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九条葵は償いたい ~その献身には理由がある~  作者: 神崎水花
第三章 あなたを追いかけて

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第37話 Cafe Nine Flow

 車内アナウンスが、桜新町の発車を告げた。

 到着まで、あと五分といったところか。


 電車の揺れに身を任せながら、俺はずっと胸の奥につっかえていた『ある懸念』を口にすることにした。

 この甘い空気に流されて、なあなあにしてはいけないことだと思うから。


 さりげなく周囲を見回す。同じ学校の生徒がいないか、念入りに。

 ……よし、幸い近くにそれらしき制服は見当たらない。

 それでも、念のために声を潜めて、彼女だけに届くボリュームで切り出してみる。


「……あのさ、九条さん」

「うん、なに?」

「その……俺たち、一緒に暮らし始めたわけだけど。やっぱり、このままじゃ駄目だと思うんだよね」


 結構な勇気をもって切り出したつもりだった。

 なのに、彼女はきょとんと目を丸くして、不思議そうに小首を傾げるばかり。

「どういうこと?」


「いや、どういうことって……けじめの話だよ。せめて、君のご両親に挨拶くらいはしないと不味いというか、義理が立たないというか、なんというか……うん」


 ──言ってから、顔がカッと熱くなるのを感じた。

 同居にけじめ、そしてご両親への挨拶。

 言葉の選び方を、盛大に間違えたかもしれない。これじゃあまるで、結婚の申し込みか何かの前口上みたいじゃないか。

 

 でも、言っていることは間違っていないはず。俺たちは未成年で、まだ高校生の男女に過ぎない。それが一つ屋根の下にいるんだ。

 いくら事故という事情があるとはいえ、親御さんに顔も見せずというのは、男として不誠実すぎるだろ。


 もし俺が父親だったら、どこの馬の骨とも知らぬ男が、大切な娘の家に上がり込んでいるなんて知ったら、絶対に許さない。木刀を持って殴り込みに行くレベルだね。

 ああ、間違いない。


 けれど。

 俺のそんな決死の提案を、彼女は涼しい顔であっさりと切り捨てた。


「それなら大丈夫よ」

「え、大丈夫って……」

「両親にはちゃんと説明してあるもの」

 彼女はまっすぐ前を見据えたまま、淡々と語り始める。


「私が乗っていた車に巻き込んで、彼に大怪我をさせてしまった。そのせいで彼は両手が不自由になり、一人では生活すらままならない状態だと」

「……まあ、事実はその通りだけど」

「だから、彼の手が治るまででいい。私の責任において、看病させてほしいと伝えたわ」


 なるほど、筋は通っている。通ってはいるけど……。


「そうだとしても、大切な一人娘だろうし」


 口にしてから、ふと違和感を覚える。


 ……あれ? なぜ俺は今、彼女を『一人娘』だと断定したのだろう。

 彼女から兄弟の話を聞いたこともなければ、家族構成を聞いたこともない。

 根拠なんて、何もないはずなのに。


 まあ、いいか。

 きっと健太あたりから聞いたか、どこかで噂でも耳にしたのかもしれない。

 俺は、その小さな違和感を、心の奥底へ放り込んだ。


 そんな俺の思考を知ってか知らずか、彼女が静かに言葉を継ぐ。

「いいの。下手に動いて、かえって事態をややこしくすることになっても嫌だし」


 彼女は迷いなく頷く。

 それでも俺は、懸命に言葉を探しながら、一番の本音を口にしてみせた。


「別に、何がという訳ではないけどさ……。俺は、君のご両親に、わざわざ嫌われたくはないんだ」


 だって、もし。

 この先もずっと、九条さんと関わっていく未来があるのなら。

 彼女の大切な家族にも、ちゃんと『自分という人間』を認めてもらいたい。そんな淡い願望が、俺の中に確かに芽生え始めていたから。


「だから……ちゃんとしておきたいんだよね」


「蒼くん……」


 彼女が、眼鏡の奥の瞳を揺らす。

 一瞬、何かに怯えるような、暗く深い影が差した気がした。


 ──けれど。

 瞬きの間に、その脆弱な黒影は消え失せる。

 彼女は、俺の知る限り最も美しく、そして何一つ入り込む隙のない完璧な笑顔を浮かべていた。


「うん、大丈夫。私を信じて」

「……わかった。じゃあ、もう言わないよ」


 彼女がそこまで言うのなら、信じてみようと思う。それに、家族のことというのは、他人が土足で踏み込んでよい領域ではないだろうし。

 一つ長い息を吐いて、彼女の瞳を見つめ返した。


「その代わり、必要になったら言って。いつでも伺うから」

 俺の言葉に、彼女が嬉しそうに頷いた、その時。


『まもなく、二子玉川。二子玉川です──』


 まるで会話の区切りを見計らったように、無機質なアナウンスが到着を告げる。

 電車が減速し、プシュウ、と気の抜けた音を立ててドアが開いた。


「行こうか、九条さん」

「ええ」


 彼女は小さく頷くと、当然のように俺の隣へ。

 一歩引くでも、先を行くでもなく、真横に並ぶ。

 俺の歩幅に、自然と彼女の歩幅が重なる。身長差があまりないせいか、二人の刻むリズムは驚くほど自然に同調(シンクロ)していた。


 高等部では、誰も寄せ付けない絶対的な『九条防壁』を持つ彼女。

 けれどなぜか、あの事故以来。そんな彼女の鉄壁の内側、肩が触れそうな距離を歩くことが俺にだけは許されている。

 その特等席に座れるのは、世界広しといえども今は俺だけなのかもしれない。


 ……朝は、その重圧と周囲の視線に耐えきれず、情けなくも逃げ出してしまったけれど。  今は、この場所を誰にも譲りたくないと、真剣にそう思い始めている。


 そんな自惚れにも似た優越感と淡い何かを、俺は密かに噛み締めながら、改札を抜けて駅前の喧騒を背にした。

 近代的なビル群を横目に、整備された遊歩道を抜けていくと、やがて前方に、場違いなほど深く草に覆われた土手が姿を現す。

 玉川陸閘(りくこう)だ。

 その、分厚い壁を切り取ったような、レンガで固められた道を抜けた、先。


 目の前に現れたのは、土手沿いにひっそりと佇む、背の低い家並みだった。

 その屋根の連なりの、さらに奥。


 視界が一気に開け、茜色の夕焼けに染まった広大な河川敷が、俺たちを迎えた。


「わあ……気持ちいい」

「じゃあ帰りに少し、堤防を歩いてみようか」

「本当?」

 隣を歩く彼女が、目を細めて喜んでいる。

 日がな一日、今日もまたほんの少し、俺と彼女の距離が狭まった気がする。


 ──正確に言えば、近づいているのは俺の方か。

 彼女は、病院で会った時から、何も変わっていないのかも。ただ真っ直ぐに、そこで俺を待っていてくれたのだと、今なら分かる気がした。


 堤防沿いの、少し奥まった場所。

 豊かな緑と、レンガ造りの外壁が調和した、一軒のカフェが見えてくる。


『Cafe Nine Flow』


 アンティーク調の看板が、夕日を受けて鈍く光っていた。

 ここが、俺のバイト先。

 落ち着いた大人の隠れ家といった雰囲気で、コーヒーの味はもちろん、リバービューのテラス席が人気のお店だったりする。

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