第47話 マスカレード
九条葵は償いたい ~その献身には理由がある~
第三章 あなたを追いかけて
偽りの黒い翼─中編「マスカレード」
走った。
無我夢中で、廊下を、階段を駆け抜ける。
息が、続かない。酸素が足りないわけじゃない。胸の奥から溢れ出す絶望が、泥のように喉を塞いで、呼吸を拒絶しているようだったから。
私を苛むのは、制御できずに暴走してしまった自分への、底知れない嫌悪感だけ。
『まだ、付き合ってはいない』
蒼くんの誠実な言葉が、頭の中でリフレインする。
それは事実。紛れもない真実なの。
けれど、蒼くん。あなたは知らない。
「はぁ、はぁ、っ……!」
最上階まで一気に駆け上がり、重たい鉄の扉を身体ごと押し開ける。
屋上の乾いた風が、涙で濡れた頬を叩いた。私は扉を閉めると、その場に崩れ落ちそうになる膝を必死に支えて、背中でドアを塞ぐように寄りかかる。
その直後。
ドンッ、と。向こう側から、誰かが扉にぶつかる音がした。
びっくりして、耳を澄ませる。
「九条さん!」
扉越しに響く、大好きな人の声。
息を切らし、私の名前を必死に呼んでくれる、蒼くんの声。
「開けてくれ! どうしたんだよ、急に!」
「…………」
「高階さんのことだったら、ごめん」
謝らないで。
必死な彼の声を聞くたびに、罪悪感で胸が押しつぶされ、砕けそうになる。
あの日見た光景は、まさに地獄の再演だった。
この世に神なんていない。いるのは、人の運命を弄んで嘲笑う、悪魔のみ。
『遠くから見守るだけでいい』
『同じ学校に通って、すれ違う瞬間に背中を見送れれば、それで十分』
『三年間、彼を感じて生きていけるなら」
そうやって、血を吐くような思いで決めたその誓いは、目の前で崩れ落ちる彼を見た瞬間、粉々に砕け散った。
大切な人を奪うのは、いつだって予期せぬ暴力。
失いたくなかった。もう二度と。
気が付けば私は、なりふり構わず彼に寄り添っていたの。
贖罪を隠すための『偽りの仮面』を被り、同居という強引な手段を使ってでも、彼の体温を感じられる場所に居座りたかった。
貴方は何も悪くない。
悪いのは、全部私。
我慢できずに近づきすぎた、私。
覚悟の上だったはずなのに。
その先に待っている深い闇を、あなたに断罪される未来を垣間見た途端、勝手に怯えて逃げ出した、弱虫な私。
今のこんな無様な顔、彼に見せられるわけがない。仮面が剥がれかけた今の私は、ただの醜い女でしかないのだから。
「……蒼くん」
「九条さん!?」
「ごめんなさい。……五分だけ、待って。五分だけ、その扉を守ってて欲しいの」
「五分経ったら、開けてくれるんだな?」
「うん、約束する」
「わかった」
ドアノブに手をかけようとする気配が止まった。
彼は本当に優しいから。きっと、扉一枚隔てた向こう側で、困った顔をしても待っててくれているに違いないの。それだけはわかる。
私はドアから離れると、ふらつく足取りでフェンスの方へと歩み寄る。冷たい鉄柵に背中を預け、ズルズルと身体をもたせ掛けた。
見上げれば、雲ひとつない青空が広がっていて。
それが今の私には、残酷なほど眩しい。
「……答えられない。答えられるわけ、ないじゃない」
誰もいない屋上で、誰に聞かせるでもない独白がこぼれ落ちる。
「付き合ってるの?」
あんな風に、堂々と聞ける高階さんが羨ましかった。
否定された隙を突いて、「仲良くして」と踏み込める彼女の強さが、心底羨ましかった。
彼女には、その『資格』があるから。
でも、私には、できない。
どんなに彼を想っても、どんなに近くにいても。その一線を越えることだけは、絶対に許されない。
だって、私は……あの日、彼から全てを……。
……をも奪ってしまったから……。
「ううっ。……蒼くん、ごめんなさい」
「ああ、本当にごめんなさい」
私は膝に顔を埋め、声を殺して泣いた。
この涙さえも、きっと許されないと知りながら。
自分の手を、強く握りしめる。
この手は、彼に温かいブレザーを掛けるためのものじゃない。
本当は、もっと冷たくて重い、償いきれない罪を背負っている手だ。
昨日の夜、私の膝で心地よさそうに寝てくれたね。
そして今朝は、私の腕を受け入れてくれた。
とっても、温かかったの。
あの蒼くんが「もう逃げない」と言ってくれて、本当に嬉しかった。私なんかに、またあんな言葉をくれるなんて。
……私は、世界で一番幸せな罪人よ。
ああ、あの坂の頃に帰れたなら、どんなに。
もしも許されるなら、私の何もかもを捧げてでも、戻りたい。
「……っ」
幸せだけど、とても苦しいの。
近づけば近づくほど、いずれあなたは私を知りたくなる。そして、知られる訳にはいかない私は、世界で一番大切な人に嘘をつき続けるのだろう。
それが、さっき私が見てしまった暗黒の未来。
塗り固めた嘘の先で私を待つ、暗い闇の世界。
彼という熱が、私の背中に張り付いた『偽りの黒い翼』を燃やしてしまうから。
その焦げる匂いが、私に現実を突きつけるの。『お前はここに居ていい人間じゃない』と。
「ねえ、蒼くん」
扉の向こうにいる彼に、聞こえない声で問いかける。
もう長い間、思い出の中の君に一人問いかけてきたように。
「もし、この羽根が全部燃え尽きて……私の醜い正体が露わになっても」
私の本当の姿が見えても。
「あなたは私を、受け止めてくれる? ……私は大好きよ」
自嘲気味に笑い、空を仰ぐ。
見たりない夢をいつまで見るのか、愚かな私。
「無理よ、ね」
風にさらわれたその言葉は、誰にも届くことなく空へと消えていく。
スカートを握りしめた指が白くなるほど、私は強く、強く唇を噛み締めた。
誰よりも愛していても、その想いはきっと届かない。
私には永遠に訪れることのない、まだ。
決して踏み込んではいけない、まだ。
──ふぅ、と。
私は一度だけ大きく息を吐き出し、感傷を空へと逃がした。
いつまでも、こうしてはいられない。
「いけない。約束の五分が、経ってしまう」
私はハンカチで目元を拭うと、スマホの画面を鏡代わりにして顔を確認する。
赤みは引いたみたい。涙の跡も大丈夫。これならきっと誤魔化せる。
ううん。誤魔化されて、くれる。
口角を上げ、いつもの穏やかな微笑みを作ってみせる。
うん、画面越しの私は完璧。
これが、みんなが知っている、いつもの九条 葵。
──イツワリノワタシ。
深い呼吸を一つ。
肺いっぱいに屋上の冷たい空気を吸い込んで、胸の奥で燻る黒い感情に蓋をするの。漏れないように。
さあ、行こう。この扉の先に彼がいる。
私は震える指先を握り込み、重たい鉄の扉のノブに手をかけた。
ガチャリ、と。重厚な金属音が静かな孤独を破り、世界が開く。
大好きな人が住まう、光の世界に。黒き私が舞い戻る。
「……お待たせ、蒼くん」
扉の向こう。
そこには、私の想像通り──いいえ、想像以上に心配そうな顔をした彼が立っていた。
彼は、この扉を誰にも開けさせないように、こちら側に背を向け、門番のように立ち尽くしてくれていた。
私の醜い姿を、誰にも見せないように守るかのように。
うう、その背中を見て、必死に止めた涙がまた溢れそうになる。
私の声に気づいた彼は、弾かれたように振り返った。
「九条さん!」
彼は私の顔を、間近でまじまじと覗き込むから。
ねえ知ってる? 私の顔をこんなにも近くで覗き込んでもいいのは、この悲しみに満ちた世界でただ一人、あなただけ。
そう、声に出して言いたくなる。
彼は私の瞳の奥に翳りがないかを確認すると、それから、心底安堵したように長くて大きな息を吐いた。
「よかったぁ……。五分経っても開かなかったら、どうしようかと」
「ふふ。あなたとの約束だけは、絶対に守るわ」
それが、私に残された唯一の美学だから。
「……もう、大丈夫なのか?」
恐る恐る、腫れ物に触るように聞いてくる彼。
その不器用な優しさが、痛い。心に沁みてしまう。
だから、私は精一杯の笑顔という名の仮面を貼り付け、何事もなかったかのように振る舞うの。ごめんね、蒼くん。
「ごめんなさい。色々とあったから……あなたに怪我をさせたこととか、高階さんの言葉とか。……少し、頭を冷やしたかっただけ」
「……そっか。なら、いいんだけど」
彼はそれ以上、何も聞かないでいてくれた。
「泣いていただろ?」とも、「本当は何があったんだ」とも。
ただ、私のついた見え透いた嘘を、その優しさで丸ごと飲み込んでくれる。
いつもそうだった。
だから私はそんなあなたが好きになって、ここまで追いかけてきてしまったの。
もう二度と果たされることのない、遠い日の約束に縋って。
「戻ろうか。もうすぐ予鈴が鳴る」
「ええ」
彼が歩き出す。
私はその背中を、一歩遅れて追いかける。
高階さんがもし、彼を好きというのなら。その気持ち自体を私が邪魔する資格なんてない。だって彼女は、嘘で塗り固められた私と違って、とても純粋で『綺麗』だもの。
私は、人の恋路を邪魔できるような立場じゃない。
ただ、いつか。
この愛しい人に断罪され、捨てられるその日まで、精一杯、足掻くだけ。
……でも。
やっぱり、意気地のない私は、知っててほしいと思ってしまうから。
「蒼くん」
「ん、どうしたの?」
「一つだけ、約束するね」
私は、彼の背中に向かって、祈るように告げる。
神なんていない。そう知っているのに。
「うん? 何を?」
「私はね、あなたから消えろと言われない限り、いつまでもあなたの傍にいるから」
だから、ずっと私のことを忘れないでいてね。
せめて、記憶の中にだけでも。永遠に。
これが、あの日。あの電車で言えなかった、私の言葉。
許されざる私の、たった一つの願い。
「……そんなこと、いう訳が無いの知ってるくせに、ずるいよ」
「ホントかなぁ、ふふ」
呆れたように笑う彼の背中を見つめながら、私は胸の奥で、もう一度強く誓った。たとえあなたが、私を選ばなくても。
蒼くん。
私はずっと、あなただけを見ている。
ずっと……ずっと。




