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九条葵は償いたい ~その献身には理由がある~  作者: 神崎水花
第三章 あなたを追いかけて

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第42話 君に勝ちたい

 鍵を開け、玄関をくぐる。

 九条さんは、ホッと一息つくと、すぐにリビングの奥へと向かった。


「私、ちょっと着替えてくるわね。さっき、食べすぎちゃったから」

「うん、わかった」


 彼女はそう言うと、リビングに繋がった広いウォークインクローゼットの中へと消えていった。

 カチャリ、と扉が閉まる音がする。


 ……食べ過ぎたから着替える? 今から?


 ふと、あの日の風呂場での出来事が脳裏をよぎる。

 彼女は確かに言った。『あなたが望むなら、何でも見せてあげる』と。……だとしても。さすがに、着替えはあの中でするらしい。

 当たり前か。当たり前なんだけどさ。

 

 結局のところ、「見たい」と口に出せない俺にとって、その魅惑的な提案は「見られない」のと同義なんだよなあ。


 そんな情けない諦観。

 そして、あんな高カロリーなものを食べさせてしまったという罪悪感。

 それらがチクリと胸を刺すのと同時に──妙な期待感が湧き上がるのを、俺は止められなかった。


 彼女が、その扉の向こうで何に着替えて、何を始めるつもりなのか。

 いつも、予想の斜め上を行く君だから。


 そして数分後。

 彼女が戻ってきた時、俺は自分の予感にガッツポーズをするのだ。

 自分の感覚は正しかったと。


 彼女が身に纏っていたのは、黒いレギンスに、グレーのシームレスウェア。

 その薄い布地は第二の皮膚のように、彼女の身体に吸い付いている。露わになったボディライン。

 引き締まったウエストと、そこから伸びるしなやかな脚。

 ……学校での、あの堅苦しい制服姿からは想像もつかない。ちょっと前の俺たちの関係では、絶対に見る事ができなかった彼女の姿がそこにあった。

 その非現実的すぎる肢体を、その恰好は容赦なく強調していて、正直、目に毒すぎるよ。

 

 しかし、すごいな。

「食べ過ぎたから運動する」そんなストイックな台詞、ドラマやアニメの中だけの世界かと思っていたけど。

 こんなの、まるで芸能人みたいじゃないか。

 そうだった。彼女は、現役のモデルなんだった。

 

 真面目に運動しようとする彼女を、邪な目でじろじろと見る訳にもいかない。

 ……そうだ、自分もこの流れに乗ってしまえばいい。

 それが一番手っ取り早いし、健全だ。


「じゃあ、俺はちょっと勉強を始めるよ」

  そう言って、テーブルに教科書とノートを広げ始める。


「ええ、どうぞ。私はあっちを使うわね」

 

 広いリビングの一角。彼女がヨガマットの上で、ストレッチを始めた。

 動作のたびに、タイトなウェアがしなやかに形を変え、健康的な色香を振りまき俺の視線を弄ぶ。

 だ、だめだ。これじゃあ勉強に集中なんて出来やしない。

 視線が、参考書の無機質な文字よりも、隣で息づく魅惑の曲線に吸い込まれてしまう。


「……九条さん、俺、イヤホン付けてリスニングやるよ」

 

 勉強にとっての視覚的猛毒(彼女)には背を向ければいい。

 ついでに聴覚も塞いでしまえば、己の殻に閉じこもれるはずだ。

 

「集中したいから、返事できなかったらごめん」

「分かったわ。頑張ってね。邪魔しないようにする」

 

 俺はそう言うと、彼女の艶めかしい姿から逃げるように、机の壁側へと向き直った。ある意味、断腸の思いで。

 

 ノイズキャンセリングイヤホンを装着し、英語のリスニング教材を再生する。

 ふっ、と周囲の音が消え、英語の音声だけが耳に流れる。

 これで完璧。

 外界を遮断し、己の知性を磨くための時間だ。

 

 時折語られる彼女の本音を知りたい。

 でも、それだけじゃない。


 今までも、それなりに優秀な成績ではあった。けれど、念願だった聖諒学院に入ってからは特に目標もなく、ただ漫然とやってきただけだ。

 でも今は違う。

 成績でも、努力でも。彼女の隣に立っても恥ずかしくない男になりたい。堂々と肩を並べたい。


 気づけば、そう強く思うようになっていた。

 なあ蒼、勉強や生徒会活動に明け暮れていた、あの中学の頃の熱を思い出せよ。

 がむしゃらに努力していた、あの頃の俺なら。

 きっと──彼女に届く。


 それが、我が校一の才媛相手であってもだ。見てろよ。

 九条 葵。


『Next sentence……』

 教材の音声に集中しようとする。

 けれど、己の五感は本当に正直で。ノイズキャンセリングをすり抜ける微かな衣擦れの音や、床を伝わる振動が、背後の彼女の存在を強烈に主張し、またそれを勝手に拾ってしまう。


 あれだけの決意を固めたのに。なんて弱い奴だ。

 どうしても気になって、つい、チラリと振り返ってしまった。

 

 ──そこに広がっていたのは、俺が想像していた『優雅で、少しばかり蠱惑的なフィットネス』などではなかったよ。

 プランクの姿勢で固まった彼女の腕が、小刻みに痙攣している。額からは玉のような汗が滴り落ち、ヨガマットに黒い染みを作っている。


「…………っ」

 声にならない、苦悶の息遣い。

 その横顔に、いつもの余裕はない。歯を食いしばり、ただひたすらに己の限界と戦っているように見えた。

 美しい肢体? その完璧さは、あの凄まじい努力で維持されているのだと今日初めて知った。

『九条 葵』という完璧な存在の秘密は、ここにあったんだ。

 食べた分を消費する。口で言うのは簡単だけど、彼女はそれを誰も見ていないところで、こんなにもストイックに実行している。勉強もそうだった。


 釣り合わない。

 今のままの甘えた俺じゃ、絶対に釣り合わない。


 猛烈な自己嫌悪と共に、前を向き直す。

 再生ボタンを押す指に、自然と力がこもった。

 やろう。自分のためにとことん。 そしていつか、君の隣に胸を張って立つことができるようになってやる。


 その夜は、運動を終えた彼女と並んで、夜遅くまで勉強をした。

 会話はほとんどなかったけれど。静寂の中に響くペンの音だけが、今の俺たちには収まりがよかった。


 そうして翌朝。

 また、あの田園都市線の地獄のラッシュがやってくる。


「はぁ~、もう言葉にすらならないよ」

 ホームに溢れかえる人の波を見て、俺はがっくりと肩を落とす。怪我人の身には、この人口密度は凶器以外の何物でもない。愚痴の一つも言いたくなる。


「あと、二年の辛抱、ね」

「長いよ!」

 隣に立つ彼女は、クスクスと楽しそうに笑っていた。


 プシュウ、とドアが開き、俺たちは人の波に飲まれるように車内へと押し込まれた。今日も今日とて、身動きの取れないぎゅうぎゅう詰めの車内。

 四方八方から容赦なく加わる圧力。

 肋骨が悲鳴を上げそうになる、まさに圧死寸前のすし詰め状態だ。

 

 けど、この地獄のような車内で唯一の安息の地(サンクチュアリ)が、彼女との距離だったりする。


 昨日と同じように、押し付けられることで否応なく触れ合い、交じり合う体温。

 俺の腕や胸を守るように密着してくる、柔らかな存在が嬉しい。そして、周囲の雑多な汗臭さを遮断してくれる、彼女の甘く清涼な香りも。

 朝から臭いってだけで、ゲンナリするだろ?

 人生の諸先輩方には悪いけど、俺はするよ。

 

「ねえ……水無月くん」

 彼女が、吐息がかかる距離で囁く。

「さっきの続きだけど、二年経ったらどうするの? 大学にそのまま進むの?」

 

 異常な密着空間で交わすには、あまりにも個人的すぎる話題。

 俺たちの通う聖諒学院は、大学までエスカレーター式に進学できる。もちろん、外部受験をする生徒も多いけれど、それだけ人気だったりもするのだ。


「聖諒学院大? ……うーん、まだ、正直なにも決めてないんだ。九条さんは?」

「私?」

 彼女は少し考え込むように視線を伏せ、それから上目遣いで俺を見た。


「私も。……でも、水無月くんが行くところについていこうかな、なんて」

「いや、それは……」

 さらりと言われた言葉に、俺は思わず絶句する。

 ついていくって、アナタ。そんな、コンビニにでも付いてくるみたいに、軽く言わないでほしい。


 ほらきた。 今日もまた、そうやって俺を一杯驚かせて、たくさん恥ずかしい思いをさせるんだろ?

 でも、なんだろう。

 彼女は、楽しそうに笑っている。心底、幸せそうに。

 だというのに。

 その笑顔が、まるで叶わない夢物語を愛おしむかのような。

 明日には消えてしまう幻を見ているような、そんな儚さを孕んでいるように見えたから。


 近頃は、悲劇的なまでの痛々しさが少し薄れ、本心から楽しんでいるようにも見えた。だからこそ……今のこの時間が、硝子細工のように壊れそうで、俺は急に怖くなるんだ。

 身震いしそうなほど、怖くなる……。

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