第55話 彼女は上機嫌
ああ、だめだ。どうにも勝てそうにない。
俺が何をどう否定しても、彼女の笑顔が深まっていくばかりだ。この人には、一生敵う気がしない。
本気で、そう思い始めている。
そんな甘恥ずかしい敗北感を一人味わっていると、廊下の方からドタドタと騒がしい足音が近づいてきた。
「あー、暑い暑い! マジで疲れたー!」
「早く椅子に座りてぇ」
更衣室から戻ってきたクラスメイトたちが、次々と教室へ雪崩れ込んでくる。静かだった教室が、一気に熱気を帯びた日常へと塗り替えられていく。
俺と九条さんの『二人だけの時間』は、これにておしまい。
楽しい時間はいつだって、あっという間に過ぎ去ってしまうものだ。
「あ、水無月くん!」
自分の席に戻るなり、高階さんがくるりと振り返った。
運動直後の紅潮した頬。
額に張り付いた髪をかき上げながら、彼女は期待に満ちた瞳で俺を見ている。
「ねえねえ、さっきの私のシュート、見ててくれた?」
「ああ、見てたよ」
俺は素直に頷く。
彼女のボールさばきや、華やかなシュートスタイルは、確かに目を引くものがあったから。よく覚えている。
「手首が効いててさ、こう、一瞬空中に浮いてるみたいで」
俺はさっき見た彼女のフォームを真似て、軽く手を動かしてみせる。
「すごく格好良かった。綺麗だった。さすがだよ」
「……あ、ありがと。ふふ、水無月くんに褒められるの、癖になりそう」
高階さんは「やった」と小さくガッツポーズをして、照れ笑う。
その様子を見て、前の席の健太も「待ってました」とばかりに身を乗り出して会話に割り込んだ。
「俺も見てたぜ! 高階さん、マジでキレッキレだったよな! 俺も感動し──」
「ちょっと、こっち見ないでくれる? 変態」
「……えっ」
健太の言葉を遮る、氷点下の冷たい声。
いつぞやの、隣の氷の花子さんに決して劣らない、絶対零度の響き。
高階さんは、さっきまでの俺への満面の笑顔をスッと消し、自分の体を守るように両手で肩を抱いて、軽蔑の眼差しを向けている。
「いやらしい目で見ないでよ。ああ、ヤダ。視線だけで妊娠させられちゃうわ」
「おい、どんな特殊能力だよッ!?」
健太の渾身のツッコミが教室に響く。
それはもう、虚しく。
「さすがにそれは、言いがかりがひどすぎないか」
「あんた、自覚ないの? さっき長谷川さんのこと、下から舐めるように見てたじゃない。しかも人のことを小さい方って……」
「ぐっ……そ、それは……」
「はい。有罪。死刑」
「ああ、そんなああ」
バッサリと切り捨てられ、健太が机に突っ伏して撃沈する。
せめて、あの「なんだ、小さい方か……」という失言さえ無ければ、俺も助け舟を出せたかもしれないのに……。すまん健太、無理だ。
君子危うきに近寄らずだ。
あとな、健太。
高階さんは、決して小さくない。
あれは比較対象(長谷川さん)が、規格外すぎただけなんだ。
日頃の行いというのは、こういう時に返ってくるものなんだな。強く生きてくれ、親友よ。
賑やかすぎる二人を横目に、俺はそっと隣を盗み見る。
九条さんはといえば。
教科書を広げながら、ニコニコと。
それはもう、背景に花が咲き乱れるような聖母の如き笑みを浮かべて、俺たちのやり取り……というより、俺を眺めていた。
その手元。
細く綺麗な指先が、俺がさっきこっそりと触れた机の一点に、愛おしむようにそっと手を重ねられている
まるで、俺がそこに残した微かな熱を。
手のひらで閉じ込めて逃がさないように。
……重い。とてつもなく重い。
く、くそっ。
しかもこれじゃあ、ゴミのせいにした意味がないじゃないか……。
そうして、六限目が終わり。
いよいよ、終わりのホームルームへ。
「はい、じゃあ今日はここまでよ。気をつけて帰るように」
「「「先生、さよならー」」」
数多の椅子を引く音が重なる。
放課後の鐘の音は、生徒たちを縛る鎖を解き放つ合図の音色。
それを聞いて部活へ向かう者、遊びに行く約束をする者、早々に帰宅する者。
それぞれの放課後が、慌ただしく動き出す。
「じゃあね水無月くん、九条さん。私、今日部活あるから先行くね。また明日」
高階さんが、鞄を片手にひらひらと手を振る。
あの身軽さと華やかさだから。てっきりダンス部かテニス部あたりだと思っていたのに。
「部活? 高階さんって、何部なの?」
「ん? 茶道部よ」
「さ、茶道……!?」
予想外すぎる答えに、思わず変な声が出てしまう。
この派手ななりで、茶室で抹茶を点てていると?
……意外と、着物姿や正座が似合うのかもしれない。ギャップ萌えというやつか。
「あは、意外って顔ね。ま、週に一回か二回しかないんだけど。じゃあね!」
嵐のように、けれど爽やかに彼女が駆け出していくと、続いて健太も立ち上がった。
「んじゃ、俺もバスケ行ってくるわ。またな蒼。九条さんも」
高階さんと健太が、それぞれ手を振って教室を出ていく。そんな賑やかなやり取りに苦笑しつつ、ふと、横顔に粘りつくような嫌な視線を感じて──俺は反射的に振り返った。
教室の前方、窓際。
そこに、じっとりと暗い瞳でこちらを睨みつけている男がいた。
あの田島だ。
目が合うと、彼は露骨に舌打ちをし、憎々しげに俺を睨め付ける。
その瞳に宿っているのは、明確な敵意と、どす黒い嫉妬。
衆人環視の中で九条さんにきつく拒絶され、あまつさえ俺との腕組を知ったとするならば、その歪みはそう簡単に消えやしないだろう。
厄介だな。
正直、今の俺の状態で向かって来られると、あまりに不利だ。
──だからといって、怯えて彼女の手を離すつもりもない。
来るなら来ればいい。
まあ、できれば怪我が治ってからにして欲しいものだけど。
こればかりは相手次第か。
隣りの九条さんはといえば。
田島の殺気など微塵も気づいていないのか、あるいは端から眼中にないのか。ただひたすらに、俺だけを見て笑顔を向けてくる。
「行こうか、九条さん」
「ええ」
彼女は慣れた手つきで鞄を持つと、当然のように俺の横に並んだ。
周囲の視線は、まだある。
けれど、朝ほどの驚きはないような気がする。クラスメイトたちも、この『二人が並んでいる光景』に、少しずつ順応し始めているのかもしれない。
俺たちは教室を出て、夕暮れの廊下を歩き出す。
帰る場所は、同じ『家』。二人だけの秘密の同居生活が待つ、彼女の部屋へと。
何よりも心地よく、甘やかな羞恥に染まる時間が、再びやってくる。
靴を履き替え、トントンとつま先を揃える彼女の姿。
君が顔を上げた、西日が差し込む昇降口で。
茜色に染まった彼女の顔は、朝よりも、昼よりも、先ほどよりも。
今日一番のご機嫌な笑顔で輝いている。
そんなにも、嬉しかったのかい?
たった、あれだけのことが……。
そうして彼女は一歩、俺に近づくと。
甘えるように言うんだ。
「ねえ」
「 ん?」
「……帰りも、腕組んだらダメ?」
ほうら、始まったぞ。




