第32話 私はとっても嬉しいの
ちょっと待て。
なんでこのタイミング、この場所で「蒼くん」呼びなんだよ!
心臓が止まるかと思った。
「はは、よろしく。九条さん……」
──ああ、よろしくな、葵。
そう涼しい顔で返せたら、どれだけ格好がついたことか。
当然、そんな度胸、あるわけもなく。
引きつった笑みを浮かべる俺の、この心の絶叫は誰にも届かない。涼しい顔で隣に座った、君にすら。
ましてや、前で小鼻を広げて硬直している友人になんて、届くはずもない。
教室中が「え、今なんて?」「蒼くん?」「聞き間違いか?」と爆心地のように騒然としている中、爆撃者本人である彼女は、何食わぬ顔で俺の前の席に座る健太へと視線を向けた。
「小園くんも、今日からよろしくね」
「ひゃ、ひゃいっ! く、九条さん、こ、こちらこそ、よろしくお願いしあっす!」
健太が裏返った声で叫び、椅子をガタガタと鳴らして、逃げるように前を向く。
……おい、さっき「彼女の隣がいい」って言ってなかったか?
念願叶って『斜め前』という絶好のポジションだぞ。なんでそんなに慌てているんだ。
あまりにも挙動不審な友人の背中に、俺は呆れ半分、同情半分で、ボールペンの背をコツンと突き立てた。
「ふおっ!?」
「おい、落ち着けよ、健太」
「なんだ蒼か……って、こ、これが落ち着いていられるかよ!」
健太は、教科書を立てて壁にしながら、器用に首だけをこちらに捻じ曲げてくる。
「はぁ、あのなあ。つい先日、病院でも会っただろうが」
「そうそれ! あの時の九条さんの私服姿……って、バカ! 言わせんなよ!」
「しーっ!」と、慌てて人差し指を口に当てる友人。
……いや、うるさいのはお前だろうに。
俺の心のツッコミなど露知らず、彼は教科書の陰から、血走った目で必死の形相を向けてくる。
「いいか蒼、現実を見ろ。俺が今、何気なく後ろを振り返ったら、そこにはあの九条さんがいるんだぞ? やばすぎるわ! 俺の半径2メートルに九条 葵!」
「そ、そうか……」
鼻息荒くまくし立てていた健太が、ふと、鼻をひくつかせた。
「やべえ、なんか、すげえ良い匂いがしてきた」
うっとりと宙を仰ぐ親友。
その言葉に釣られて、俺も吸い寄せられるように、こっそりと隣へ視線を盗んだ。
視線の先。
澄ました顔で教科書を開いていた彼女が、ふと止まる。
俺の視線に気づいたのだろうか。
彼女は、その顔を僅かにこちらへと向けると──
俺と目があったその一瞬だけ。パァッ、と花が咲くように微笑んでみせた。
──っ。
心臓が、早鐘を打つ。
二人だけの秘密のサイン。湧き上がる優越感と、どうしようもない照れくささ。
俺は、赤くなりそうな顔を必死に隠しながら、何も知らない健太に曖昧な相槌を打つことしかできなかった。
「……た、確かにな」
「だろ? 良い匂いだよな。へへっ……って、あ」
鼻の下を伸ばし放題にしていた健太が、ふと、我に返ったように真顔になる。
そして一人勝手に、頭を抱えだす。
なんだ、なんだ。
「くそっ、嬉しいけど……これじゃあ授業中、迂闊なこと言えなくなるじゃんか」
「は?」
「あくびもできねえし、お前とエロい話も出来ねえ! ああ、俺の硬派なイメージが!」
「おい、ちょっと待て! いつ俺がそんな話したよ!」
俺は食い気味に否定した。
ふざけんな。待て。それこそ、俺のイメージはどうなる。
俺は恐る恐る、隣へ視線を流す。
九条さんがニコニコと。
それはもう、背景に百合の花が咲き乱れるような、一点の曇りもない満面の笑みで、俺たちの会話をしっかりと聞いていらっしゃった。
ご、誤解だ……! 九条さん、違うんだ!
俺が弁解の言葉を紡ごうと、パクパクと口を開閉させていると、教壇の方から呆れたような声が飛んでくる。
「はいはい、そこの二人。小園くんはわかるけど、水無月くんまでは珍しいわね」
「よ、吉岡先生……」
「席替えして早々、浮かれる気持ちは分かるけどね。まあ、今回は大目に見るから、私語はほどほどになさい」
先生は苦笑しながら、パン、と手を叩いて空気を切り替える。
俺は、健太への溢れんばかりの怒気と、九条さんへの弁解したい気持ちにサンドイッチされながら、先生の話を聞くしかなかった。
誤解なのに……。
しかも、浮かれてるだなんて。
「じゃ、これで連絡事項はおしまい。みんな、二年になったからって中だるみしないようにね。そろそろ本腰入れて勉強しなさいよ~」
そう言い残し、吉岡先生が颯爽と教室を出て行った。
入れ替わりで入ってきたのは、一時間目の現代文担当、中年の小林先生。
「よし、じゃあ始めるぞ。それでは教科書の32ページを開いて」
先生の声と共に、クラスの空気が『勉強モード』のそれへと切り替わる。
聖諒学院高等部は、都内でも有数の進学校だったりする。
チャイムが鳴ればみな自然と目の色が変わり、放っておいても教室は真剣そのものの空気に変わる。
いい加減な態度で授業を受けている奴なんて、クラスに数人がいいところだろう。
まあ、悲しいかな。
俺の親友である健太も、その数少ない『選ばれし者』の一人なのだが。
ここに入学できている時点で、地頭は悪くないはずなんだけどなあ。……普段のアホな言動からは、微塵も感じられないけれど。
やればできるだろうに、もったいない。
「おっと、いけね」
健太に気を取られている場合ではないな。
俺は慌てて左手で鞄を探り、なんとか教科書を引っ張り出した。
だけど──
新品の教科書というのは、どうしてこうも融通が利かないのか。
開きにくいわ、固いわ、手を離せばすぐに閉じようとするわで、やってられない。ギプスで固められた右腕はただの重り。動く左手の指二本だけで、反発するページを押さえつけながら捲るのは、至難を極めた。
机に押し付けながら、なんとか開こうと悪戦苦闘していると。
鼓膜を震わせる声よりも先に甘い芳香が揺れて、俺の肺を満たした。
「はい、先生」
すぐ隣で、凛然とした涼やかな声が鳴る。
見れば、九条さんが迷いのない所作でスッと、その美しい指先を天井へと伸ばしていた。
「お、どうした九条。何か質問か?」
小林先生が眼鏡の位置を直しながら彼女を指名する。
彼女は優雅に立ち上がると、困っている俺をちらりと見て、こう言ってのけた。
「先生。水無月くん、怪我で教科書を開くのも大変そうなので……机をくっつけて、見せてあげてもいいですか?」
教室中の視線が、少しの騒めきと共に一斉に俺の手元に集まる。
先生もつられるように、「ん?」と眉をひそめて俺を見ていた。
そこにあるのは、ギプスで固められた右腕と、不格好な添え木で自由を奪われた左手。そして、無惨に閉じようとしている教科書。
これ以上ない、完璧な証拠が揃っている。
「うわ、随分と酷いな。大丈夫か水無月?」
「はい、大丈夫です。動かせないだけですから」
「そうか……よし、許可する。九条、見せてやってくれるか」
「はい。ありがとうございます」
許可は、下りた。
彼女はペコリと優雅に一礼すると、立ったまま自分の机に手を掛ける。
そして、「……失礼するわね、水無月くん」と、俺にしか聞こえないような、楽しげな吐息を漏らして。
そのまま、ずずい、と横にスライドさせてくる。
躊躇いなく、俺の領域へと侵略を開始した。
ガコンッ。
俺の机と彼女の机がぶつかり、隙間なく密着する音が鳴った。
彼女は満足げに頷くと、改めて俺のすぐ隣へと腰を下ろす。それはつまり、俺と彼女の距離もまた、物理的に限りなく近づいたことを意味している。学校でも……。
「はい、どうぞ。場所は、ここね」
彼女は教科書を二人の机のちょうど真ん中、境界線の上に広げる。
それだけでは飽き足らず、
「見えにくくない?」
と、覗き込むフリ(?)をして、椅子ごと──彼女自身も身を寄せてきたのさ。
肩と肩が、触れ合うか触れ合わないかの距離。いや、もう触れてるんじゃないか?
制服越しに、彼女の体温と柔らかさが伝わってくるような近さに。
ふと前を見れば。
健太がこっちを向いて、『世界の終わり』でも見たかのような顔で絶句していた。
心配するな、健太。
別の意味で、俺の心臓も止まりそうだから。
一緒に逝こうな。俺たち、友達だろ?
「I wonder if it's a bother to you.(あなたには迷惑かしら……なんてね)」
「……え?」
教科書を見るフリをして、彼女がそっと囁く。
書いてくれれば、意味くらいは分かるのに……。
彼女の発音はあまりにネイティブすぎて、俺の耳では単語の区切りさえ掴めない。
今は現代文の授業だというのに、彼女の周りだけが、異国の映画のワンシーンみたいだ。
彼女は、困惑する俺を見てくすりと笑うと、もう一度甘く囁いた。
「But... I'm very happy.(……でも、私はとっても嬉しいの)」




