第52話 皆で愛でるものだろうが
そんな風に、いつまでも馬鹿なことを言い合っていたいけれど。現実は非情で、時計の針は確実に午後の授業へと近づいていた。
「……ねえ、みんな」
ふと、壁掛け時計を確認した九条さんが、軽く手を叩いて場の空気を変える。
その顔はもう、甘やかな『出来た奧さん?』の顔ではなく、凛とした『学級委員』の顔つきに戻っていた。
「次は体育だから、そろそろ更衣室に移動したほうがいいと思うの。予鈴も近いし、着替えもあるでしょう?」
「げっ、もうそんな時間か。鬼塚怖いからな」
健太が慌てて最後の一口を頬張り、高階さんも「あちゃー、急がなきゃ」とパックジュースを飲み干す。
さすが九条さん。
切り替えが早いし、時間管理も完璧なご様子。
「じゃあ、片付けちゃいましょう」
彼女の号令で、怪我人の俺以外の三人は手早く机を元の位置に戻し、弁当箱を片付けてゆく。
そして四人で連れ立って、ぞろぞろと廊下へと出た。
男女の更衣室が分かれる分岐点。
健太と高階さんは、それぞれの会話を続けながら先へと進んでいく。俺もそれに続こうとして──隣を歩く彼女に声をかけた。
「俺たちも行こうか。九条さん、またあとで」
「……」
返事がない。
さっきまであんなにテキパキと皆を仕切っていた彼女が、足を動かそうとしない。
それどころか、俺の制服の袖を、指先でちょこんと摘まんで引き留めてくる。
「九条さん?」
「……心配だわ」
振り返った彼女からは、さっきの『委員長』の様相など消え失せていて。
俺の右腕のギプスや胸の辺りに視線を落とし、心底不安そうに眉を下げる。ただの心配性な、一人の女の子の顔。
「更衣室は狭くて混んでるでしょう? 誰かにぶつかられたりしない? 着替えだって。そうね、ここはやっぱり私が手伝いに……」
「ぷっ」
「むぅ……どうして笑うの? 私は真剣に」
「いやいや! 気持ちは嬉しいけど、流石に男子更衣室には入れないからね!?」
思わず小声で突っ込む。
彼女の目は本気だった。「お世話係だから」という大義名分さえあれば、男子更衣室への入場も辞さない構えだ。
君がそんなことをすれば、男子更衣室はパニックどころの騒ぎじゃない。
いつもの冷静さは一体どこへ。
「あ……」
俺の指摘を受けて、彼女はようやく自分の発言の意味を理解したらしい。
男子更衣室。そこがどういう場所で、自分が何をしようとしていたのか。
ボンッ、と音が聞こえそうなほどの勢いで、彼女の白い肌が耳まで一気に朱色に染まる。
「そ、そうよね! 男子更衣室だものね。わ、私ったら何を……」
彼女は慌てて口元を手で覆うけれど、指の隙間から見える肌まで真っ赤だ。決して皆には見せない、普段の鉄壁ぶりからは想像もつかないその狼狽えっぷりに、俺の頬もつられて緩んでしまう。
「大丈夫だよ。今日は見学になると思うから、着替えるつもりないし」
「……ほ、本当に?」
「本当だって。ほら、遅れると先生に怒られるぞ? 委員長サマ」
茶化すように諭すと、彼女は不満げに唇を尖らせつつ、ようやく摘まんだ袖を離してくれた。
「じゃあ……また後でね」
彼女は、何度もこちらを振り返りながら、女子更衣室の方へと消えていく。
普通なら『重い』と感じるかもしれないその過干渉が、ずっと一人で生きてきた俺には、どうしようもなく心地よかったりする。
誰かに心配されるということが、こんなにも温かいことだなんて。それを教えてくれたのは、君なんだ。
でも、気を付けたほうがいい。
たぶん君の想いは、俺以外には少々『激重』だと思うから。
──なんて。今度は心の中で茶化してみる。
やっぱりまだ、こういうのは恥ずかしいや。
更衣室のドアを開けた瞬間、制汗スプレーの人工的なシトラス臭と、むさ苦しい熱気が顔面に吹き付けてきた。
なんで新築の校舎なのに、ここだけ部室棟みたいに汗臭いのか。
まったく不思議でならない。
「っしゃあ、今日ってバスケだよな!」
先ほど昼飯を食ったばかりだというのに、健太は無駄に高いテンションでジャージに足を通している。
一方の俺はといえば、当然ながら見学組。
制服のまま、壁際で友人の着替えが終わるのを待つしかない。
「お前、元気だなぁ……。腹苦しくないのか?」
「馬鹿野郎、これが燃えずにいられるかよ。今日は女子と合同だぞ?」
健太はニヤリと笑い、声を潜める。
「しかも種目も同じバスケ。つまり、女子の黄色い声援を浴びながら、こっちもあっちのプレイを合法的に拝めるってわけだ。楽しみだよなぁ」
「……動機が不純すぎるぞ」
「男なんてみんなそんなもんだろ!」
健太はジャージのズボンを強引に引き上げながら、鼻息荒く力説する。
「それに、うちのクラスの女子メンツは最強だからな。九条さんを頂点として、高階さんも黙ってりゃすげー美人だし」
そこで彼は、さらに声を潜めて悪い顔をした。
そして最も健太らしい台詞を言う。
「バスケだぜ? 飛んだり跳ねたりするんだぞ? 想像してみろよ、長谷川さんのあの豊満なお胸サマがたゆん、ぽわんと……」
「……お前、最低だな」
「男のロマンと言え!」
健太はガッツポーズを取りかけて、いきなり「っと、わりぃ」と、気まずそうに口元を押さえた。なんだ、どうした?
「一応、確認なんだけどさ。お前、九条さんとは別に付き合ってるとかじゃ、ないんだよな?」
またか。無防備な脇腹に冷たいナイフを突き立てられたような問いが痛い。
「……ああ」
「だよな? あくまで『お世話係兼、仲の良いお友達』それだけ、だよな?」
俺は、奥歯を強く噛みしめる。
喉元まで出かかった『俺の九条さん』という言葉を、無理やり飲み込む。
「まあ、そうだな。それが何だよ」
今は肯定するしかなかった。
社会的にはただのクラスメイト。それだけが事実だから。
俺が苦々しく頷くと、健太はパァっと顔を輝かせて言う。
「なら、ガッツリ見ても問題ないな! 安心したぜ!」
「……おい、待て健太」
ガッツリだと!?
俺は真顔で、親友の浮ついたテンションを制すべく動く。
他の誰かはともかく、ここだけは譲れない。
もはや理屈じゃない。
「長谷川さんや高階さんは、百歩譲るとしてだ。……九条さんを『そういう目』で見るのは、親友のお前であっても許さんぞ」
「はあ? なんでだよ」
「なんでって……それは」
「付き合ってないとは、嘘なのか?」
「いや、それは本当だ」
俺が言葉に詰まると、健太は口角を意地悪く上げ、ピシャリと言い放った。
「なら問題ねえ。高嶺の花こそ、皆で愛でるものだろうが」
「……っ」
こ、こいつ……。
こんなに手ごわい奴だったか?
欲望という本能に忠実でありながら、それをさも『世界の真理』のように正論として突きつけてきやがる。
俺は今日初めて、あの田島に同情したくなったよ。
「付き合ってもいないお前に、俺たちの視線を止める権利はないぜ。……違うか?」
畳みかけるような健太の攻勢に、俺はぐうの音も出ない。
悔しいが、正論だ。
今の俺たちには、明確な関係なんて名前は何もない。だから、彼女は依然として『皆の高嶺の花』であり、俺はただの村人A。
独占する権利なんて、どこにもない。
「くっ……違わ、ない」
「だろ? よし行くぞ!」
健太はしてやったりという顔で俺の背中を軽く叩くと、颯爽と更衣室を飛び出していった。
……やられた。
一人残された更衣室で、俺は大きなため息をつく。
皆で愛でるもの、か。
健太の言葉が棘のように刺さって抜けない。
なんだろう。胸の奥で、ドロリとした黒い感情が生まれるのを、俺はどうすることもできなかった。




