第48話 雨なくして虹なし
九条葵は償いたい ~その献身には理由がある~
第三章 あなたを追いかけて
偽りの黒い翼─後編「雨なくして虹なし」
あの日、私だけが生き残ってしまったから。
彼から一番大切な温もりを奪って、私だけが息をしている。
彼岸にいる、大好きだった蒼くんのお父さん、お母さん。
見てくれていますか?
お二人のお陰で、私はまだ生きています。
でも──私はあれからもずっと、彼への想いを捨てることが出来ません。大好きだった、あの温かい世界の欠片を、今も必死に追いかけています。
もう少しだけ。
もう少しだけ、側にいさせてくれませんか。
* * *
背中で彼女の気配を感じながら、俺は階段を降りる。
『消えろと言われない限り、傍にいる』か。
……また、さらりと凄いことを言うよな。
そんな重くて、甘い約束なんてそもそも必要ないのに。だって、俺が君に「消えろ」なんて言うはずがないだろう?
一方的に始まった、この温かくて甘い生活に、いつしか骨の髄まで染まり始めていたのは俺の方だというのに。いまさら、君とこうなる前の自分に戻れと言われても、もう戻れる自信がない。
ちゃんと言えてないけれど、これは本当にそう思っている。
屋上から二階の廊下へ。
そこを右に曲がって教室のある方へと向かう。非日常から、日常への帰還。
教室に戻れば、さっきの騒動の続き──好奇の目と質問攻めが待っているはずだ。
「……蒼くん」
「ん?」
「急に飛び出したこと、皆、何か言うと思う?」
「どうだろう。仮にそうだとしても、俺が言うよ。『ちょっと体調が悪かっただけだ』って。それでおしまい。いちいち説明する必要なんて無いさ」
「ありがとう、ふふ」
理由は皆目わからないけど。彼女の中で辛い何かがあったのだろう。
心配しなくても大丈夫。
俺に出来るだけのことはするさ。
「あ、見つけた!」
我がクラスが誇るもう一つの華やかな声が、廊下の先から響く。
もう間もなく予鈴がなる時間だというのに。人のまばらな廊下の広場付近で、少し焦ったような顔で佇んでいる女子生徒が一人。
「た、高階さん……?」
「ごめんなさい!」
俺たちが足を止めるより早く、高階さんは勢いよく頭を下げた。
特徴的な長い巻き髪が、ふわりと揺れる。
それはあまりに深く、潔い謝罪の形。
「え……?」
その姿に俺も、彼女も呆気にとられるばかり。
「急にごめん。さっきは驚かせて悪かったわ」
彼女は顔を上げると、バツが悪そうに、けれど逃げることなく真っ直ぐな瞳で俺たち──いや、九条さんを見据えて言った。
「単刀直入に聞いたのは……始まる前から、諦めたくなかったから」
「高階、さん……」
「水無月くん、前に言った通り『隠れ優良物件』だもん。フリーなら、まだ私にもワンチャンあるのかなって、つい焦っちゃった」
彼女は苦笑して、髪をかき上げる。
そんな風に頭を下げられては、こちらが恐縮してしまうよ。
そもそも、高階さんは何も悪くない。
俺に愛の告白をしたわけでもなければ、悪意を持って攻撃してきたわけでもない。
ただ、「仲良くしてほしい」と、勇気を持って真っ直ぐに踏み込んできた。それだけのこと。
「顔を上げて、高階さん。君は謝るようなこと、何もしていないよ」
俺は彼女の言葉を遮るように、努めて穏やかな声を出す。
「こちらこそ、ごめん。俺がこうなってから、九条さんにはずっと世話になりっぱなしでさ。疲れが溜まっていたみたいなんだ。だから、ちょっと過敏になってただけだと思う」
俺は隣にいる九条さんをちらりと見やり、苦笑いでフォローを入れる。
って、これは別にフォローでもなんでもないか。
殆ど事実そのままだ。
「九条さん、いつもありがとう。あと、迷惑ばかりかけてごめん」
「……そ、そんなことないわ。水無月くん……迷惑だなんて、一度も思ったことないから」
彼女の返事はともかく。これは半分は本当のことでもあり、そして、高階さんの罪悪感を消すための半分の嘘でもある。
誰も損をしない、優しい嘘だ。
何より、彼女が抱える本当の痛みは、彼女にしかわからないのだから。
「そう、だったの……」
高階さんは、ホッとしたように息を吐いている。
そして、少しだけ声を潜めると、改めて真剣な表情を作る。
「あー、もう、いいわ。ついでだから聞いてくれる? ……これは、嘘偽りのない本心。おべっかでも機嫌取りでもないからね」
高階さんは一歩、九条さんに近づく。
「私、ずっと九条さんと……あなたと、友達になりたかったんだ」
「え……? 私と?」
「うん、そうよ」
予想外の言葉に、今度は九条さんが目を丸くする。
高階さんは、少し照れくさそうに人差し指で頬を掻いた。
「遠い存在だって勝手に思ってたから。水無月くんと仲良くなれて、この機に乗じて九条さんとも仲良くなれたら最高じゃない? ……なんて、そう思っちゃった」
彼女はそこで言葉を区切ると、申し訳無さそうに眉尻を下げる。
「……なのに、私のせいで焦らせちゃったみたいで。傷つけるつもりなんてなかったの。本当にごめんね」
「だ、だから……それは。ううん、私の方こそごめんなさい」
九条さんが戸惑いながらも謝罪の言葉を返すと、高階さんはパッと顔を上げ、悪戯っぽく片目を瞑ってみせる。
切り替えが早い。
さすが我がクラスが誇る二大美少女の一角、華やかさが違う。
「それにほら、私みたいな凡人はビビっちゃうし?」
「え? いま何て」
「なにせ、入学から一度も学年一位から陥落したことのない『才媛』サマだもんね? 九条さんは」
おちゃらけた口調で、大げさに両手を広げてみせる。
その言葉には、嫌味などこれっぽっちもなく、純粋なリスペクトと親愛の情が込められていた。それくらいは、鈍感な俺にだってわかる。
「ふふ、そんな……買いかぶりすぎよ」
九条さんが、つられて小さく吹き出す。
その花が綻ぶような笑顔を見て、張り詰めていたその場の空気がようやく、ふわりと緩む。
「あ、笑った! よかったぁ」
高階さんは、太陽のような屈託のない笑顔を見せた。
「だから二人に、改めてお願い。……私とも、本当の意味で仲良くしてよ」
断る理由なんて、どこにもない。
ましてや、これほどまでに心の内をあけっぴろげに見せられたら、猶更だよな。
俺は隣の九条さんと顔を見合わせ、二人同時に頷いた。
「ああ。……じゃあ、改めてよろしく。高階さん」
「私からも、よろしくね。高階さん」
「やった!」
高階さんは、子供のようにガッツポーズを作って喜んだ。
その裏表のない笑顔を見ていると、さっきまでの胃の痛みも忘れてしまいそうだ。なんだか女版・小園 健太を見ている気がするのは、俺の気のせいだろうか……。
「それにしても、高階さんが『凡人』ってのは、どうも説得力がないな」
俺が苦笑交じりに突っ込むと、彼女は「ん?」と小首を傾げ、すぐにニヤリと不敵に笑った。
「いやね、それはあくまで勉強の話よ?」
彼女は豊かな胸を強調するように張り、自身の美しい顔を指差してウインクを飛ばす。
「言っとくけど、顔とスタイルには結構自信あるんだから。……ま、九条さんには少し負けるけどね?」
「まあ、ふふ」
その竹を割ったような物言いに、九条さんも思わず声を上げて笑うしかない。
つられて俺も笑い、高階さんも楽しそうに笑う。
キーンコーン……。
「いけね、急ごう」
三人の笑い声に重なるように、予鈴のチャイムが廊下に鳴り響く。
さあ、教室へ戻ろう。
嵐のような朝だったけれど、どうやら今日の授業は、先ほどよりも少しだけ明るい気分で受けられそうだ。




