第50話 視線は合わずとも、君と
「はい、今日の授業はここまでよ」
キーンコーンカーンコーン……。
一限目の終了を告げるチャイムが鳴り、吉岡先生が教室を出ていく。その背中が見えなくなった瞬間、張り詰めていた空気が一気に弛緩する……はずだった。
だけど、それはいつものようなリラックスした空気ではない。
ざわ……ざわ……と。
無数の視線と、ひそひそとした囁き声が、俺たちの周りを取り囲むように渦巻いているのだ。
まあ、無理もない。
今朝の『腕組み登校』のインパクトは絶大だったろうし、耳の早い人間はもう噂を嗅ぎつけているかもしれない。それに加えて、ホームルーム前の『高嶺の花子さん逃走劇』と、それを追いかけた俺と高階さんのこともある。
クラスメイトたちは遠巻きに俺たちを見ながら、「触れていいのか?」「一体何があったんだ?」と互いに探り合っている状態なのだろう。
そんな停滞した空気なんて、一切関係ないとばかりに。
弾むような足取りで、高階さんが俺たちの席までやってくる。
「さっきはお疲れ様、二人とも。改めてよろしくね」
彼女は周囲の視線を気にする素振りもなく、自然な動作で俺の机の端に手を置いた。その視線は、俺と、隣の九条さんだけに向けられている。
「あの~、高階さん!?」
たまらず声を上げたのは、前の席の健太だ。
「どうしたの?」
「い、いや、『二人とも』って……。ここにもう一人、男子がいるんですけど……」
健太が自分を指さしてアピールする。
高階さんはきょとんとして健太を見下ろし、それから「ああ」と短く納得した。
「小園、いたの」
「最初からいるわ! むしろ一番近くに座ってるわ!」
健太の食い気味なツッコミに、高階さんがケラケラと笑う。
それにつられて、九条さんも口元を緩めた。
……よし、今だ。
この和やかな空気なら、自然に振る舞える。
「ところで、九条さん。体調、もう平気なのか?」
俺は、あえて周囲にも聞こえるくらいの声量で彼女に問いかける。
同時に、チラリと高階さんに目配せを送った。
──頼む、話を合わせてくれ。
俺の切実な救難信号を受け取った高階さんは、一瞬だけ目を細め、すぐに小さく頷いてみせた。さすが、話がはやい。
俺の中で今、彼女の評価が爆上がり中だよ。
「あ、そうそう! さっきは顔色真っ青でびっくりしちゃった。……もう大丈夫なの? 九条さん、遅くまで勉強しすぎなんじゃない?」
さすが、伊達に友達が多いわけじゃない。こちらの意図を瞬時に理解し、最適解のボールを投げ返してくる高階さんが頼もしすぎる。
「ありがとう。うん、もう大丈夫だから……」
九条さんも話を合わせ、申し訳なさそうに頷く。
その自然なやり取りを見て、周囲の空気が「ああ、なんだ体調不良か」と納得の色に変わっていくのが手にとるようにわかった。
「なんだ、九条さん体調悪かったのかよ。あまり無理しないほうがいいぜ」
事情を知らない健太が、純粋な心配の声を上げる。
これで、完全に場の空気は決まった。俺たちは心の中で、こっそりとハイタッチを交わす。
高階さん、ナイス支援だ!
それに、九条さんもよく合わせてくれたよ。
理由はどうあれ、教室を飛び出してしまった彼女を守るための苦肉の策。
あの真面目な彼女が、それを否定せずに受け入れてくれたことが、俺はなんだか嬉しかった。
「やば。そろそろ休み時間終わっちゃうね」
教室の時計を確認して、高階さんが腰を浮かす。
「じゃ、また後でね」
ひらひらと手を振って自分の席へ戻ろうとした彼女が、ふと思い出したように振り返った。
期待と喜びに満ちた、キラキラした眼差しで。
「そうだ。今日からお昼、お邪魔してもいい? せっかく仲良くなれたんだし」
その提案に、俺と九条さんは顔を見合わせる。もちろん、否やはない。
けれど、一つだけ気になることがあった。
「俺たちはいいけど……もともと食べてた友達とかはいいのか?」
彼女は、九条さんとはまた違った意味での、クラスの『中心人物』だ。
他者とあまりつるまず、孤高を貫く九条さんとは違い、彼女は常に華やかなグループの中心にいて、人の輪を作っているタイプ。
だからこそ、そこを抜けるのは大事なんじゃないかと思ったりするわけで。
そんな俺たちの懸念に対し、高階さんは何でもないことのように肩をすくめてみせた。
「大丈夫よ。別に喧嘩別れするわけじゃないんだから」
彼女はそこで言葉を切ると、少しだけ身を戻すようにして、俺の顔を覗き込んだ。
「それに……ふふ。私と友達のことまで気にしてくれるなんて。やっぱり水無月くん、イイ感じね」
「は……? なんだよそれ」
「私の目に狂いはなかったってこと。それに九条さん、やっぱり見る目あるわ」
高階さんが笑って同意を求めると、九条さんはきょとんとして──それから、嬉しそうに目を細めた。
「ふふ。……そうでしょう?」
「頼むから、二人ともやめてくれよ。ここ、学校だぞ」
誇らしげに微笑む彼女に、俺は頬が熱くなるのを感じて視線を逸らす。学校の中で、ちょいちょい公開処刑を混ぜてくるの、本当に心臓に悪いからやめてほしい。
「あはは! 照れてる照れてる!」
俺の反応を見て、高階さんも楽しそうに笑っている。
鬼か! 悪魔か!
「じゃ、『たまには違う空気吸ってくるー』って言っておくから。私の友達、そんな了見の狭い子たちじゃないしね」
「そ、そうか……」
「ってことで、決まりね! 楽しみにしてる!」
「ああ、また後で」
高階さんが嵐のように去っていく。
その背中を見送りながら、健太がポツリと呟いた。
「……おい蒼。俺の席、まだあるよな?」
「さあな。リア充の当て馬は嫌なんじゃなかったか?」
「ひでえ!」
「ふふ」
そんな軽口を叩き合いながら、入れ替わりでキーンコーン……と二限目の鐘が鳴り響いていく。
そして、授業は進む。
二限目は数学、三限目は現代社会ときて、四限目があの古典の授業。
以前の俺なら、「だるいな」「眠いな」と適当に聞き流していた、睡眠導入率ナンバーワンの時間だ。
けれど、今の俺は違う。
英語だけじゃない。他の教科だって、もう疎かにはできない。もともと成績は良い方だったけれど、明確な目標ができた今、俺の集中力は留まることを知らなかった。
ペン先は止まることなく、ノートの上を華麗に走り続け──るはずもなく。
悲しいかな、慣れない左手ではミミズのような文字を量産するのが精一杯だったり。
これ、後で読めるのか?
違う意味で、少し不安になる。
あの、麗しの『九条 葵に追いつきたい』
その一心だけが、俺を突き動かす。
授業中、ふと、今朝のイチョウ並木での気づきを思い出す。彼女はいつだって俺を見てくれているから。
『俺が君を見さえすれば──その視線と、交わらないはずがないことを』
そんな自惚れにも似た確信を抱いて、俺はこっそり視線を横に向けた。
……けれど。
その自惚れは、良い意味で裏切られることになる。
隣の席の彼女は、俺のことなど見てはいなかった。
背筋をピンと伸ばし、美しい姿勢で黒板を見据え、黙々とノートを取っている。
その横顔は真剣そのもので、朝方、吉岡先生に出席簿で頭を撫でられてクスクス笑っていた女性と、同一人物とはとても思えないくらいだった。
まさに高階さんの言う通り。
学年トップに君臨し続ける『才媛』の姿がそこにある。
これは、負けられないな。
そう決意して、俺も前を向こうとした、その時。
誰よりも綺麗な君は、黒板を真っすぐ見たまま、シャープペンシルを走らせる手を少しだけ止める。
そうして、こちらを見ないままに。
口角をほんのわずかに、けれど優しく上げてみせた。
「……っ」
視線は合わない。
けれど、俺が見ていることに気づいて、彼女は笑いかけてくれたよ。
目の合わない笑顔……。
そんな微笑みかたが、あるんだと今知った。
言葉も視線すらもいらない。
ただ気配だけで、通じ合っている。
それは、ずるいよ。
そんな顔をされたら、余計に頑張るしかないじゃないか。
俺はまた、君の世界に一歩踏み込んでいく。




