第40話 職業的倫理 対 恋心
「ごめん、結構寝ちゃったかな?」
「ううん、気にしないで」
「これ、上着ありがとう。九条さん寒くなかった? 風邪ひかなければいいけど」
肩から滑り落ちそうなブレザーを拾い上げ、付いた芝を払ってから彼女へと手渡す。感謝の想いを込めて。
厚めの布地には、俺の体温の温もりがまだ生々しく残っていて、それをそのまま彼女に返すことに、なんだか少しだけ照れくささを覚える。
「ありがとう」
彼女はそれを受け取ると、月明かりの下、優雅な弧を描くような動作で袖を通した。
ファサッ、と。
夜風に煽られ、ブレザーの裾が蝶の羽のように翻る。
そのまま襟元に手をやると、内側に入り込んだ長い黒髪を、ふわりと指先で掬い出した。
露わになった白いうなじが、黒髪と夜闇のコントラストで艶めいて見える。
それから、その細い指がボタンに向けられた時。
余裕のあるはずだった上着が、彼女の胸の膨らみに押し上げられ、一瞬だけ窮屈そうに生地が張り詰めた。
その何気ない仕草に合わせて、夜の冷気の中に、彼女の甘い香りと俺の体温の余韻が、微かに混じり合っては漂う。
参ったな。ただ上着を着る、それだけの動作だというのに。
君の所作はいちいちが綺麗すぎて。本当に絵になる。
「……行きましょうか」
「ああ、帰ろう」
二人は揃って、土手の草地を後にする。
まだ灯る『Cafe Nine Flow』の温かな明かりを横目に通り過ぎ、レンガ造りの玉川陸閘を抜けて、街へと戻る。
背中には、川面を渡る夜風と静寂。
前方には、駅周辺の煌びやかな街明かりと雑踏。そして隣には、冷たい夜気に溶け込まない、確かな君の温もりがあって。
まるで、夢のような時間から、現実の続きへと足を踏み入れていくみたいに。
陸閘をくぐった先に広がるのは、駅前の洗練された巨大なビル群たち。
喧騒は落ち着いているものの、行き交う人々や無数のショーウィンドウの輝きが、ここが東京であることを否応なく主張している。
目に映る現実が、そこにあった。
そんな光の中を抜け、人通りの少ない路地へと足を踏み入れた時、隣を歩く彼女が急に足を止めた。
「どうしたの?」
「うん……もう、いいかなって」
彼女は周囲をくるりと見回す。
大通りから一本入ったこの道は比較的静かで、ましてや聖諒学院の生徒など見当たらない。
それを確認すると、彼女は顔に掛けていた黒縁眼鏡に手を添え、スッ、と迷いなく外した。
露わになる、夜の闇の中でも吸い込まれそうなほど輝く、宝石のような瞳。
眼鏡という名のフィルターが、一枚外れただけ。たったそれだけなのに、その美貌の破壊力が桁違いに跳ね上がる。
「暗い道だと、やっぱり少し見えにくくて」
彼女は眼鏡を丁寧に畳んで鞄にしまうと、悪戯っぽく俺を見上げた。
「それに……水無月くんの顔、ちゃんと見て歩きたいしね」
「っ……」
なんたる不意打ち。
街灯に照らされたその素顔は、学校での『高嶺の花』とも、さっきまでの『変装した九条 葵』とも違う。俺にだけ向けられる、無防備で甘やかな『ただの葵』の顔。
──立葵。
花言葉は確か、『気高く威厳に満ちた美』だったか。
うちの男子生徒ならたぶん、みな一度は検索したことがあるはず。「葵」という名の秘密を。もちろん、俺も含めて。……うん。
葵。
いつか、その名を呼んでいい日が、俺にも来るのだろうか。
そんな、ありもしない未来を一瞬夢見てしまうほど、今夜の彼女は綺麗で温かすぎたんだ。
その眩しい素顔をまともに見られず、俺は照れ隠しのように、わざと話題を変える。
「それにしても……よく寝たな。すっかり夜じゃないか」
「一時間と少しくらいね。起こすのがもったいないくらい気持ち良さそうだったから」
「う……出来たら、その感想は、胸の中にしまっておいて」
俺の狼狽ぶりに、彼女はくすりと笑う。
「まぁ、ふふ。 ごめんなさい」
その甘い笑みに、俺の照れくささは治まるどころか、ますます熱を帯びていった。
恥ずかしさでどうやら、また顔が熱い。
最近はいつもこうだ。
そんな他愛ない会話を交わしながら、揃いのスマホで時間を確認する。
時刻はまもなく二十時というところ。
「ごめん九条さん。こんな時間になっちゃって」
「ううん、気にしないで。……でも、お腹空いたわね」
「確かに。今から帰って作るのも大変だし……なんか食べて帰らない?」
俺の提案に、彼女は「賛成」とばかりに頷いた。何だか楽しそうですらある。
「そうね。水無月くん、何か食べたいものはある?」
「え、俺のリクエストでいいの?」
「もちろん。好きなものを言って」
君が、あまりに優しく微笑むから。
その人ならざる……いや、まるで聖女のような慈愛に満ちた笑顔を見て、俺はつい、心の奥底に封印していた本音を零してしまう。
それを聞いて、俺の脳裏に真っ先に浮かんだのは……お洒落なイタリアンでも、気の利いた和食でもなくて。ここ数日、薄味の病院食と健康的な手料理の反動で、身体が猛烈に渇望していた『茶色い暴力』だったのです。
ああ、本当にごめんなさい、聖女様。
俺は一ミリの迷いもなく、即答してしまったよ。
つい、その優しさに甘えてしまったんだ。
「牛丼が食べたい!」
「…………え?」
それを聞いた時の、彼女の完璧に保たれていた笑顔が、ピクリと静かに引きつる瞬間は、見ものだったよ。
「ぎゅ、ぎゅうどん……?」
「そう、牛丼。つゆだくで、紅ショウガを山盛りに乗せて食べるのが美味しいんだ」
彼女相手に、思わず熱弁を振るってしまう。
聞いた本人は困惑したように瞬きを繰り返すばかり。その表情は、まるで未知の文明に遭遇したかのような、あるいは聞いてはいけない禁断の呪文を聞いてしまったかのような。
あの鉄壁の『九条 葵』が、ゲーム以外で初めて見せた、明らかな動揺だった。
「あの、赤色の看板の……お店?」
「そうそう。安くて早くて美味い、日本のソウルフードさ」
「私、入ったことないの……」
「え、本当に!? ……あー、まあ、そうだよな」
言われてみれば確かにそうだ。
時折見せる、どこか浮世離れした感じから察するに、彼女はどこかのお嬢様なのだろう。そして何より、現役のモデルでもある。
高カロリーで、高脂質、そして炭水化物の塊である牛丼。
美容と体型維持を至上命題とする彼女たちにとって、それは天敵のような食べ物のはず。まさに職業的禁忌!
いいね、禁忌。
そう聞くと、余計に食べさせたくなってくる。
とはいえだよ。サラリーマンと学生がひしめくカウンター席で、彼女が丼飯をかっこむ姿なんて想像できないし、何だかさせてはいけない気がしてくる。
これは完全にこちらの選択ミスだね。
というか、欲望を漏らしすぎた。
これでは、ただの健太じゃないか。
「ごめん、やっぱりやめよう。レストランとかに……」
「ううん、行くわ!」
「え?」
「水無月くんが食べたいなら、そこに行きましょう。……私も、興味があるし」
その声に、もう迷いのカケラはなかった。
なんてカッコいいんだ、九条 葵。
「いっとくけど、カロリーと脂質が凄いよ? 並盛一杯で800キロカロリー近いからね?」
本当に食べさせて良いのか悩む俺は、急ぎ前言を撤回させるべく、あえて具体的な数値で揺さぶりをかける。
そんな俺の余計な一言を聞いた途端、彼女の鉄の決意はグラリと揺らいだ。
美しい瞳の奥に、再びの迷いと恐怖の光が宿る。
「うっ……」
彼女は小さくうめくと、「でも」と言いかけるように唇を噛んだ。だけど、すぐに観念したように、悲壮な表情でこう続けた。
「大丈夫。あとで運動……頑張るから……!」
その健気な決意を聞いて、俺の胸にある予感が走る。
やばいな、俺。九条さんを苛めるの……好きかもしれない。
その完璧すぎる姿を崩したいという、悪魔のような衝動。
彼女のストイックな矜持を、俺のためなら簡単に曲げてしまう、その危うさに魅了されている。
そして、その脆い部分を、もっと見たいと願っている自分がいた。




