第38話 我が矜持にかけて
「ここなの?」
「ああ。とてもお洒落だろ? 俺にはもったいないバイト先なんだけどさ」
「ううん、素敵なお店ね。……水無月くんによく似合ってるわ」
さらりと言ってのける彼女に照れつつ、俺は緊張で強張りそうになる胃をさすった。
事故に遭ってから今日で数日。連絡は入れていたとはいえ、急にシフトに大穴をあけてしまった罪悪感が、ボディブローのようにじわじわと効いてくる。
しかもその穴の大きさたるや……クビを宣告されても文句ひとつ言えないレベル。
カラン、コロン──
重厚な木の扉を開けると、芳醇な深煎り珈琲の香りと共に、カウベルの素朴な音が鳴った。
木のぬくもりを感じさせる店内は、午後のピークタイムを過ぎているせいか、数組の客が静かに談笑しているだけで、ゆったりとした贅沢な時間が流れている。
「いらっしゃい。お好きな席へ……おや?」
カウンターの奥から響いたのは、低く、渋みのあるバリトンの声。
磨き上げられたグラスを置いて、その人がこちらを見た。
「水無月くんか。どうした、しばらく休むって……っ、その腕」
彼が目を丸くしてカウンターから出てくる。
この店のオーナー兼店長、和泉 八雲さんだ。
年齢は三十代半ばと聞いている。
整えられた黒髪に、ワイルドになりすぎない程度に蓄えられた顎髭。糊の効いた白のシャツに、腰巻のカフェエプロンを着こなす姿は、まさに『完成された大人の男』だけが持つ色気を漂わせている。
ただ立っているだけで絵になる、ダンディズムの塊のような人だ。
俺が密かに、理想の男性像として憧れている人でもある。
「店長、すみません。ご迷惑をおかけしました」
俺は入口で深々と頭を下げた。
コツ、コツ、と革靴の音が近づいてきて、俺の目の前で止まる。
恨み言が飛んでくるか──と身構えた、その時。
ポン、と。
左肩に大きく温かい手が置かれた。
「いいんだよ、そんなことは。事情は聞いていたし……それより、大丈夫なのか? 随分と派手にやったなぁ」
「はい、なんとかやれてます。この通り、顔と足は無事なんですけど、右手と、左の指がしばらく使えなくて」
「そうか……。まあ、顔が無事なのは不幸中の幸いだな。生きててよかったよ、本当に」
八雲さんは、ギプスを痛ましそうに見つめると、安堵したように目尻を下げた。怒られるどころか、本気で心配してくれているその器の大きさが、今は逆に心苦しい。
なにせ、これだもんな。
当分、復帰できそうにない。
「それで、しばらくシフトに入れないことを直接お詫びしたくて」
「律儀だねえ。……ま、正直なところを言えば、戦力である君が抜けるのは痛すぎるよ」
八雲さんは腕を組み、困ったように苦笑した。
「ホールでの接客は勿論、その年齢でフードまでこなせるスタッフなんて、そうそういないからね。……その穴は大きすぎる」
その言葉に、俺は申し訳なさで身を縮こまらせるしかできない。過分な評価だとは思うけれど、憧れの人にそこまで言ってもらえるのは、素直に嬉しい。
「だが、その怪我じゃあしょうがないだろ。まずはしっかり治しなさい。店の方は俺がなんとかするから、心配するな」
温かい手が、俺の左肩に再び優しく添えられる。
「ありがとうございます……!」
ああ、なんて良いバイト先で、店長なんだ。
責めるでもなく、真っ先に俺の体を案じてくれるなんて。
俺がその温情に浸っていると、八雲さんの切れ長の瞳が、俺の背後──静かに控えている彼女へと向けられた。
「ん? ……随分と、綺麗な子を連れているな」
八雲さんの目が、スッと細められる。
値踏みするようないやらしさは微塵もない。ただ、美しい絵画を前にした時のような、純粋な感嘆の眼差し。
その視線に気づいた彼女が一歩前へ出て、優雅に一礼した。
「はじめまして。九条 葵といいます」
野暮ったい眼鏡に、長いスカートという地味な変装姿。
だというのに、その立ち居振る舞いから滲み出る気品は、何一つ隠しきれていないのかも。八雲さんは彼女をまじまじと見つめ、その声を反芻するように、整えられた顎髭をさすった。
「九条……葵さん。ああ、そうか」
八雲さんが、合点がいったように指を鳴らす。
「もしかして君かな? こないだ、蒼の代わりに電話に出てくれたのは」
「はい。勝手に携帯に出てしまい、申し訳ありませんでした」
「いやいや、構わないよ。事情は分かったから。むしろ助かった。ありがとう」
八雲さんは人の良さそうな笑みを浮かべると、すぐに真顔に戻り、わざとらしく難しい顔を作り始める。
……なんだ? 雲行きが怪しいぞ。
「ふうむ……。潔く許してやろうかなと思ったけど、やはりね。君のような頼れる男が数か月もシフトに穴をあけるというのは、うちにとって大打撃でね」
「す、すいません……」
声音に混じった深刻な響きに、俺は再び身を縮こまらせるしかない。
やっぱり、そう簡単に済む話じゃないよな。このご時世、代わりの人材なんてすぐには見つからないだろうし。
結果的に、店に損害を与えてしまったのかもしれない。
俺が冷や汗を流していると、八雲さんは真顔のまま、重々しく続けた。
「ああ、大打撃だとも。……特に、俺の休みが無くなるという点においてね」
「……はい?」
「全く、困ったものだ。おかげで、楽しみにしていた趣味のキャンプに行けなくなりそうだ」
予想外の言葉に、俺は間の抜けた声を上げるしかない。
「キャ、キャンプですか?」
「ああ。静かな森の中で、焚火を眺めながら飲む珈琲が、どれだけ旨いか……」
八雲さんは遠い目をして、心底残念そうに「はぁ……」と深く長い溜息をついている。ど、どうやら、冗談ではなく本気で楽しみにしていたらしい。
その哀愁漂う姿に、俺の罪悪感はさらに募る。
「すみません……」
「いや、いいんだ。愚痴って悪かったな」
八雲さんは苦笑して首を振ると、ふと何かを思いついたように、俺の顔を見た。
「……そうだ」
「え?」
「その手が治ったら、連れて行ってやろう」
「えっ、自分をですか?」
「ああ。大自然の中で飲む珈琲の味を、君にも教えてやりたくなった。……復帰祝いにはちょうどいいだろう?」
八雲さんは悪戯っぽく、けれど優しく微笑んでいる。
くぅ、なんだその笑顔。格好良すぎるだろ。……とは思うものの。
静かな森で、珈琲……ね。
うーん。正直、コンビニのパック飲料やペットボトルコーヒーで満足している俺ごときに、そんな高尚な『閑静なる森の味』なんてものが理解できるのか心配だったり……。
猫に小判、豚に真珠になりやしないか?
一抹の不安がよぎる。
けれど。それ以上に。
胸の奥が、締め付けられるように熱くなっている。かつて持っていた温もりを取り戻すかのように。
年上の男性と、キャンプ……?
記憶の彼方にある、両親とした時以来じゃないか。
「い、行きたいです! ぜひ、連れてってください!」
「では、それを楽しみに頑張って直すといい。ま、それはそれとして、だ」
八雲さんは、ふっと表情を切り替えるように、ニヤリと口角を上げた。
その目には、先ほどまでの温かさとはまた違う、食えない大人の悪戯な色が戻っている。
「キャンプは個人的な快気祝いだが、店としての『穴埋め』の件は、まだ解決していないからね」
「えっ、あ、はい……」
そうだった。
胸が熱くなり忘れていたが、シフトの穴埋め問題は依然残っている。
「その九条さん、だったか。蒼が復帰するときに、彼女も一緒に連れてくるというなら、今回の件は多めに見ようじゃないか」
「え?」
「君はいいね。こんな子が店に出てくれたら、華やぐに違いない。……それが、今回のお詫びの条件だ。どうだい?」
八雲さんは、片目を瞑ってウインクしてみせた。
これが大人の余裕、というやつなのだろう。なんとも食えない、けれど憎めない人だよ。ったく。
隣の九条さんが、何かを言いかけようと口を開く。
「あの、私なら……」
だが、それよりも早く。
俺は一歩前へ出ると、彼女を背に隠すようにして、八雲さんの言葉を遮った。
「──店長。お言葉ですが、それは出来ません」
「ほう?」
八雲さんの目が、面白そうに細められる。
「僕の不始末は、僕の責任です。九条さんは無関係ですし、自分のミスの穴埋めに、彼女を利用するような真似はしたくありません」
場の空気が、少しだけピリつくのを肌で感じる。
それでも、俺は八雲さんの目を真っ直ぐに見つめ返した。
大人ならではの、冗談なのかもしれない。あるいはそれが、経営者として持つべき当たり前の計算なのかも。
単に、客として連れてこいという、彼なりの粋な計らいだったとしても。
今の俺には、それを笑って流すことなんてできなかったんだ。
事故だって、そもそも彼女が運転していた訳じゃない。
だというのに、俺の怪我のせいで、ただでさえ散々世話になっているんだ。冷蔵庫を掃除させ、食事を作らせ、風呂まで……。
これ以上、俺の都合で彼女に甘えるわけにはいかない。
ましてや、彼女を条件として差し出すなんて、男として一番やっちゃいけないことだろ。
「復帰したら、今回の分まで倍働きますから。馬車馬のようにこき使ってくれて構いません」
俺は、拳を強く握りしめて、頭を下げた。
「……だから、彼女を巻き込むのはナシでお願いします」
第38話、お読みいただきありがとうございます。作者の神崎 水花です。
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