第46話 ミューズが死んだ日
九条葵は償いたい ~その献身には理由がある~
第三章 あなたを追いかけて
偽りの黒い翼─前編「ミューズが死んだ日」
「お、お前まさか……九条さんと、同じ匂いがする、ぞ……」
健太の声は、決して大きくはなかった。
けれど、嵐の前の静けさが漂うこの教室には、それでも十分すぎるほどの声量だったと思う。
「え、今なんて?」
「同じ匂いとか、なんとか……」
「あの二人が? まさか」
近くの席の連中から徐々に、けれど確実に。
疑念と驚愕のざわめきが、波紋のように教室中へと隅々まで伝播していく。
そうしてクラス中の視線が、俺たち一点に集中する。
まずいぞ。早く否定しなきゃ。
俺が口を開きかけた、その時だった。
ふわっ、と。
暴力的なまでに甘い香りが、背後から俺を包み込んだ。
「……え?」
考えるよりも早く。
俺の首や肩に、白くしなやかな腕が回される。背中に押し当てられる、信じられないほど柔らかな感触と、愛おしい体温。
九条さんが……椅子に座る俺を、後ろから優しく抱きしめてくれていた。
教室のど真ん中で。
衆人環視の真っただ中で。
まるで、俺についた残り香を、さらに濃厚なものへと上書き保存するように。
君は、ただ嬉しかったんだね。
さっき正門で、俺が満身創痍の身体を盾にしてまで、彼女を守ろうとしたことが。
「もう逃げない」と誓ったあの言葉が。だろう?
だから、衝動のままに俺を確かめているんだ。
広がっていたざわめきが、ピタリと止む。
クラス全員の視線が、俺の背中を包み込む彼女に釘付けになっている。
その中でも、窓際の田島の顔といったら。
さっきまでの渇欲が、一瞬にして絶望と、俺へのどす黒い『敵意』に塗り替わっていくのが見えた。
……ああ、駄目だ。
これはもう、彼との関係修復は未来永劫、望めそうにないな。
しょうがない。
俺が遠い目をしている間にも、背中の彼女は止まらない。
九条さんは、俺の前で石のように固まる健太に向かって、蕩けるように甘く微笑んでみせた。
「ふふ。……正解よ、さすが小園くんね」
彼女は俺の首に回していた腕を、なぞるように肩へと滑らせると、俺の耳元に、その美しい顔をすっと並べた。触れそうで触れない、ギリギリの位置で視線の高さを合わせ、俺と同じ方向を見据える。
二人で一つのような、絶対的な一体感。
嘘のような距離に、俺までもが震え固まってしまう。
「私、水無月くんにとっても『仲良く』してもらってるの」
──それは、あまりに甘く、美しき旋律。
その響きが皆の耳に届いたとき、教室から全ての音が滅した。
そう。ミューズは、いま死んだのだ。
さっきまでのざわめきも、誰かの呼吸音さえもが。
まるで世界そのものが、目の前の光景のインパクトに耐えきれず、機能不全を起こしてしまったかのように止まり、固まる。
健太の口は半開きのまま、クラスメイトたちは石像のように静止していた。
そこにあるのは、爆発的な騒ぎなどではなくて。あまりの事態にクラスメイトの脳内処理が追いつかないことによる、『絶対的な無』。
本来なら、在り様のない世界がそこに広がっている。
永遠にも続くかと思われた、その絶無の時を。
唯一破ることができたのは、このクラスにおけるもう一つの『華』だけ。
──高階 萌。
ただ一人、彼女だけが動くことができた。
「……ねえ」
これは幻聴か?
カツン、と。
上履きであるはずなのに、コンクリートを叩くヒールのような鋭い足音が、脳裏に響いて離れない。
彼女──高階 萌が悠然と歩み出てくる。
クラスの空気が、一瞬で塗り替わる。
彼女は俺たちの目の前で立ち止まると、組まれた腕と、並んだ俺たちの顔を交互に見据えて言い放った。
「単刀直入に聞くけど。……ふたりは、付き合ってるの?」
あまりに、直球すぎる質問だった。
クラス中の耳目が、ここぞとばかりに集まっている。
その問いが投げかけられた刹那。
俺の肩に添えられていた細い指が、ブレザーの生地をギュッ、と強く掴んだ。爪が食い込むのではないかと思うほどに、強く。痛いほどに。
それだけじゃない。
背中に密着している柔らかな感触──その愛おしい温もりまでもが、小刻みに震えているのが分かった。
「…………」
彼女は、何も答えない。
いや、答えられないのだ。
触れているからこそ、それを知ることができた。
俺の背中で、彼女が小さく息を飲み、言葉を詰まらせている気配がする。
君が時折見せるあの暗い影が、目に見えない闇の帳が、音もなく舞い降りて彼女を包み込み──その唇を、無情に塞いでしまっている。
そんな気がした。
光の中にいたはずの彼女が、また一人、冷たい闇の底へと引きずり込まれそうになっている。
……なら、俺がやらなきゃいけない。君が言えないなら、代わりに答えなければならない。そうだろ?
渇いた喉を鳴らし、正直に、けれど精一杯の言葉を選んだつもり。
「いや……そういう訳ではないよ」
「そうは見えないけど?」
「まだ、付き合ってはいない。……とても、仲良くはしてもらってるけど」
俺がそう発した瞬間、肩に添えられた指から力が抜けた気がした。
それは安堵か、それとも諦めか。
彼女をつなぎ止めていた何かが、切れたような感覚。
「そう。付き合って、ないんだ」
高階さんの目が細められる。
彼女は一歩、俺たちの方へ踏み出すと……俺の目の前、特等席に陣取っている健太を見下ろし言う。
「ねえ小園。そこ、どいてくれる?」
「へ?」
「ちょっと変わってよ」
「ど、どうぞ!」
短く、けれどかくも圧のある『願い』があるだろうか。
健太は弾かれたように椅子から飛び退いた。
空いた椅子に、高階さんが当然のように腰を下ろす。それも、背もたれを抱えるように跨って座る、健太と同じスタイルで。
スカートの中が見えてしまわないか、少し心配になるほど無防備で、大胆な座り方だ。
「……よいしょ、と」
彼女はそのまま上体を前に倒すと、俺の机に肘をつき、組んだ両手の上にちょこんと顎を乗せた。
これはこれで、結構な至近。
背中にいる九条さんとは違って、正面から覗き込むような強気な視線がかち合う。
「じゃあ、問題ないよね」
高階さんは背後の九条さんをも見据えながら、艶然と微笑む。
「水無月くん。だったら私とも『仲良く』してよ」
「え?」
その瞬間。
俺の半身を包んでいた彼女の温もりが、ふっ、と消えた。
「……九条さん?」
振り返ろうとした時には、もう遅い。
彼女は弾かれたように俺から離れると、青ざめた顔で唇を噛み締め。
「っ……!」
何かを言いかけるように口を開き、けれど音にはならず。
彼女は踵を返すと、逃げるように教室を飛び出してしまった。
「え、九条さんちょっと待って! ごめん高階さん」
高階さんが目を丸くし、クラス中が再びどよめく中、俺は考えるよりも先に身体が動いていた。
ギプスの痛みなど無視して、彼女の背中を追って廊下へと駆け出す。
「待ってくれ、九条さん」
逃げないって、決めたばかりじゃないか。
なのに、なんで今度は君が逃げるんだよ。




