第39話 薄明─HAKUMEI─
しばしの沈黙。
オーナーであり店長でもある八雲さんが何を考えているのか、その表情から真意を読み取ることはできない。
緊張で固まる俺の頭上で、八雲さんがフッ、と息を吐くように笑みを漏らした。
「分かったよ、水無月くん。君がそこまで言うなら、もう何も言わない」
「ありがとうございます」
安堵の息を吐き、頭を下げる。
分かってもらえてよかったと、心からそう思った。
「君の男気は、確かに受け取った。……だが、九条さん」
八雲さんは片目を瞑り、優雅に笑う。
それは俺ではなく彼女に向けた、明らかに誘うような目だった。
「いつでも連絡を待っている。……なんだったら、蒼くんの倍の時給を出してもいいくらいだよ。君のような華のある子がホールに立つなら、安いものだからね」
「ば、倍ですか!? 店長、それは聞き捨てなりませんよ!」
俺が抗議の声を上げる前に、八雲さんは爽やかに付け加えた。
「ははは、冗談だよ、冗談。……ま、仕事の話はさておき。いつでもウェルカムだ。気が向いたら、客としてでも遊びにおいで。最高の珈琲をごちそうするよ」
「……ふふ、ありがとうございます。考えておきますね」
九条さんも心得たように、優雅な微笑みで返している。
なんなんだ、このイケオジと美人の洗練されたスマートな会話は。
俺が連れてきたはずなのに。まるで、スクリーンの中の出来事を端っこで見せられているような、この猛烈な疎外感よ……。
カラン、とベルを鳴らして店を出る。
肌を撫でる空気が、少しだけひんやりとしていた。
日はすでに西の地平線に沈みかけていたけれど、空にはまだ、今日という日を惜しむような茜色が滲んでいる。
頭上から降りてくる濃い藍色と、地平線際で燃えるようなオレンジ。
まるで二つの色が溶け合うように一つになっていく。世界が最も美しく、そして曖昧になる数分間。
夜の帳が下りきる直前の、それは美しい薄明の空。
頼りない街灯と、家々の窓から漏れる暖かな明かりが、薄暮に沈む道を優しく照らし始めている。
その光と影のコントラストが、隣を歩く彼女の横顔をより一層、幻想的に縁取っていた。
「…………」
「…………」
彼女の家がある再開発エリアへ戻るなら、ここを右に向かわねばならない。けれど、俺たちは示し合わせたように、反対方向──多摩川の堤防の方へと足を向けた。
先ほどの約束もあったから。
……いや、それはただの口実か。
本当は、なんとなく、まだ帰りたくなかった。言葉にはしないけれど、この美しい黄昏の空気に、もう少しだけ二人で浸っていたいという想いが、重なったからだと思う。
土手の草の上に、二人並んで腰を下ろす。
川面を渡る風が、少し火照った頬を寂し気に撫でていく。
その冷たさが、なんだか寂しくて、けれど心地いい。
遠くに見える鉄橋を渡る電車のライト。
川面は残照を映して鈍く光り、対岸にはポツポツと街明かりが灯り始めている。
昼間の喧騒が遠のき、夜の静寂が訪れるまでの、ほんの短い隙間時間。
世界に二人きり取り残されたような、不思議な静けさがそこにあったんだ。
「……あのね、水無月くん」
彼女が膝を抱えたまま、川面を見つめてぽつりと口を開く。その横顔は、夕闇に溶けてしまいそうなほど、儚げで切ない。
「私、本当はちょっとだけ、やってみたかったな」
「え? 何を?」
「カフェの、アルバイトよ」
彼女はそこで言葉を切ると、膝に顔を埋めるようにして、恥ずかしそうに告げた。
「……水無月くんと一緒に、働いてみたかったの」
その言葉に、俺は驚いて横顔を見やる。
彼女は、対岸の街明かりを瞳に映したまま、少し寂しげに笑っていた。
「無理だよ。九条さんには、モデルの仕事があるだろ?」
俺は、諭すように言う。
それが彼女のためを思う、自分の役目だと勝手に信じて。
「華やかな世界が待っている君が、俺と一緒に珈琲を運んだり、油まみれの皿を洗ったりなんて……。そんな時間も、暇もないだろうに」
「……そうね。そう、なんだけど」
彼女はそれ以上何も言わず、言葉を飲み込むように小さく頷いた。
そして、俺の隣に、ぴたりと寄り添うように座り直す。
──考えてみれば、おかしな話だ。
あの事故の日から、彼女はずっと俺のそばにいてくれている。
本来なら多忙を極めるはずの『九条 葵』が、こうして俺の世話を焼き、悠長に夕涼みまでしていること自体が、奇跡みたいなものだと。
たぶん、俺と一緒に暮らす間、意図的にモデルの仕事を抑えてくれているんじゃないか。そう思えてならない。
そうまでして、俺の日常に合わせてくれている九条さん。
けれど、だからこそ思う。
彼女がエプロンをつけて、俺の隣で「いらっしゃいませ」と笑う……そんな日常の光景は、きっと夢のまた夢なんだろうな、と。
触れ合った肩や腿から、彼女の体温がじんわりと伝わってくる。
夜風はまだ少し冷たいけれど、彼女と触れている部分だけが、まるで熱を帯びたカイロを当てたみたいに、ぽかぽかと温かい。
その柔らかで優しいぬくもりが、俺の強張った心と体を、内側からゆっくりと解いていく。
……ああ、ダメだ。
この温もりは、心地よすぎる。
昨晩の眠れない興奮と、今日の学校での緊張。そしてバイト先での安堵
ずっとギリギリで張り詰めていた糸が、彼女の体温に触れたことによって、ぷつりと切れてしまったみたいに。
抗いがたい、泥のような睡魔が押し寄せてくる。
このまま、彼女の匂いと温もりに包まれて、意識を手放してしまいたい……。
なぁ、九条さん。
……ちょっとだけ、ダメ、かな?
「ごめん……九条さん」
重くなる瞼をこすりながら、俺は寝言のように呟いた。
この温もりに、彼女に、少し甘えてみたかったのかもしれない。
「なんだか、君が暖かくて……急に、眠気が……」
「ふふ。大丈夫よ」
耳元で、鈴が鳴るようなとても優しい声がした。
同時に、俺の頭がそっと引き寄せられ、何か信じられないほど柔らかいものに預けられる感覚。
「少し、おやすみなさい。……私が起こしてあげるから」
「うん……ごめん、ちょっとだけ……」
自我が、砂糖菓子のように溶けていく。この世から消えて無くなってしまうように。
彼女の甘い匂いと、絶対的な安心感に身を委ね、俺は抗うことなく深い眠りの淵へと落ちていった。深い深い何処かへと。
「Good night, Sou-kun. I'll never forget how you slept on my lap.(おやすみなさい、蒼くん。私の膝で眠ってくれたこと、一生忘れないから)」
意識が闇へ落ちる寸前。
愛おしむような囁きが聞こえた気がしたけれど、その意味を考える前に、俺は夢の中へ旅立っていた。
◇
……寒い。
肌を刺す冷気で、意識が急速に浮上し始める。
夜の河川敷は、昼間の暖かさが嘘のように冷え込んでいた。
俺は、ブルリと身震いして、重いまぶたを薄く開ける。
──視界いっぱいに広がっていたのは、星空では、なかった。
夜空を背景に、俺を覗き込む、九条 葵の逆さまのとても綺麗な顔。
そして、その下にある柔らかそうな、とんでもない角度から迫る、魅惑の膨らみだった。
薄いブラウス越しに、重力に逆らうその形が、月明かりで陰影を帯びて、はっきりと見て取れる。
「……え?」
状況が飲み込めない。
頭の下に感じる、極上の弾力と温もり。
見上げれば、逆さまになった彼女が、聖母のような慈愛に満ちた瞳で、じっと俺を見下ろしている。
ふと、自分の体を見る。
そこには、彼女が着ていたはずのブレザーが、掛け布団のように優しく掛けられていた。
ああ、どうりで。とても良い香りがするわけだよ。
彼女は今、ブラウス一枚で寒空の下、俺に上着を貸して……。
この頭の感触。このアングル。
これ、もしかして。
膝枕、されてるのか……!? 嘘ぉ!?




