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九条葵は償いたい ~その献身には理由がある~  作者: 神崎水花
第三章 あなたを追いかけて

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第41話 ぎゅうどん……で、つゆだく……

 騒々しい駅の高架を抜け、赤色の看板が輝く牛丼屋。

 その自動ドアをくぐった。


 訪れた店内には、出汁と醤油の混じり合った独特の甘辛い匂いが、あくまでほんのりと漂っている。

 うーん、これだよ、これ。

 鼻孔をくすぐるまでいかない、香り高いなんて上品なものでもない。けれど、空腹の男子高校生にとっては、どんな高級フレンチよりも食欲をそそる匂いだったりするのだ。

 

 席はほぼ満席。仕事帰りのサラリーマンや学生たちの喧騒と、食器がカチャカチャとぶつかる音に満ちている。

 そんな雑多で男臭い空間において。

 九条 葵という存在は、泥の中に咲いた蓮の花か。あるいは場違いな光を放つ氷の彫像のようでさえある。

 完全なる異質。牛丼屋にあるべきモノじゃない。

 浮いている。圧倒的に浮いている。


 そして案の定。

 入口付近に鎮座する、最新式のタッチパネル券売機の前で、彼女はピタリと足を止めた。


「あの、これ……どうすればいいの?」

 

 九条さんが、再び未知に遭遇したような困惑顔で、助けを求めてくる。

 ふふん、任せなさい。ここは俺たちにとっての楽園、謂わばホームグラウンドのようなものだ。

 俺は慣れた手つきで、彼女の前に立ちはだかる。


「最近こういう店増えたからね。まずはここで食券を買うんだよ」

 俺は一切の迷いなく画面をタップし、流れるような必殺の指さばきでオーダーを済ませていく。

「俺は牛丼大盛りのつゆだく。……あとで紅ショウガを山盛りに乗せて完成かな」


 手際よく自分の分を発券し、振り返る。

「さて、九条さんはどうする? 知らないメニューばかりで決められないでしょ」


 彼女は、目まぐるしく変化する画面の文字と、現れては消える、それはもう脂の乗った肉の写真の数々に視線を泳がせ、ふるふると小さく首を振った。


「な、なにがおすすめなの? ……私も、水無月くんと同じにしたほうがいい?」


 上擦った声で尋ねる彼女に、俺は一応、自分の好みを勧めてみる。

 あくまで、一応ね。

「そりゃ、やっぱり王道の牛丼だよ。ここ、牛丼屋だもん。おすすめはつゆだくだけどね」

「ぎゅ、ぎゅうどんで……つゆだく……」


 彼女が小さく呻く。

 その響きには、モデルとして積み上げてきた節制の努力が、ガラガラと音を立てて崩れ去るような、絶望的なニュアンスが含まれていた。

 あとは、『つゆだく』という謎の呪文への恐怖も。

 

 ……だよね。これ絶対禁忌食だよね。

 その葛藤を見て取り、俺はすぐに妥協案を提示してあげることにした。

 俺って優しい。


「でも、九条さんは『ねぎ玉牛丼』とかの方がいいんじゃない?」

「え?」

「ほら、ネギは野菜だし。気持ちだけでもヘルシーなほうが」

 俺は『野菜』という免罪符に、少しだけ力を込めて囁く。

 すると、彼女の瞳に希望の光が宿った。


「そ、そうね! ネギは野菜だものね! ……うっ。でも結局、ぎゅうどん……」

 彼女はやっぱり小さくうめくと、「でも」と言いかけるように唇を噛んだ。

 そして、とうとう観念した。


 俺といると、あの『絶対九条防壁』が本当に仕事をしないな。


「じゃあ、それにするわ! 食べたあとで、運動頑張るもの……」

 悲壮な決意と共に、彼女の細い指が『発券』ボタンを押す。


『ねぎ玉牛丼、並盛。ご注文ありがとうございます』

 キッチンへオーダーを通す、明るすぎる機械音声。

 彼女の肩がビクッと跳ね上がり、まるで犯罪の証拠を突きつけられたかのように、顔を真っ赤にしてうつむいている。

 

 九条さんには申し訳ないけど、この非日常感がたまらなく楽しい。

 その姿を見て、俺は心の中で小さく笑いながら、出てきた二枚の食券を回収し、二人並んでU字型のカウンター席へと腰を下ろす。


 席に着いて食券を出し、水を一口飲む。

 本当に、それだけの時間だった。

 知る人ぞ知る、この神速のオペレーションよ。


「お待たせしましたー。牛丼大盛りつゆだくと、ねぎ玉牛丼ですね。ご注文は以上でしょうか?」

「はい、どうも」

 勢いよくカウンターに二つの丼が置かれる。


「ええっ、もう!? ちょっと早すぎない?」

 彼女は、あまりのスピードに目を丸くしている。

 湯呑みに手を付ける間もなかったみたいだ。


「いや、これが普通なんだよ。牛丼は時間との勝負だからね」

「じ、時間との勝負!? ちょっと意味が……」


 彼女は、本気で怯えたように周囲をきょろきょろと見回した。

「一体、何と争ってる、の……」


 ……だめだ、通じてない。

『つゆだく』も『時間との勝負』も、彼女にとっては食事の際に使う言葉ではないのだろう。

 

 それから、彼女は初めて目の前に置かれた『己の天敵』を、恐る恐る覗き込んでいる。

 それは、茶色い肉とご飯の塊の上に、卵黄と、申し訳程度の緑色のネギが乗った丼だった。


 そう、ネギが乗ったとして、所詮は牛丼なのである。


「…………」

 数秒の沈黙の後。

 彼女の少し潤んだ瞳が、俺をじっとりと責めるように見つめた。

 

「……水無月くんの、嘘つき」

「えっ」

「野菜が、全然ないの。私が想像していたのと違うわ。お皿に、彩り豊かなサラダの欠片もないもの」


「え、あるじゃん」

「どこ?」

 俺は、すかさず自分の丼に紅ショウガをどっさり乗せながら、彼女の丼を指差す。


「ほら、ネギが一杯あるだろ?」

「こ、このネギは薬味でしょう……?」

 彼女の、理屈が通用しないと知った上での、か細い抗議の声。さっき「ネギは野菜」と自分で認めてしまった手前、強くは否定できないのか。

 あるいは彼女の中での、ネギ違いだったのか。


「いいや、緑色だから野菜だよ」

「あう……」

 完全に理論武装を解除された九条さんは、諦めたように小さく唸った。唸るしかなかった。

 彼女は覚悟を決めたように割り箸を割ると、両手を合わせる。


「……いただきます」


 俺もそれに続き、勢いよく丼を持ち上げると、勢いのまま肉と米をかきこむ。久しぶりのジャンクフード、我慢なんて出来る訳がない。甘辛いタレと脂の旨味が、脳髄を直撃する。美味い!


 対して九条さんは、箸で一筋の肉と米を丁寧に挟んでは、口元へと丁寧に運ぶ。

 音を立てず、咀嚼も優雅に。

 ……うわぁ、おっそ。


 元来お上品な彼女は、食事を『かきこむ』という行為とは無縁なのかも。

 殺伐としたこのカウンター席という激戦区で、九条 葵だけはまるでフレンチのテーブルにいるかのように、一口一口、ゆっくりと食べ進めていく。

 美しくも、この場においてはあまりに異質な客と化していた。

 そして、回転率的な意味ではちょっぴり迷惑な客、といったところか。

 

 俺がつゆだくの大盛りを平らげ、口元を紙ナプキンで拭く頃になっても、彼女の丼はまだ半分にも満たないのだから。


 手持ち無沙汰になった俺は、こっそり隣の彼女を眺めることにした。

 彼女が優雅に、けれど一生懸命に、庶民の味を頬張っている横顔は、いつまで見ていても飽きない。

 このシュールで愛おしい光景を独占できるなら、待ち時間も悪くない。むしろ、ご褒美タイムだ。


「ふう、ごちそうさま! あー久しぶりに食べたよ、美味しかったぁ」

 店を出て、夜の街へ。

 俺は満腹感と眼福感から、思わず長く息を吐き出す。


「ふふ、よかったね水無月くん」

 彼女は、口元を小さくハンカチで拭いながら、優しく微笑む。完食するのに俺の三倍の時間はかかったけれど、満足そうではある。


「うん、また行こうね、九条さん」

 俺が屈託なくそう誘うと、彼女の完璧な笑顔が一瞬だけ曇る。


「う、うん。 また、今度ね」


 その言葉にはダイエットの神様と、俺への好意が激しく戦った末の、悲壮な響きが混じっていたような。

 そしてきっと、明日以降の彼女の作る食卓が、更に野菜まみれになる未来も垣間見えた気がした。


 俺は、彼女のそんな複雑な乙女心に気づかないふりをして、心地よい夜風に吹かれながら、二人並んで、彼女の部屋へと歩き出す。

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