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九条葵は償いたい ~その献身には理由がある~  作者: 神崎水花
第三章 あなたを追いかけて

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第44話 『鉄壁』の証明

 九条さんはほんの少し足を緩め、わずかに眉を顰める。

 けれど、完全に無視することはなく、彼女は小さく会釈を返した。

 礼儀正しく、つつやかに。

 それが彼女のスタイルだから。

 

「田島君、おはよう」

「ここであったのも縁だし、一緒にいこうぜ」

 彼はそう言って、親しげに笑いかける。けれど、九条さんの反応はとても冷ややかなものだった。


「急いでるから、失礼するわ」

 

 その声は、礼儀正しく透き通ってはいても。

 そこには、さっきまで俺に向けていた春の日差しのような温かさは欠片もなくて、どこか業務的で、絶対零度の冷徹さが張り付いていた。


 田島は、その温度差に気づかないふり(?)をして、さらに一歩踏み込んでくるから凄い。そのメンタルだけは、俺には無いものだと感心すらするよ。

 でも、それはそれだ。

 彼女が嫌がっているのであれば、話は変わる。

 俺は、痛む上半身を庇うことなく、一歩も引かずに睨み返す。


「やめとけよ、田島。彼女、嫌がってるだろ」

 

 低い声と共に、俺は二人の間に割って入る。

 言葉だけではなく、俺の身体そのものを壁としてみせた。彼女を隠すように立ちはだかる。

 すると田島は、鬱陶しそうに顔を歪め、あからさまに舌打ちをする。


「あ? チッ……なんだよ水無月、邪魔すんな。怪我人は引っ込んでろ」

 

 田島が、俺を汚いものでも見るような目で睨みつけてくる。

 骨折で療養中の身だ。正面からぶつかれば、とうてい敵うはずもない。それでも俺は視線を逸らさず、その威圧を正面から受け止める。


 予想外の反発に、相手が一瞬だけたじろぐ。

 だがすぐに、鼻で笑って興味を失ったように彼女へと向き直り、へらりと笑った。

 俺など、そこには存在しないとでも言うように。

 

「つれないなぁ。ちょっとくらい良いじゃん。な? 九条さん」

 

 そう言って俺を回り込んだ先で、彼女の華奢な肩へ無遠慮に手を伸ばした。

 その軽薄な手が彼女に触れようとした、その瞬間。


 バシッ!

 乾いた音が、朝のロータリーに残酷なほど響き渡った。


「──ッ、気安く触らないで」

 鋭い拒絶の声と共に、彼女の手が、田島の手を反射的に払い除けていた。

 その瞳に宿るのは、明確な侮蔑と、生理的な嫌悪。

 そして何より、自分を守ろうとした俺を蔑ろにした男への、静かなる怒りで凍り付いているような。

 そんな気さえしてくる目を、していた。


 こんな冷徹な彼女の顔を、俺は初めて見た。

 触れる者すべてを切り裂く、鋭利な氷の刃のような瞳を。


「え、あ……?」


 田島が、何が起きたのか分からないという顔で、自分の赤くなった手と彼女を交互に見ている。

 この期に及んでも、事態を飲み込めていないのはきっと彼だけ。


「ちょっと、今の見た?」

「いきなり九条さんに触ろうとしたよね……」

「ないわー、キモ……」

「女性に急に触るだなんて、信じられない」

「あいつ、二年か?」


 周囲で様子を窺っていた生徒たちから、遠慮のない囁き声が漏れ聞こえ始める。それは明確に、田島の非常識な振る舞いに対する拒絶の音だった。

 学生にとって、学校という社会からの拒絶ほど、辛いものは無い。

 

「あ、う……」

 田島の顔が、みるみるうちに赤黒く染まっていく。その場にいる全員から冷ややかな目で見られていることに、ようやく気づいたのだろう。

 

「い、いや、俺はただ挨拶代わりに……ごめん」

 田島が苦し紛れの言い訳を口にする。

 けれど、それが命取りだった。

 

「挨拶代わり?」

 九条さんが、冷たく言葉を被せる。

 彼女は冷淡な目で彼を見下ろすと、淡々と、しかし鋭利な正論を突きつけた。

 

「頼んでもいないのに身体に触れることが、あなたの挨拶なの?」

 追撃とばかりに放たれた言葉。

 これは勝負ありだ。もはや、田島に反論の余地は何も残されていない。

「くっ……でも!?」

「二度としないで」

「わ、わかったよ。くそっ」


 突き刺さる無数の視線と、彼女からの完全な拒絶。

 それに耐え切れなくなったのか。田島は逃げるように踵を返すと、校舎の方へと早足で消えていった。

 

 氷刃のような一言で、田島をあっさり切り捨てた彼女。

 その毅然とした態度は、美しくも、近づく者すべてを拒む極海の大氷壁のようだった。あまりに孤高で、他を寄せ付けない美しき白氷の断崖。

 けれど、だからこそ。

 拒まれるとわかっていても、男はその氷壁に挑みたくなる。その美しき頂に、己の旗を立てたくなるのだ。

 

 だから誰かが名付けたんだ。

 断崖に咲く、『鉄壁』の高嶺の花と。


 ……知らなかったな。

 九条さんが異性に触れられることを、ここまで嫌がるだなんて。


 昨夜、君は俺に上着を貸してくれたよね。まだ夜は寒いというのに。

 朝の満員電車で、互いの体温を分け合った時もそう。彼女は一度だって拒むどころか、むしろ甘えるように受け入れてくれていた。


 なぜかは、わからないけど。俺だけは、彼女に許されている。

 あの美しき白氷の断崖の、八合目辺りに居座ることくらいは、許されているのかもしれない。

 頂上へ挑むことが許されてるのは、俺ただ一人? なんてな。

 そう思ったらもう、自然と頬が緩んでしまうのを止められなかった。


 なんだ、湧き上がるこの感情は。

 

 ああ、世界はこんなにも色鮮やかなのか。

 誰かの「特別」になれるとは、こんなにも素晴らしいことなのだと。

 俺は今日、初めて知ったよ。


 いつしか田島の背中が見えなくなり、周囲に再び奇妙な静寂が戻る。

 遠巻きに見ていた生徒たちの視線は、まだ俺たちに張り付いたままだ。けれど、そんなものはもう、今の俺にとってはどうでもいい背景でしかない。


「……蒼くん」


 隣から、砂糖菓子のように甘い声が降ってくる。

 振り返ると、彼女は熱っぽい視線を俺に向けていた。

 その表情は、先ほど田島に見せた氷の美貌とはまるで別物。とろけるように甘く、そしてどこか切なげで。とっても温かい。常夏の君。


「ありがとう。……嬉しかったの」

「いや。当たり前のことをしただけだよ」


 照れ隠しに頬を搔こうとして、右手がギプスで固められていることを思い出し、ぎこちなく下ろすしかない。

「はは」

 こういうところだ。我ながら、何とも締まらない。


 すると。

 構内だというのに、彼女は一歩身を寄せてきた。

 もう間もなく校舎だというのに。

 ふわりと鼻腔をくすぐる、あの甘い香り。俺の理性を揺さぶる大好きな匂いが、危険なほど近づいて──


 身構える間もなく、彼女のしなやかで細い腕が、俺の左腕──ギプスのない方の腕に、するりと絡められた。


「えっ!?」


 ぎゅっ、と。

 信じられないほど柔らかな感触が、二の腕に押し当てられる。

 彼女の体温が、ブレザー越しに溶け込んでくる。彼女の豊かな膨らみが、俺の腕に押し付けられて……俺の思考は一瞬で揮発し、視界は真っ白に染まった。

 いけない、このままでは何も考えられなくなってしまう。


「ちょ、ちょっと待って九条さん! それはさすがに!」


 俺は裏返った声で叫び、周囲を見渡す。

 見てる! みんな見てるから!

 さっきまでのざわつきが、今や驚愕の沈黙に変わっているじゃないか!


「えっ……嘘だろ?」

「や、やめろ……見せつけないでくれぇ」

「く、九条さんが、自分から……?」

「あらら」

 

 信じられないものを見たかのように、息を飲む音がさざ波のように広がっていく。

 田島があれだけ冷たく拒絶された直後に、この光景だ。

 周囲の男子生徒たちの心が音を立てて折れていく、いや、粉々に砕け散っていく。そんな幻聴すら聞こえてきそうだった。

 

 けれど、彼女はそんな俺の動揺などなんのその。

 周囲の視線など、ただの風景の一部としか思っていないのかもしれない。 彼女は俺の腕をしっかりとホールドしたまま、こてん、と小首を傾げるだけ。


「どうして?」

「どうしてって……ここ、学校の目の前だから! みんな見てるし!」

「それが、なにか?」

「なにかって……!」


 彼女は絡めた腕にさらにぎゅっと力を込めると、逃がさないとばかりに微笑んだ。 

「……守ってくれたお礼、させて?」

「け、けけ、結構です……っ」

「む……」


 俺の抵抗に、彼女は少し不満げに唇を尖らせると、とどめの一撃を放ってくる。

 逃げ場のない俺に対して、強力無比な一撃を。


「……もう逃げないって言ったのは、嘘なの?」

「う、それは……ずるいよ……」


 詰んだ。

 さっきの誓いを、こんな形で逆手に取られるなんて。

 俺は観念して、その柔らかく温かい『羞恥の拘束』を、受け入れるしかない。

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