第45話 花が堕ちた日
「……わかった。ただし、学校の裏口までだからね」
「ふふ、はぁい」
俺の必死な条件提示。
彼女は鈴を転がすように楽しげに笑い、素直に頷いてくれている。
今のところはね。
それでも、ああ、よかったと思わざるを得ない。
このまま流されて、生徒の大半が利用する『高等部正門ルート』へ向かわれたらどうしようかと、一人焦っていたからだ。
それはさすがに生きた心地がしなかっただろう。
逃げないと決めたさ。確かにそう決めた。
だけど、わざわざ渋谷方面から登校してくる正門組の『大軍勢』に、特攻をかける必要はないだろう? 全男子生徒を敵に回すのは、もう少し心の準備ができてからにしたい。
これはあくまで、戦略的撤退というやつさ。
大学から高等部、中等部に初等部までを擁する聖諒学院の敷地はとても広い。
俺たちが歩いているこのイチョウ並木は、大学キャンパスの正面にあたり、高等部にとっては裏手に位置している。ここからなら高等部の裏口は目と鼻の先で、もう間もなく見える頃だろう。
ロータリーから昇降口の裏口までは、あと百メートルもない。
こんなの、普段ならなんてことのない距離だ。
けれど今の俺にとっては、天国と地獄が入り混じった、果てしない道のりに感じられる。
そも、裏口ルートとはいえ、完全に無人というわけではない。当然すれ違う大学生もいれば、俺たちと同じように近道を利用する高等部の生徒たちも僅かながらいる。
すれ違うたび、誰もが二度見し、そして勝手に凍り付いていく。
「え、あれ高等部の九条さん、だよな?」
「男と……腕組んでないか?」
「俺、疲れてんのかな……幻覚が見える」
ああ、組んでるさ。見たらわかるだろ。
随分と奥へと進んだというのに、いまだそういう声は減らない。
それどころか、変わらず突き刺さる悋気の視線、愕然のささやきは増すばかりだ。
高等部正門ルートよりは随分マシとはいえ、それらを全身に浴びながら、俺たちは二人三脚のように歩を進めていく。
……彼女はどう思っているのだろう。
これだけの注目を浴びて、多少は気にならないのだろうか。モデルという仕事に差し支えないのだろうか。
試しに、顔を横へ向けてみる。
すると、彼女は待っていましたとばかりに、世界がそこだけ輝いて見えるほどの、眩い笑みを俺へと向けてくるから。
ああ、これは。
間違いなく、この状況を心底楽しんでいる。そういう瞳だと瞬時に悟る。
……なあ。
君は本当に、あの九条 葵さんなのか?
すれ違っても、視線すら合わなかったあの頃の君は、一体何だったんだ。
さっき田島を氷漬けにした人と同一人物とは、とても思えない。
あまりに別人すぎやしないか?
二の腕に感じる、ありえないほどの柔らかさと温もりはまだ続いている。鼻腔をくすぐり続ける、彼女特有の甘やかな香りまでもが。
そこに、合わさるこの笑顔たるや。
心臓が早鐘を打ちすぎて、何だか痛いほどだよ。
主よ、お教えください。
これは、迷える子羊の心臓がどこまで耐えうるか……貴方がお与えになった、甘く苛烈な試練なのですか、と。
……問うてみたくなる。
不信心な俺が、こんな時だけ都合よく神に問いかけるなんて知れたら、伝道部の連中が顔を真っ赤にして怒りそうだ。
くわばら、くわばら。
そうして、永遠にも思えた数分間はようやく終わりを迎える。
どうにか高等部の校舎、昇降口の裏側へと辿り着くことができた。
「……あーあ、残念」
九条さんは心底名残惜しそうに呟くと、ゆっくりと、本当にゆっくりと腕を解いていく。
二の腕から確かな温もりが離れ、代わりに朝の冷たい空気が入り込む。
訪れた唐突な喪失感。
それに、少しだけ寂しさを感じてしまったのは、ここだけの秘密にして欲しい。
くっついている時は「心臓が持たない」と悲鳴を上げていたくせに、離れれば離れたで、あの温もりが恋しくなってしまう自分がいる。
我ながら、本当にややこしい奴だよ。
「ああ、もっと学校が遠ければよかったのにね」
「からかうなよ……こっちは、こんな距離でさえ精一杯だったんだぞ」
「ふふっ」
彼女は悪戯っぽく微笑むと、手早くローファーから上履きへと履き替えた。
トントン、とつま先を揃える。
その仕草一つで、彼女は『甘える恋人(仮)』から完璧な優等生へとスイッチを切り替えたようだった。
ここからは、ただのクラスメイトだ。
……というには、あまりにも濃密すぎる通学風景だったけど。
教室に入ると、そこにはいつもの朝の喧騒があって。
まだホームルーム前の大切な時間を、生徒たちは思い思いに過ごしている。
……あれ? やや身構えていた俺は、拍子抜けする。
意外なことに、ロータリーでの一件や、その後の腕組み登校の事実は、まだここまでは伝播していないらしい。
裏口ルートだったのが功を奏したのか、それとも目撃者がショックで信じようとしないのかはわからない。
理由はともかく、これには一安心。
少なくとも今はまだ、平和な時間が保たれている。
俺は自分の席へとカバンを置き、ふと視線を感じて顔を上げた。
教室の前方、窓際に田島の姿があった。
彼は片肘をつき、どこか上の空といった様子で後ろの方を──違うな、その延長線上にいる九条さんを、ちらちらと盗み見ていた。
その瞳に映る色は、未練か、それとも渇欲か。
衆人環視の中であれだけ冷たく拒絶されてもなお、気になってしまうのか。
まあ、無理もないよ。彼女のあの美しさは、拒絶された痛みすらも美化してしまうほどの引力があるから。
……ただ、田島よ。
もしお前が、自分が逃げ出した直後の、あの甘々な彼女の姿を見ていたら。
きっとショックで気絶していたと思うぞ。
それだけは、見なくて良かったな。
俺は心の中でそっと彼に合掌し、椅子に腰を下ろした。
と、その時だ。
「よお蒼! おっはよーさん! 九条さんもおはよう~」
背後から、元気すぎる声と共に背中をバシコーン! と叩かれる。
朝っぱらからこんなアグレッシブな挨拶をしてくるのは、健太しかいない。どうやら、今着いたようだ。
健太は渋谷方面から来る『正門組』だから、俺たちとは通学ルートが異なる。
つまり、さっきの腕組み登校は目撃されていないということだ。
……よかった、また一つ命拾いした。
「痛ってぇな……。おはよう、健太」
「小園君、おはよう」
「なになに、朝から二人ともご機嫌だったり? んで、ギプスの具合はどうよ?」
ご機嫌だって?
なんでこいつの『野生の勘』は、こういう時だけ無駄に鋭いのか。
「そんなすぐ変わるかよ」
「そりゃそうか! アハハ」
健太は元気に笑うと、俺の前の席の椅子を引いて、背もたれを抱えるように跨り座る。
そして、何気ない動作で俺の方へ顔を近づけ──
「……ん? あれ?」
健太の鼻が、ひくひくと動く。
彼は怪訝そうな顔で、俺の肩あたりに鼻を近づけ、犬のようにくんくんと匂いを嗅ぎ始めた。
「おい、なんだよ。なんか臭うのか?」
「いや、ちげえよ。逆だ、逆」
「は? 逆ってなんだよ」
健太はどこぞの名探偵気取りで目を細め、ニヤリと口角を上げる。
そんなの、似合わないからやめろ。
どちらかというと、お前は迷探偵だろ。
「なんかお前……すげぇいい匂いしねえ?」
「っ!?」
健太の癖に、まさかの核心だと!?
心臓が、喉から飛び出るかと思った。
さっきまで左腕に密着していた、彼女の甘い残り香。まさか、それがまだ漂っているのか?
いや、待て。それだけじゃないぞ。
そういえば、つい昨日の夜だってそうだ。河川敷で寝てしまった俺に、彼女は自分のブレザーを掛けてくれていた。それも結構な長い時を。
今朝の『腕組み』と、昨夜の『ブレザー』。二日分の濃厚な移り香が、俺の制服に染み付いているということか!?
「き、気のせいだろ! 柔軟剤変えたところだし!」
「いや、この匂い……。どっかで嗅いだことあるような」
俺の必死の弁明を無視して、健太は記憶の糸を手繰り寄せるように宙を仰ぐ。
お、おい、やめろ。その糸をたぐるな。
そして、こっちに来るな。
「こんなの、よくある匂いだって!」
「いーや、ごく最近、嗅いだ気がするんだよな……」
健太は俺の肩から、スッと視線を横へずらす。
その視線の先には、涼しい顔で、けれど楽しそうにこちらを眺めている、九条さんがいる。いらっしゃる。
やめろ、そっちを見るな健太!
その顔の時の彼女は危険なんだ!
その高嶺の花はいま、ブレーキの壊れた暴走花なんだよ!
健太の視線が、彼女と俺を何度も何度も行き来する。
そして。
カチリ、と。パズルのピースが嵌まったような顔をして、戦慄くように呟いた。
「お、お前まさか……九条さんと、同じ匂いがする、ぞ……」




