第41話 ぎゅうどん……で、つゆだく……
騒々しい駅の高架を抜け、赤色の看板が輝く牛丼屋。
その自動ドアをくぐった。
訪れた店内には、出汁と醤油の混じり合った独特の甘辛い匂いが、あくまでほんのりと漂っている。
うーん、これだよ、これ。
鼻孔をくすぐるまでいかない、香り高いなんて上品なものでもない。けれど、空腹の男子高校生にとっては、どんな高級フレンチよりも食欲をそそる匂いだったりするのだ。
席はほぼ満席。仕事帰りのサラリーマンや学生たちの喧騒と、食器がカチャカチャとぶつかる音に満ちている。
そんな雑多で男臭い空間において。
九条 葵という存在は、泥の中に咲いた蓮の花か。あるいは場違いな光を放つ氷の彫像のようでさえある。
完全なる異質。牛丼屋にあるべきモノじゃない。
浮いている。圧倒的に浮いている。
そして案の定。
入口付近に鎮座する、最新式のタッチパネル券売機の前で、彼女はピタリと足を止めた。
「あの、これ……どうすればいいの?」
九条さんが、再び未知に遭遇したような困惑顔で、助けを求めてくる。
ふふん、任せなさい。ここは俺たちにとっての楽園、謂わばホームグラウンドのようなものだ。
俺は慣れた手つきで、彼女の前に立ちはだかる。
「最近こういう店増えたからね。まずはここで食券を買うんだよ」
俺は一切の迷いなく画面をタップし、流れるような必殺の指さばきでオーダーを済ませていく。
「俺は牛丼大盛りのつゆだく。……あとで紅ショウガを山盛りに乗せて完成かな」
手際よく自分の分を発券し、振り返る。
「さて、九条さんはどうする? 知らないメニューばかりで決められないでしょ」
彼女は、目まぐるしく変化する画面の文字と、現れては消える、それはもう脂の乗った肉の写真の数々に視線を泳がせ、ふるふると小さく首を振った。
「な、なにがおすすめなの? ……私も、水無月くんと同じにしたほうがいい?」
上擦った声で尋ねる彼女に、俺は一応、自分の好みを勧めてみる。
あくまで、一応ね。
「そりゃ、やっぱり王道の牛丼だよ。ここ、牛丼屋だもん。おすすめはつゆだくだけどね」
「ぎゅ、ぎゅうどんで……つゆだく……」
彼女が小さく呻く。
その響きには、モデルとして積み上げてきた節制の努力が、ガラガラと音を立てて崩れ去るような、絶望的なニュアンスが含まれていた。
あとは、『つゆだく』という謎の呪文への恐怖も。
……だよね。これ絶対禁忌食だよね。
その葛藤を見て取り、俺はすぐに妥協案を提示してあげることにした。
俺って優しい。
「でも、九条さんは『ねぎ玉牛丼』とかの方がいいんじゃない?」
「え?」
「ほら、ネギは野菜だし。気持ちだけでもヘルシーなほうが」
俺は『野菜』という免罪符に、少しだけ力を込めて囁く。
すると、彼女の瞳に希望の光が宿った。
「そ、そうね! ネギは野菜だものね! ……うっ。でも結局、ぎゅうどん……」
彼女はやっぱり小さくうめくと、「でも」と言いかけるように唇を噛んだ。
そして、とうとう観念した。
俺といると、あの『絶対九条防壁』が本当に仕事をしないな。
「じゃあ、それにするわ! 食べたあとで、運動頑張るもの……」
悲壮な決意と共に、彼女の細い指が『発券』ボタンを押す。
『ねぎ玉牛丼、並盛。ご注文ありがとうございます』
キッチンへオーダーを通す、明るすぎる機械音声。
彼女の肩がビクッと跳ね上がり、まるで犯罪の証拠を突きつけられたかのように、顔を真っ赤にしてうつむいている。
九条さんには申し訳ないけど、この非日常感がたまらなく楽しい。
その姿を見て、俺は心の中で小さく笑いながら、出てきた二枚の食券を回収し、二人並んでU字型のカウンター席へと腰を下ろす。
席に着いて食券を出し、水を一口飲む。
本当に、それだけの時間だった。
知る人ぞ知る、この神速のオペレーションよ。
「お待たせしましたー。牛丼大盛りつゆだくと、ねぎ玉牛丼ですね。ご注文は以上でしょうか?」
「はい、どうも」
勢いよくカウンターに二つの丼が置かれる。
「ええっ、もう!? ちょっと早すぎない?」
彼女は、あまりのスピードに目を丸くしている。
湯呑みに手を付ける間もなかったみたいだ。
「いや、これが普通なんだよ。牛丼は時間との勝負だからね」
「じ、時間との勝負!? ちょっと意味が……」
彼女は、本気で怯えたように周囲をきょろきょろと見回した。
「一体、何と争ってる、の……」
……だめだ、通じてない。
『つゆだく』も『時間との勝負』も、彼女にとっては食事の際に使う言葉ではないのだろう。
それから、彼女は初めて目の前に置かれた『己の天敵』を、恐る恐る覗き込んでいる。
それは、茶色い肉とご飯の塊の上に、卵黄と、申し訳程度の緑色のネギが乗った丼だった。
そう、ネギが乗ったとして、所詮は牛丼なのである。
「…………」
数秒の沈黙の後。
彼女の少し潤んだ瞳が、俺をじっとりと責めるように見つめた。
「……水無月くんの、嘘つき」
「えっ」
「野菜が、全然ないの。私が想像していたのと違うわ。お皿に、彩り豊かなサラダの欠片もないもの」
「え、あるじゃん」
「どこ?」
俺は、すかさず自分の丼に紅ショウガをどっさり乗せながら、彼女の丼を指差す。
「ほら、ネギが一杯あるだろ?」
「こ、このネギは薬味でしょう……?」
彼女の、理屈が通用しないと知った上での、か細い抗議の声。さっき「ネギは野菜」と自分で認めてしまった手前、強くは否定できないのか。
あるいは彼女の中での、ネギ違いだったのか。
「いいや、緑色だから野菜だよ」
「あう……」
完全に理論武装を解除された九条さんは、諦めたように小さく唸った。唸るしかなかった。
彼女は覚悟を決めたように割り箸を割ると、両手を合わせる。
「……いただきます」
俺もそれに続き、勢いよく丼を持ち上げると、勢いのまま肉と米をかきこむ。久しぶりのジャンクフード、我慢なんて出来る訳がない。甘辛いタレと脂の旨味が、脳髄を直撃する。美味い!
対して九条さんは、箸で一筋の肉と米を丁寧に挟んでは、口元へと丁寧に運ぶ。
音を立てず、咀嚼も優雅に。
……うわぁ、おっそ。
元来お上品な彼女は、食事を『かきこむ』という行為とは無縁なのかも。
殺伐としたこのカウンター席という激戦区で、九条 葵だけはまるでフレンチのテーブルにいるかのように、一口一口、ゆっくりと食べ進めていく。
美しくも、この場においてはあまりに異質な客と化していた。
そして、回転率的な意味ではちょっぴり迷惑な客、といったところか。
俺がつゆだくの大盛りを平らげ、口元を紙ナプキンで拭く頃になっても、彼女の丼はまだ半分にも満たないのだから。
手持ち無沙汰になった俺は、こっそり隣の彼女を眺めることにした。
彼女が優雅に、けれど一生懸命に、庶民の味を頬張っている横顔は、いつまで見ていても飽きない。
このシュールで愛おしい光景を独占できるなら、待ち時間も悪くない。むしろ、ご褒美タイムだ。
「ふう、ごちそうさま! あー久しぶりに食べたよ、美味しかったぁ」
店を出て、夜の街へ。
俺は満腹感と眼福感から、思わず長く息を吐き出す。
「ふふ、よかったね水無月くん」
彼女は、口元を小さくハンカチで拭いながら、優しく微笑む。完食するのに俺の三倍の時間はかかったけれど、満足そうではある。
「うん、また行こうね、九条さん」
俺が屈託なくそう誘うと、彼女の完璧な笑顔が一瞬だけ曇る。
「う、うん。 また、今度ね」
その言葉にはダイエットの神様と、俺への好意が激しく戦った末の、悲壮な響きが混じっていたような。
そしてきっと、明日以降の彼女の作る食卓が、更に野菜まみれになる未来も垣間見えた気がした。
俺は、彼女のそんな複雑な乙女心に気づかないふりをして、心地よい夜風に吹かれながら、二人並んで、彼女の部屋へと歩き出す。




