表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
九条葵は償いたい ~その献身には理由がある~  作者: 神崎水花
第三章 あなたを追いかけて

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

39/58

第39話 薄明─HAKUMEI─

 しばしの沈黙。

 オーナーであり店長でもある八雲さんが何を考えているのか、その表情から真意を読み取ることはできない。

 緊張で固まる俺の頭上で、八雲さんがフッ、と息を吐くように笑みを漏らした。


「分かったよ、水無月くん。君がそこまで言うなら、もう何も言わない」

「ありがとうございます」

 安堵の息を吐き、頭を下げる。

 分かってもらえてよかったと、心からそう思った。

「君の男気は、確かに受け取った。……だが、九条さん」


 八雲さんは片目を瞑り、優雅に笑う。

 それは俺ではなく彼女に向けた、明らかに誘うような目だった。


「いつでも連絡を待っている。……なんだったら、蒼くんの倍の時給を出してもいいくらいだよ。君のような華のある子がホールに立つなら、安いものだからね」


「ば、倍ですか!? 店長、それは聞き捨てなりませんよ!」

 俺が抗議の声を上げる前に、八雲さんは爽やかに付け加えた。


「ははは、冗談だよ、冗談。……ま、仕事の話はさておき。いつでもウェルカムだ。気が向いたら、客としてでも遊びにおいで。最高の珈琲をごちそうするよ」

 

「……ふふ、ありがとうございます。考えておきますね」


 九条さんも心得たように、優雅な微笑みで返している。

 なんなんだ、このイケオジと美人の洗練されたスマートな会話は。

 俺が連れてきたはずなのに。まるで、スクリーンの中の出来事を端っこで見せられているような、この猛烈な疎外感よ……。

 

 カラン、とベルを鳴らして店を出る。

 肌を撫でる空気が、少しだけひんやりとしていた。


 日はすでに西の地平線に沈みかけていたけれど、空にはまだ、今日という日を惜しむような茜色が滲んでいる。

 頭上から降りてくる濃い藍色と、地平線際で燃えるようなオレンジ。

 まるで二つの色が溶け合うように一つになっていく。世界が最も美しく、そして曖昧になる数分間。

 夜の帳が下りきる直前の、それは美しい薄明の空。


 頼りない街灯と、家々の窓から漏れる暖かな明かりが、薄暮に沈む道を優しく照らし始めている。

 その光と影のコントラストが、隣を歩く彼女の横顔をより一層、幻想的に縁取っていた。


「…………」

「…………」


 彼女の家がある再開発エリアへ戻るなら、ここを右に向かわねばならない。けれど、俺たちは示し合わせたように、反対方向──多摩川の堤防の方へと足を向けた。


 先ほどの約束もあったから。

 ……いや、それはただの口実か。

 本当は、なんとなく、まだ帰りたくなかった。言葉にはしないけれど、この美しい黄昏の空気に、もう少しだけ二人で浸っていたいという想いが、重なったからだと思う。


 土手の草の上に、二人並んで腰を下ろす。

 川面を渡る風が、少し火照った頬を寂し気に撫でていく。

 その冷たさが、なんだか寂しくて、けれど心地いい。

 

 遠くに見える鉄橋を渡る電車のライト。

 川面は残照を映して鈍く光り、対岸にはポツポツと街明かりが灯り始めている。


 昼間の喧騒が遠のき、夜の静寂が訪れるまでの、ほんの短い隙間時間。

 世界に二人きり取り残されたような、不思議な静けさがそこにあったんだ。


「……あのね、水無月くん」


 彼女が膝を抱えたまま、川面を見つめてぽつりと口を開く。その横顔は、夕闇に溶けてしまいそうなほど、儚げで切ない。


「私、本当はちょっとだけ、やってみたかったな」

「え? 何を?」

「カフェの、アルバイトよ」


 彼女はそこで言葉を切ると、膝に顔を埋めるようにして、恥ずかしそうに告げた。


「……水無月くんと一緒に、働いてみたかったの」


 その言葉に、俺は驚いて横顔を見やる。

 彼女は、対岸の街明かりを瞳に映したまま、少し寂しげに笑っていた。


「無理だよ。九条さんには、モデルの仕事があるだろ?」


 俺は、諭すように言う。

 それが彼女のためを思う、自分の役目だと勝手に信じて。


「華やかな世界が待っている君が、俺と一緒に珈琲を運んだり、油まみれの皿を洗ったりなんて……。そんな時間も、暇もないだろうに」


「……そうね。そう、なんだけど」


 彼女はそれ以上何も言わず、言葉を飲み込むように小さく頷いた。

 そして、俺の隣に、ぴたりと寄り添うように座り直す。


 ──考えてみれば、おかしな話だ。

 あの事故の日から、彼女はずっと俺のそばにいてくれている。

 本来なら多忙を極めるはずの『九条 葵』が、こうして俺の世話を焼き、悠長に夕涼みまでしていること自体が、奇跡みたいなものだと。

 たぶん、俺と一緒に暮らす間、意図的にモデルの仕事を抑えてくれているんじゃないか。そう思えてならない。


 そうまでして、俺の日常に合わせてくれている九条さん。

 けれど、だからこそ思う。

 彼女がエプロンをつけて、俺の隣で「いらっしゃいませ」と笑う……そんな日常の光景は、きっと夢のまた夢なんだろうな、と。


 触れ合った肩や腿から、彼女の体温がじんわりと伝わってくる。

 夜風はまだ少し冷たいけれど、彼女と触れている部分だけが、まるで熱を帯びたカイロを当てたみたいに、ぽかぽかと温かい。

 その柔らかで優しいぬくもりが、俺の強張った心と体を、内側からゆっくりと解いていく。


 ……ああ、ダメだ。

 この温もりは、心地よすぎる。


 昨晩の眠れない興奮と、今日の学校での緊張。そしてバイト先での安堵

 ずっとギリギリで張り詰めていた糸が、彼女の体温に触れたことによって、ぷつりと切れてしまったみたいに。

 抗いがたい、泥のような睡魔が押し寄せてくる。

 このまま、彼女の匂いと温もりに包まれて、意識を手放してしまいたい……。

 なぁ、九条さん。

 ……ちょっとだけ、ダメ、かな?

 

「ごめん……九条さん」

 重くなる瞼をこすりながら、俺は寝言のように呟いた。

 この温もりに、彼女に、少し甘えてみたかったのかもしれない。


「なんだか、君が暖かくて……急に、眠気が……」


「ふふ。大丈夫よ」


 耳元で、鈴が鳴るようなとても優しい声がした。

 同時に、俺の頭がそっと引き寄せられ、何か信じられないほど柔らかいものに預けられる感覚。


「少し、おやすみなさい。……私が起こしてあげるから」

「うん……ごめん、ちょっとだけ……」


 自我が、砂糖菓子のように溶けていく。この世から消えて無くなってしまうように。

 彼女の甘い匂いと、絶対的な安心感に身を委ね、俺は抗うことなく深い眠りの淵へと落ちていった。深い深い何処かへと。


「Good night, Sou-kun. I'll never forget how you slept on my lap.(おやすみなさい、蒼くん。私の膝で眠ってくれたこと、一生忘れないから)」

 意識が闇へ落ちる寸前。

 愛おしむような囁きが聞こえた気がしたけれど、その意味を考える前に、俺は夢の中へ旅立っていた。


 ◇

 

 ……寒い。

 肌を刺す冷気で、意識が急速に浮上し始める。

 夜の河川敷は、昼間の暖かさが嘘のように冷え込んでいた。


 俺は、ブルリと身震いして、重いまぶたを薄く開ける。

 ──視界いっぱいに広がっていたのは、星空では、なかった。

 

 夜空を背景に、俺を覗き込む、九条 葵の逆さまのとても綺麗な顔。

 そして、その下にある柔らかそうな、とんでもない角度から迫る、魅惑の膨らみだった。

 薄いブラウス越しに、重力に逆らうその形が、月明かりで陰影を帯びて、はっきりと見て取れる。


「……え?」


 状況が飲み込めない。

 頭の下に感じる、極上の弾力と温もり。

 見上げれば、逆さまになった彼女が、聖母のような慈愛に満ちた瞳で、じっと俺を見下ろしている。

 ふと、自分の体を見る。

 そこには、彼女が着ていたはずのブレザーが、掛け布団のように優しく掛けられていた。

 ああ、どうりで。とても良い香りがするわけだよ。


 彼女は今、ブラウス一枚で寒空の下、俺に上着を貸して……。

 この頭の感触。このアングル。


 これ、もしかして。

 膝枕、されてるのか……!? 嘘ぉ!?

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ