第43話 鉄壁の高嶺の花
「だめね……変なこといってごめんなさい」
「ダメじゃないよ」
……何もかもが、壊れそうで怖かった。
ふとした瞬間に彼女が覗かせる、底知れない孤独と危うさ。突如湧き上がったその気配に、自身まで飲み込まれそうになる。
だから俺は、それを無理やり振り払うように、周囲に聞かれないよう声を潜めて伝える。冗談めかして笑う彼女とは対照的に、あえて真面目な顔を作って。
「君は成績だって学年トップじゃないか。俺なんかを基準にしないで、もっと自分の可能性を広げるべきだよ」
「ふふ。水無月くんは真面目ね」
誰よりも真面目な君が、少し作ったように笑う。
そんな彼女から視線を逸らし、俺はぽつりと、嘘偽りのない本音を付け足す。
「でも、そういう未来は素敵だなとは、思うよ。叶うなら」
もしも、そんな夢想が許されるなら。
大学のキャンパスを並んで歩く俺たちを想像して、柄にもなく心が温かくなるのを感じている。
理屈じゃない。ただの願望。
けれど、この言葉が、少しでも君の胸にある氷を溶かせますように。
「──っ」
俺の言葉に、九条さんの息が止まる気配がした。
見れば、彼女は目を見開き、潤んだ瞳で俺を見つめている。
「蒼、くん……」
彼女はどこか物悲し気に、けれど慈しむように目を細めると、満員電車の混雑に紛れて、さらに身体を預けてきた。甘えるように。縋るように。
互いの吐息が触れ合う距離。
震える唇が、俺の耳元で何かを懸命に紡ごうとする。
「もし、許されるなら……私の」
彼女の本当の想いが、言葉となって形を成そうとした──その時。
『まもなく、表参道──お出口は右側です』
くそっ。何て悪いタイミングなんだ。
まるで見計らったように、無慈悲なアナウンスが二人の世界を切り裂いていく。
プシュウ、と腹立たしいほど気の抜けた音を立ててドアが開くと、車内の澱んだ空気が一気に入れ替わり、現実の喧騒が雪崩れ込んでくる。
「残念。時間切れ、ね」
彼女は寂しそうに微笑むと、名残惜しむように身体をそっと離した。
「私の……」の続きが何だったのか。聞けないままに、俺たちは吐き出される人の波に乗ってホームへと降り立つ。
地下の澱んだ空気を抜け改札を出た先は、春の陽光が眩しかった。
洗練された街並みが、これでもかと視界に飛び込んでくる。行き交うのは、颯爽と歩くビジネスマンや、美しく着飾った女性たち。
そんなきらびやかな都会の喧騒の中を、まだ大人でも子供でもない俺たちは、少し背伸びをするように肩を並べて歩き出す。
一歩、また一歩。
アスファルトを踏みしめる感触と、隣にある彼女の体温を確かめるように。
大通り沿いに現れた、見慣れた正門。
そこを左へと折れ、敷地内へと足を踏み入れる。
すると、空気の色が、さっきまでとは明らかに変わった気がした。
目の前には、鮮やかな新緑のイチョウ並木が続く、いつもの通学路が広がっているだけのはずなのに。
そうか、ここか。
昨日、俺はここを、ただひたすらに走ったのだった。九条さんを一人置いて、現実から目を逸らすように無様に逃げ出した。本当に情けない奴。
でも、今日は違う。
『Cafe Nine Flow』で店長に誓った。自分の保身のために彼女を差し出したりはしないと。そして昨晩、その完璧な笑顔の裏に隠された、泥臭いまでの努力も知ったから。
汗にまみれ、歯を食いしばって耐える彼女の姿。
怪我をする前の俺と同じく、生活の全てを一人で背負いながら、それでも彼女はいつだって頂点に立ち続けている。そのうえ今は、怪我人の俺のお守りまで引き受けてくれているというのに。
その証拠に、俺は彼女と暮らし始めてから、彼女の寝起きをただの一度も見たことが無い。
俺が目を覚ます頃にはいつだって、彼女は身支度を整え、完璧な『九条 葵』としてそこにいるんだ。
九条 葵という女性の、そんな涙ぐましい『正体』を目の当たりにした俺が、これ以上、自分を卑下して逃げ出すわけにはいかないだろうが。
芽生えつつある確かな想いと、新たに生まれた君への尊敬。
だからもう、俺は逃げない。逃げずに彼女の隣に立つ。
ざらり、と。
肌を刺すような無数の視線が、周囲の空気を一変させた。
「あれ、九条さんだ……」
「隣の奴、昨日もいなかったか?」
「おいおい、マジで一緒に登校してるよ」
「ああ、ちくしょう。俺も狙ってたのに」
囁き声は、さざ波のように次々と広がって、俺の心を蝕もうとする。悪意があるのか、ないのか。そんなことすら自覚が無いのだろう。勝手なもんだ。
今日も変わらず続く、好奇の視線が鬱陶しい。
俺たちの姿を執拗に舐め回すそれが、昨日までの俺なら耐えられなかった。きっとその不愉快さに顔を背け、俯いて歩調を緩めていたか、駆け抜けていたのどちらかだろう。
けど、いまさっき、また新たな誓いを一つ立てたばかり。
誓いに恥じないよう顔を上げ、視線を真っ直ぐ前に据えた。
それから、隣を歩く彼女の凛とした横顔を見る。彼女は周囲の雑音など存在しないかのように、ただ前を……いや、俺だけを見ていた。
重なる視線。
これは偶然じゃない、必然。
そうやって、いつだって俺のことを見てくれている君だから。俺が君を見さえすれば──その視線と、交わらないはずがないことを。
いつも、気づくのが遅くて嫌になる。
そうして彼女は、俺が昨日のように気にしていないか案じるように、ふわりと優しく微笑みかけてくれたよ。
「水無月くん、大丈夫?」と。
その声はさ、周囲のざらついた悪意をかき消すように、まっすぐに俺の芯へと届くんだ。深くて弱いところに、じんわりと染み渡る。
だから俺は頷いて、はっきりと言葉にすることにした。
これは自分自身への誓いであり、隣にいる彼女への未来への約束として。
「もう、逃げないと決めたんだ。だから、大丈夫。気にしないでいい」
俺の答えを聞いた彼女は、一瞬だけ驚いたように目を丸くし。すぐに春の日差しのような、心からの笑顔を咲かせたよ。
そりゃもう、満開の花のように。
「……うん!」
ああ、君がそんな顔で笑ってくれるなら。
言葉にして、よかった。
逃げずに踏みとどまって、本当によかったと。
二人の間に、言葉以上の何かが通い合う。もう、周囲の目線なんて気にならない。俺たちは確かな足取りで、前へと進んでいける。
そう信じた、矢先のことだ。
イチョウ並木を彼女と並んで抜け、ようやく校舎へと続くロータリーが見えてきた辺りで。俺たちの進路を塞ぐように、一人の男子生徒が割り込んでくる。
「よ、よぉ。九条さん、おはよう」
馴れ馴れしい声と共に現れたのは、少し明るい髪をワックスで遊ばせ、制服を少し着崩した田島だった。
例のごとく、九条さんの隣にいる俺のことなど、まるで道端の石ころか何かのように完全に無視して。
爽やかなつもりらしい笑顔を、彼女に向けている。
お前のせいで、せっかくの気持ちのいい朝も台無しだよ。
やれやれだ。
第43話、お読みいただきありがとうございます。作者の神崎 水花です。
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