第35話 真っ赤なタコさん
打ち震えたさ。
強奪された怒りに、肩を震わせてワナワナとな。
アイツは、たった一つのあの赤い宝石を奪いやがったんだ。だが、そんな俺の怒気などどこ吹く風。凶悪犯はのんきに咀嚼し、カッ、と目を見開いている。
「……うまっ!」
健太が、素っ頓狂な声を上げた。しかも中々の大音量で。
「なんだこれ、めちゃくちゃ美味いぞ! 冷めてるのに超うめえ!」
健太はあまりの美味しさに感極まったのか、天井を仰いで一人プルプルと震えだした。
「主よ……。ああ、これが九条さんの味なのですね……」
おい、そのミッションスクールでしか伝わらないノリはやめろ。学外の人間にはさっぱりだぞ。
それにしても大袈裟な野郎だ……。
だが! そのリアクションが嘘じゃないことは、残されたおかずの輝きを見ればわかる。俺は未練がましく健太の喉仏を睨みつけながら、震える手で紅鮭をピックで刺す。
「……っ」
口に含んだ途端、ふっくらとした身がほろりと解けてゆく。
程よい塩加減。脂の乗りも抜群にいい。
口いっぱいに広がる鮭の旨味は、文句なしに美味い。
美味いけど。やっぱり、タコさんウィンナーが食いたかったなとは思う。
俺の口は、あのジャンキーな『赤いやつ』の味を想像してしまっていたんだ。
そういうのってない?
心の中で血の涙を流しながら、もぐもぐと咀嚼していると。
視界の端で、九条さんがなにやらそわそわと、何かを訴えるように動いている。
彼女は、未だ天井を仰いで「美味い、美味すぎる……」と一人陶酔している健太をちらりと確認する。
それから素早く俺の方を向くと、自身の唇を小さく「あー」と開けてみせた。
……え? なに?
口を開けろ、ということかな?
わけもわからず、釣られるように小さく口を開けた、その刹那。
スッ、と。
彼女の赤い箸で摘まれた『真っ赤なタコさん』が、滑らかな軌道を描いて俺の口元へと吸い込まれる。健太の死角を突いた、一瞬の早業。
誰にも見られてはいけない、二人だけの優しい秘密。
「んぐっ!?」
反射的に口を閉じてしまう。
噛むと薄い皮がもにゅっと弾け、赤ウインナー特有の食感に口が歓喜の声をあげる。噛みしめるたび口内に広がるのは、あの高級な粗挽き肉の脂の旨味ではなくて。
どこか懐かしい、チープなんだけど、無性に白米を恋しくさせる独特の塩気と旨味なんだよな。
ああ、俺が求めていたのは、この郷愁の味だったのか。
俺は目を見開いて、彼女を見やった。
そうして九条さんの弁当箱の端にあったはずの、彼女の分のタコさんウインナーが、消えてしまっていることに気づく。
彼女は、手ずから俺の口へ運んだ箸を引っ込めると、人差し指をそっと自分の唇に当てて、「シーッ」と可愛らしく片目を瞑ってみせる。
健太には決して見えない角度で。
俺だけに向けられた、特別な笑顔を見せてくれた。
ああ、いけない。タコさんウィンナー如きで泣いてしまいそうだよ。
……九条、さん……!
口の中に広がる懐かしい旨味と、それ以上に甘い彼女の秘密の優しさと笑顔を、誰にもバレないようにゆっくりと、大切に噛み締めて。
大切に噛み締め、て……。
ふと。首筋に、チリリとした悪寒が走る。
何となく視線を感じるような気がして、何気なく顔を向けてみる。そこで視線が、かち合ってしまった。
少し離れた、斜め前のグループ席。
友人たちと談笑しながらランチをしていたはずの高階さんと、それはものの見事にガッツリと。
「……っ!?」
彼女は、パックのジュースをストローで弄びながら、頬杖をついて、じっとこっちを見ていた。いや、正確には『今の俺たちのやり取り』を、一部始終、見届けていた目だ。あれはそういう目だと思う。
目が合うと。彼女はストローを咥えたまま、口の端をニヤリと三日月形に吊り上げる。その表情は、雄弁にこう語っていた。
『ふーん……。へえ、そうなんだ』
背筋に、氷柱を差し込まれたような冷たい戦慄が走る。
見られた!?
今の「あーん」も、九条さんのウインクも、俺の締まりのない顔も。
全部、見られた!
そこからはもう、何をどう食べたのか、あまり覚えていない。
本当なら、あのお弁当は至福の味だったはずなのに。
俺のために食べやすく工夫された、彩り豊かなおかずの数々はもちろん彼女のお手製。おまけに健太という『防波堤』までスタンバイさせて、完璧な布陣を敷いたというのに。
一生の思い出に残る、最高のランチになるはずだったのに。
俺の脳裏に焼き付いているのは、高階さんのあのニヤリと笑った口元と──口に残る、唯一のタコさんウインナーの味だけ。
待ちに待った、放課後のチャイムが鳴る。
俺は逃げるように鞄をまとめると、九条さんと共に教室を後にした。
この後、ちょっと寄り道したい場所もあるし、何より教室のざわめきから離れたかったというのも、ある。
昇降口の下駄箱前。
俺が不自由な手で革靴に、彼女がローファーに履き替えていると、背後からコツ、コツ、と軽やかな足音が近づいてくる。
「あれ? もしかして帰りも一緒なの?」
心臓が、嫌な音を立てて跳ねた。
振り返ると、そこには鞄を肩にかけた高階さんが立っている。
「ああ。最寄り駅がね、一緒だから」
事前に用意していた言い訳を、極力自然に口にしてみせた。
高階さんは、「ふーん」と鼻を鳴らすと、まじまじと俺の顔を覗き込んでくる。その瞳の奥には、少し熱っぽい光が宿っている気がして、俺は思わずたじろぐ。
嘘か本当か、探られている。 そう思った矢先。
彼女はすぐに視線を隣の九条さんへと移す。
途端に、その表情から鋭さが消え、パァッと花が咲いたような、純粋な親愛の色だけが浮かび上がった。
なるほどな。俺のことは気になる、『隠れ優良物件』として。でも、それと同じ程度に彼女は今、九条さんとお近づきになりたいのだ。この考察は、当たらずとも遠からずといったところか。
ならば。野暮な詮索をして九条さんの機嫌を損ねるのは得策ではない。
そう考えても、おかしくはないよな。
「ま、いいわ」
今のところは、邪魔しないでおいてあげる。そんな含みを持たせて。
「じゃあさよなら、九条さん」
「ええ、さようなら」
彼女だけに甘い声で挨拶をして、そして最後に、俺の方をチラリと流し目で振り返る。
「……また明日ね、水無月くん」
「うん、また」
ふう……。嵐のような彼女が去り、正門へと向かう道すがら。
九条さんは立ち止まると、鞄から例のアイテムを取り出している。
朝に見た、あの黒い縁の大きな伊達メガネ。それを慣れた手つきでかけると、彼女はくるりと俺に背を向けた。
ゴソゴソ、と何やら衣擦れの音がする。
彼女は見えないように、制服のスカートのウエスト部分を調整しているのだろう。折り返していた部分を器用に戻し、くるぶし近くまである長い丈へと変貌させていく。
美貌を隠す野暮ったい眼鏡と、流行に逆行する長いスカート。
再びこちらを向いた時には、朝と同じ、鉄壁の守りを固めた『通学用・九条葵』が完成していた。
「水無月くん、お待たせ」
「ううん、待ってないよ」
眼鏡の奥で、彼女がふわりと微笑んだ。
その笑顔を見ると、高階さんにバレた恐怖も、午後の胃痛も、少しだけ和らぐ気がしたよ。
……ただ。
その笑顔の破壊力を目の当たりにして、俺の中に新たな疑問が生まれていたのも事実。
この変装、本当に意味があるのだろうか……?
どんなに覆い隠そうとしても、その溢れ出る美貌と愛らしさは、ちっとも隠しきれていない気がするのだけど。




