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九条葵は償いたい ~その献身には理由がある~  作者: 神崎水花
第三章 あなたを追いかけて

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第35話 真っ赤なタコさん

 打ち震えたさ。

 強奪された怒りに、肩を震わせてワナワナとな。

 アイツは、たった一つのあの赤い宝石を奪いやがったんだ。だが、そんな俺の怒気などどこ吹く風。凶悪犯はのんきに咀嚼し、カッ、と目を見開いている。


「……うまっ!」

 健太が、素っ頓狂な声を上げた。しかも中々の大音量で。

「なんだこれ、めちゃくちゃ美味いぞ! 冷めてるのに超うめえ!」


 健太はあまりの美味しさに感極まったのか、天井を仰いで一人プルプルと震えだした。

「主よ……。ああ、これが九条さんの味なのですね……」

 おい、そのミッションスクール(聖諒学院高等部)でしか伝わらないノリはやめろ。学外の人間にはさっぱりだぞ。

 それにしても大袈裟な野郎だ……。

 

 だが! そのリアクションが嘘じゃないことは、残されたおかずの輝きを見ればわかる。俺は未練がましく健太の喉仏を睨みつけながら、震える手で紅鮭をピックで刺す。


「……っ」


 口に含んだ途端、ふっくらとした身がほろりと解けてゆく。

 程よい塩加減。脂の乗りも抜群にいい。

 口いっぱいに広がる鮭の旨味は、文句なしに美味い。

 美味いけど。やっぱり、タコさんウィンナーが食いたかったなとは思う。

 俺の口は、あのジャンキーな『赤いやつ』の味を想像してしまっていたんだ。

 そういうのってない?


 心の中で血の涙を流しながら、もぐもぐと咀嚼していると。

 視界の端で、九条さんがなにやらそわそわと、何かを訴えるように動いている。

 彼女は、未だ天井を仰いで「美味い、美味すぎる……」と一人陶酔している健太をちらりと確認する。

 それから素早く俺の方を向くと、自身の唇を小さく「あー」と開けてみせた。


 ……え? なに?

 口を開けろ、ということかな?


 わけもわからず、釣られるように小さく口を開けた、その刹那。

 スッ、と。

 彼女の赤い箸で摘まれた『真っ赤なタコさん』が、滑らかな軌道を描いて俺の口元へと吸い込まれる。健太の死角を突いた、一瞬の早業。

 誰にも見られてはいけない、二人だけの優しい秘密。


「んぐっ!?」

 反射的に口を閉じてしまう。

 

 噛むと薄い皮がもにゅっと弾け、赤ウインナー特有の食感に口が歓喜の声をあげる。噛みしめるたび口内に広がるのは、あの高級な粗挽き肉の脂の旨味ではなくて。

 どこか懐かしい、チープなんだけど、無性に白米を恋しくさせる独特の塩気と旨味なんだよな。

 ああ、俺が求めていたのは、この郷愁の味だったのか。


 俺は目を見開いて、彼女を見やった。

 そうして九条さんの弁当箱の端にあったはずの、彼女の分のタコさんウインナーが、消えてしまっていることに気づく。

 

 彼女は、手ずから俺の口へ運んだ箸を引っ込めると、人差し指をそっと自分の唇に当てて、「シーッ」と可愛らしく片目を瞑ってみせる。

 健太には決して見えない角度で。

 俺だけに向けられた、特別な笑顔を見せてくれた。

 

 ああ、いけない。タコさんウィンナー如きで泣いてしまいそうだよ。

 ……九条、さん……!


 口の中に広がる懐かしい旨味と、それ以上に甘い彼女の秘密の優しさと笑顔を、誰にもバレないようにゆっくりと、大切に噛み締めて。

 大切に噛み締め、て……。


 ふと。首筋に、チリリとした悪寒が走る。

 何となく視線を感じるような気がして、何気なく顔を向けてみる。そこで視線が、かち合ってしまった。


 少し離れた、斜め前のグループ席。

 友人たちと談笑しながらランチをしていたはずの高階さんと、それはものの見事にガッツリと。


「……っ!?」

 

 彼女は、パックのジュースをストローで弄びながら、頬杖をついて、じっとこっちを見ていた。いや、正確には『今の俺たちのやり取り』を、一部始終、見届けていた目だ。あれはそういう目だと思う。


 目が合うと。彼女はストローを咥えたまま、口の端をニヤリと三日月形に吊り上げる。その表情は、雄弁にこう語っていた。

『ふーん……。へえ、そうなんだ』


 背筋に、氷柱を差し込まれたような冷たい戦慄が走る。

 見られた!?

 今の「あーん」も、九条さんのウインクも、俺の締まりのない顔も。

 全部、見られた!


 そこからはもう、何をどう食べたのか、あまり覚えていない。

 本当なら、あのお弁当は至福の味だったはずなのに。


 俺のために食べやすく工夫された、彩り豊かなおかずの数々はもちろん彼女のお手製。おまけに健太という『防波堤』までスタンバイさせて、完璧な布陣を敷いたというのに。

 一生の思い出に残る、最高のランチになるはずだったのに。


 俺の脳裏に焼き付いているのは、高階さんのあのニヤリと笑った口元と──口に残る、唯一のタコさんウインナーの味だけ。


 待ちに待った、放課後のチャイムが鳴る。

 俺は逃げるように鞄をまとめると、九条さんと共に教室を後にした。

 この後、ちょっと寄り道したい場所もあるし、何より教室のざわめきから離れたかったというのも、ある。


 昇降口の下駄箱前。

 俺が不自由な手で革靴に、彼女がローファーに履き替えていると、背後からコツ、コツ、と軽やかな足音が近づいてくる。


「あれ? もしかして帰りも一緒なの?」


 心臓が、嫌な音を立てて跳ねた。

 振り返ると、そこには鞄を肩にかけた高階さんが立っている。


「ああ。最寄り駅がね、一緒だから」

 

 事前に用意していた言い訳を、極力自然に口にしてみせた。

 高階さんは、「ふーん」と鼻を鳴らすと、まじまじと俺の顔を覗き込んでくる。その瞳の奥には、少し熱っぽい光が宿っている気がして、俺は思わずたじろぐ。

 

 嘘か本当か、探られている。 そう思った矢先。

 

 彼女はすぐに視線を隣の九条さんへと移す。

 途端に、その表情から鋭さが消え、パァッと花が咲いたような、純粋な親愛の色だけが浮かび上がった。


 なるほどな。俺のことは気になる、『隠れ優良物件』として。でも、それと同じ程度に彼女は今、九条さんとお近づきになりたいのだ。この考察は、当たらずとも遠からずといったところか。

 ならば。野暮な詮索をして九条さんの機嫌を損ねるのは得策ではない。

 そう考えても、おかしくはないよな。

 

「ま、いいわ」

 今のところは、邪魔しないでおいてあげる。そんな含みを持たせて。

「じゃあさよなら、九条さん」

「ええ、さようなら」

 彼女だけに甘い声で挨拶をして、そして最後に、俺の方をチラリと流し目で振り返る。


「……また明日ね、水無月くん」

「うん、また」

 ふう……。嵐のような彼女が去り、正門へと向かう道すがら。

 九条さんは立ち止まると、鞄から例のアイテムを取り出している。


 朝に見た、あの黒い縁の大きな伊達メガネ。それを慣れた手つきでかけると、彼女はくるりと俺に背を向けた。

 ゴソゴソ、と何やら衣擦れの音がする。

 彼女は見えないように、制服のスカートのウエスト部分を調整しているのだろう。折り返していた部分を器用に戻し、くるぶし近くまである長い丈へと変貌させていく。


 美貌を隠す野暮ったい眼鏡と、流行に逆行する長いスカート。

 再びこちらを向いた時には、朝と同じ、鉄壁の守りを固めた『通学用・九条葵』が完成していた。


「水無月くん、お待たせ」

「ううん、待ってないよ」 

 眼鏡の奥で、彼女がふわりと微笑んだ。

 その笑顔を見ると、高階さんにバレた恐怖も、午後の胃痛も、少しだけ和らぐ気がしたよ。

 ……ただ。

 その笑顔の破壊力を目の当たりにして、俺の中に新たな疑問が生まれていたのも事実。

 

 この変装、本当に意味があるのだろうか……?

 どんなに覆い隠そうとしても、その溢れ出る美貌と愛らしさは、ちっとも隠しきれていない気がするのだけど。

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