第37話 Cafe Nine Flow
車内アナウンスが、桜新町の発車を告げた。
到着まで、あと五分といったところか。
電車の揺れに身を任せながら、俺はずっと胸の奥につっかえていた『ある懸念』を口にすることにした。
この甘い空気に流されて、なあなあにしてはいけないことだと思うから。
さりげなく周囲を見回す。同じ学校の生徒がいないか、念入りに。
……よし、幸い近くにそれらしき制服は見当たらない。
それでも、念のために声を潜めて、彼女だけに届くボリュームで切り出してみる。
「……あのさ、九条さん」
「うん、なに?」
「その……俺たち、一緒に暮らし始めたわけだけど。やっぱり、このままじゃ駄目だと思うんだよね」
結構な勇気をもって切り出したつもりだった。
なのに、彼女はきょとんと目を丸くして、不思議そうに小首を傾げるばかり。
「どういうこと?」
「いや、どういうことって……けじめの話だよ。せめて、君のご両親に挨拶くらいはしないと不味いというか、義理が立たないというか、なんというか……うん」
──言ってから、顔がカッと熱くなるのを感じた。
同居にけじめ、そしてご両親への挨拶。
言葉の選び方を、盛大に間違えたかもしれない。これじゃあまるで、結婚の申し込みか何かの前口上みたいじゃないか。
でも、言っていることは間違っていないはず。俺たちは未成年で、まだ高校生の男女に過ぎない。それが一つ屋根の下にいるんだ。
いくら事故という事情があるとはいえ、親御さんに顔も見せずというのは、男として不誠実すぎるだろ。
もし俺が父親だったら、どこの馬の骨とも知らぬ男が、大切な娘の家に上がり込んでいるなんて知ったら、絶対に許さない。木刀を持って殴り込みに行くレベルだね。
ああ、間違いない。
けれど。
俺のそんな決死の提案を、彼女は涼しい顔であっさりと切り捨てた。
「それなら大丈夫よ」
「え、大丈夫って……」
「両親にはちゃんと説明してあるもの」
彼女はまっすぐ前を見据えたまま、淡々と語り始める。
「私が乗っていた車に巻き込んで、彼に大怪我をさせてしまった。そのせいで彼は両手が不自由になり、一人では生活すらままならない状態だと」
「……まあ、事実はその通りだけど」
「だから、彼の手が治るまででいい。私の責任において、看病させてほしいと伝えたわ」
なるほど、筋は通っている。通ってはいるけど……。
「そうだとしても、大切な一人娘だろうし」
口にしてから、ふと違和感を覚える。
……あれ? なぜ俺は今、彼女を『一人娘』だと断定したのだろう。
彼女から兄弟の話を聞いたこともなければ、家族構成を聞いたこともない。
根拠なんて、何もないはずなのに。
まあ、いいか。
きっと健太あたりから聞いたか、どこかで噂でも耳にしたのかもしれない。
俺は、その小さな違和感を、心の奥底へ放り込んだ。
そんな俺の思考を知ってか知らずか、彼女が静かに言葉を継ぐ。
「いいの。下手に動いて、かえって事態をややこしくすることになっても嫌だし」
彼女は迷いなく頷く。
それでも俺は、懸命に言葉を探しながら、一番の本音を口にしてみせた。
「別に、何がという訳ではないけどさ……。俺は、君のご両親に、わざわざ嫌われたくはないんだ」
だって、もし。
この先もずっと、九条さんと関わっていく未来があるのなら。
彼女の大切な家族にも、ちゃんと『自分という人間』を認めてもらいたい。そんな淡い願望が、俺の中に確かに芽生え始めていたから。
「だから……ちゃんとしておきたいんだよね」
「蒼くん……」
彼女が、眼鏡の奥の瞳を揺らす。
一瞬、何かに怯えるような、暗く深い影が差した気がした。
──けれど。
瞬きの間に、その脆弱な黒影は消え失せる。
彼女は、俺の知る限り最も美しく、そして何一つ入り込む隙のない完璧な笑顔を浮かべていた。
「うん、大丈夫。私を信じて」
「……わかった。じゃあ、もう言わないよ」
彼女がそこまで言うのなら、信じてみようと思う。それに、家族のことというのは、他人が土足で踏み込んでよい領域ではないだろうし。
一つ長い息を吐いて、彼女の瞳を見つめ返した。
「その代わり、必要になったら言って。いつでも伺うから」
俺の言葉に、彼女が嬉しそうに頷いた、その時。
『まもなく、二子玉川。二子玉川です──』
まるで会話の区切りを見計らったように、無機質なアナウンスが到着を告げる。
電車が減速し、プシュウ、と気の抜けた音を立ててドアが開いた。
「行こうか、九条さん」
「ええ」
彼女は小さく頷くと、当然のように俺の隣へ。
一歩引くでも、先を行くでもなく、真横に並ぶ。
俺の歩幅に、自然と彼女の歩幅が重なる。身長差があまりないせいか、二人の刻むリズムは驚くほど自然に同調していた。
高等部では、誰も寄せ付けない絶対的な『九条防壁』を持つ彼女。
けれどなぜか、あの事故以来。そんな彼女の鉄壁の内側、肩が触れそうな距離を歩くことが俺にだけは許されている。
その特等席に座れるのは、世界広しといえども今は俺だけなのかもしれない。
……朝は、その重圧と周囲の視線に耐えきれず、情けなくも逃げ出してしまったけれど。 今は、この場所を誰にも譲りたくないと、真剣にそう思い始めている。
そんな自惚れにも似た優越感と淡い何かを、俺は密かに噛み締めながら、改札を抜けて駅前の喧騒を背にした。
近代的なビル群を横目に、整備された遊歩道を抜けていくと、やがて前方に、場違いなほど深く草に覆われた土手が姿を現す。
玉川陸閘だ。
その、分厚い壁を切り取ったような、レンガで固められた道を抜けた、先。
目の前に現れたのは、土手沿いにひっそりと佇む、背の低い家並みだった。
その屋根の連なりの、さらに奥。
視界が一気に開け、茜色の夕焼けに染まった広大な河川敷が、俺たちを迎えた。
「わあ……気持ちいい」
「じゃあ帰りに少し、堤防を歩いてみようか」
「本当?」
隣を歩く彼女が、目を細めて喜んでいる。
日がな一日、今日もまたほんの少し、俺と彼女の距離が狭まった気がする。
──正確に言えば、近づいているのは俺の方か。
彼女は、病院で会った時から、何も変わっていないのかも。ただ真っ直ぐに、そこで俺を待っていてくれたのだと、今なら分かる気がした。
堤防沿いの、少し奥まった場所。
豊かな緑と、レンガ造りの外壁が調和した、一軒のカフェが見えてくる。
『Cafe Nine Flow』
アンティーク調の看板が、夕日を受けて鈍く光っていた。
ここが、俺のバイト先。
落ち着いた大人の隠れ家といった雰囲気で、コーヒーの味はもちろん、リバービューのテラス席が人気のお店だったりする。




