第54話 ここは誰にとっての特等席なのか
終りを告げる鐘の音が、高い天井のアリーナに吸い込まれていく。
「では、次の授業に遅れることのないように!」
「「はい! ありがとうございました!」」
号令が終わると同時、追加のダッシュ刑を終えた男子たちは、ボロ雑巾のように床に崩れ落ちていた。
「あ~……マジで、死ぬ……。足が棒だわ……」
床に大の字になった健太が、虫の息で呻いている。
そんな屍の山を見下ろして、涼しい顔で通り過ぎていく女子が二人。高階さんと、長谷川さんの姿だった。
「自業自得なのよ。ジロジロこっちばっかり見てるから」
見下ろす高階さんの視線は冷ややかだ。
だが、仰向けに倒れていた健太の死んだ魚のような目が、ふと、その隣にいる長谷川さんの体操服へと吸い寄せられた。
そう、床に這いつくばった敗者だけが許される、下からの必殺アングル。重力に逆らえない豊かな膨らみが、アイツの眼前に迫る。
……わかるぞ、健太。
俺もつい昨日、河川敷で九条さんに膝枕をされた時、その『絶景』を見てしまったばかりだ。抗えぬ男の性というやつだよな。
「……お、いい眺め」
「死ね!」
「ぐえっ!?」
ドカッ、と鈍い音が響く。
高階さんが容赦なく、健太の腹を上履きで踏み抜いた音だった。南無……。
「……うぐっ……よりによって小さい方に……踏まれると、は……」
「だ、だれが小さいほうよ!」
「だが、我が生涯に一片の悔いなし……」
「ほんと、バカ。キモすぎ! いこ、長谷川さん」
「う、うん」
プンプンと怒って立ち去っていく高階さんと、踏まれた腹をさすりながらも、どこか満足げに昇天している健太。
その光景を、近くにいた九条さんが、ほんの少し引き攣った顔で見ていた。
そして……、お前の邪な視線射程圏内(真上)を通らないよう、わざわざ迂回していく姿を。
『皆で愛でるべき高嶺の花!』
更衣室でそう高らかに宣言した相手に、盛大にドン引きされているのを……果たしてお前は知っているのだろうか。
そんな彼らを尻目に、見学で着替えの必要がない俺は、一足先に体育館を後にする。
渡り廊下を抜け、静まり返った校舎へと。
ひとり教室のドアを開けると、そこにはまだ誰もいない、午後の日差しだけが満ちた静謐があった。遠くからはグラウンドの掛け声が聞こえるけど、ここは嘘のように静か。
俺は自分の席に座り……ふと、隣へ視線を流す。
主のいない、空っぽの机と椅子。
ただの何の変哲もない学校の備品なのに、そこにあるだけで、彼女が座っていた時の甘い空気が残っているような錯覚を覚える。
魔が差した、というやつだろうか。
俺は誰にも見られないように、そっと、彼女の机の端を指先でなぞってみる。
ひんやりとした、硬質な感触。
けれど、確かにここには彼女がいたんだと、指先から伝わってくる無機な情報だけで、胸が小さく高鳴ってしまう。
……何やってんだか、俺は。
さっきまで、コートの上で圧倒的な存在感を放っていた彼女は。
全校生徒の視線を釘付けにし、誰も寄せ付けないオーラを常に纏っていた『九条 葵』で。手に届くはずが無いと皆を絶望たらしめる、それは美しきモデル『MINA』としての顔を持つことも知っている。
だというのに、この席に戻ってくれば彼女は俺の隣人になり、俺のためにお弁当を作ってくれる一人の女の子になってしまう。
くっ付いた机同士の線は、そんな二つの世界を繋ぐ境界線にも見えた。
そのギャップがなんだか不思議で、理解が追いつかなくて。でも、どうしようもなくこそばゆくて。
俺は無意識のうちに、確かめるように何度も天板を撫でて──
その時、廊下から、微かに上履きが床を擦る音が聞こえた気がした。
「……ッ」
俺は弾かれたように手を引っ込め、慌てて周囲を見渡す。
誰もいない。
「……気のせいか」
大丈夫だ、誰にも見られていない。心臓が早鐘を打つ音をごまかすように、俺は安堵の息を吐く。
そうして、平静を装って窓辺へ視線を移そうとした、その瞬間だった。
ガララ、と。
教室のドアが、小気味好い音を立てて開いたのは。
「うわっ!?」
心臓が止まるかと思った。
恐る恐る入り口を見ると、そこに立っていたのは、他でもない彼女本人の姿で。
「……ふふ。一番乗り、ね」
逆光の中、彼女は俺の姿を確認すると、花が綻ぶように嬉しそうに微笑み、足早に近づいてくる。
まだ他の生徒は誰も戻ってきていない。
いくら着替えが早いと言っても、さすがに早すぎないか?
「おかえり、九条さん。……ずいぶんと早くないか?」
「うん。……ちょっと急いだし、走っちゃった」
「走っちゃったの?……委員長サマなのに?」
「うっ……ご、ごめんなさい」
俺が茶化すと、彼女は少しバツが悪そうに唇を尖らせる。
でも、反省の色は薄い。だって、その瞳は「早く戻りたかったんだもの」と訴えているから。
その代わり、彼女はストンと俺の隣の席に座ると、熱っぽく紅潮した頬をパタパタと手で仰ぐ。その仕草に合わせて、制汗シートの爽やかな香りと、彼女特有の甘い匂いがふわりと舞う。
運動直後の、少し乱れた呼吸。
上気した白い肌に、うっすらと浮かぶ汗の粒。
俺と早く再会するために走ってきてくれたのかと思うと、胸の奥からむず痒いものがこみ上げてくる。
俺は手元にあった下敷きを手に取ると、彼女に向けてパタパタと風を送った。
「ほら。暑いだろ?」
「……あ」
彼女は目を丸くし、それから優しく目を細める。
「ありがとう。……涼しい」
気持ちよさそうに目を閉じ、俺が送る風をその身に受ける彼女。
風に揺れる後れ毛。無防備に晒された、眩しいほど白い喉元。
もし俺が吸血鬼なら、迷わずこの喉を選ぶだろう。……なんてな。
午後の日差しの中で、その光景はあまりに絵になっていて。俺は一定のリズムで手を動かしながら、この穏やかで幸せな時間がずっと続けばいいのに、なんて思っていた。
──その時までは。
「……ねえ、蒼くん」
「ん?」
目を閉じたまま、彼女がポツリと呟く。
今の俺が、世界で一番聞きたくなかった一言を。
「私、見てしまったの」
「え、何を?」
「さっき、教室に入るとき。……ドアのわずかな隙間から」
彼女はそこでゆっくりと瞼を開けた。
長い睫毛の奥にある瞳が、悪戯っぽく、けれど逃げ場を塞ぐように蕩りと俺を見つめる。
「蒼くん、私の机……すごーく大切そうに撫でてなかった?」
「っ!?」
もはやそれどころではない。
俺の手が止まり、下敷きが机の上に無様に落ちた。
胸が警鐘を鳴らす。見られていたのか!? あの、恥ずかしいセンチメンタルな瞬間を!
「い、いや! 触っていない」
「嘘」
「嘘じゃない! なんで俺が、君のいない間に机を触る必要があるんだ!」
顔から火が出るのを感じながら、俺は必死に声を荒げる。
認めたら負けだ。ここで認めたら、俺はただの変な奴か、そ、その……おセンチでキモイ奴だと思われてしまう! そんなレッテルは嫌だ!
俺の必死の抵抗に、彼女は「ふふ」と喉を鳴らし、さらに顔を近づけてくる。
「でも、見たもの。こうやって大事そうにやさし~く」
「ち、違う! あれは……ゴミだ!」
「ゴミ?」
「そう、糸くずみたいなのが付いてたんだよ。俺はほら、綺麗好きだから。それを取ってやっただけさ」
苦しい。我ながら苦しすぎる言い訳だ。
だが、今の俺にはこれしかない。俺はあくまで『ゴミ』を主張し、頑として否定する構えを見せた。
そんな俺を見て。
彼女はくすくすと、本当に楽しそうに笑い出した。
「ふふ、……うふふ。……そう、ゴミを取ってくれたのね」
「そ、そうだとも」
「誰もいないのに? 私のために?」
「た、たまたまだよ。でも、君のためならゴミくらいは取るさ」
彼女は俺の手から落ちた下敷きを拾い上げると、今度は俺に向けて優しく風を送り始めた。その表情は、俺の嘘なんて全てお見通しだと言わんばかりに、輝いている。いや、もうこれは輝いているどころじゃない。
後光が差しているレベルだ。
「嬉しいね、たとえゴミだったとしても。蒼くんは私がいないところでも、私の机を気にして、綺麗にしてくれるくらい……私のことを考えてくれてたんだもの」
だめだ、仮にゴミで押し通したとしても変わらない。
完全に『ポジティブ彼女フィルター」によって、俺の苦しい言い訳さえも「温かいもの」に変換されてしまう。
「ま、まあ、ゴ、ゴミくらいはな……」
「ふふっ。……ありがとう、蒼くん」
「ふん、どういたしまして」
……敵わないな、本当に。




