 彼女は慣れた手つきで鞄を持つと、当然のように俺の横に並んだ。

 周囲の視線は、まだある。

 けれど、朝ほどの驚きはないような気がする。クラスメイトたちも、この『二人が並んでいる光景』に、少しずつ順応し始めているのかもしれない。


 俺たちは教室を出て、夕暮れの廊下を歩き出す。

 帰る場所は、同じ『家』。二人だけの秘密の同居生活が待つ、彼女の部屋へと。

 何よりも心地よく、甘やかな羞恥に染まる時間が、再びやってくる。


 靴を履き替え、トントンとつま先を揃える彼女の姿。

 君が顔を上げた、西日が差し込む昇降口で。

 

 茜色に染まった彼女の顔は、朝よりも、昼よりも、先ほどよりも。

 今日一番のご機嫌な笑顔で輝いている。


 そんなにも、嬉しかったのかい?

 たった、あれだけのことが……。


 そうして彼女は一歩、俺に近づくと。

 甘えるように言うんだ。


「ねえ」

「 ん?」

「……帰りも、腕組んだらダメ?」


 ほうら、始まったぞ。

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