第30話 一度混ざったものは、もう戻らない
九条葵は償いたい ~その献身には理由がある~
第三章、あなたを追いかけて
俺は、ただひたすらに走った。
正門を抜け、鮮やかな新緑のイチョウ並木を、風を切って駆け抜ける。
少し体がなまったせいか、どうにも息が切れ、肺が焼けるように熱い。地面を蹴る振動が、ひび割れた肋骨に響いてズキズキと痛むけれど、今の俺にはその物理的な苦痛のほうが余程マシだった。
胸の奥で渦巻く、正体のない痛みに比べれば。
九条さんを、あそこに置いてきてしまった。
その罪悪感が、背中にへばりついて離れない。嫌いなわけじゃない。むしろ……逆だよ。逆に決まってるだろ。
大切だと思い始めてしまったからこそ、ふとした瞬間にどう接していいか分からなくなる。そんな自分の不器用さが恨めしい。
振り返りたい衝動を必死に押し殺し、ロータリーの先にある高等部の校舎へと滑り込む。大学のキャンパスにすらその名が知れ渡る、全校生徒が憧れる高嶺の花。
それが彼女だ。
その隣に、俺のような覚悟の決まらない男が、涼しい顔をして居座るべきではない。
九条さんが俺に向けてくれる好意と、その奥に隠された『何か』。
それに戸惑って、逃げ出しているようでは駄目だろ。もっとしっかりしろよ、腰が引けてる場合か、蒼。
これは単に、俺がそこに見合わないというだけの話ではなくて。
彼女の横を堂々と歩くには、まだ自分には色々足りていないのだと──「好き」とさえ、まともに言えない俺じゃ。
走るリズムに合わせて、そんな自問自答ばかりが脳内を巡る。
友達でもなければ、恋人でもない。
なのに、誰よりも親密で、甘くて……おかしな二人だよな。
それが、今の甘えた俺と君の、名前のないカンケイ。
下駄箱で上履きに履き替え、階段を二階へと上がる。
踊り場を曲がり、見慣れた教室のプレートが目に入ると、ようやく乱れた呼吸が整ってきた。
ふう。やっとここからは、いつもの日常だ。
教室の扉を開ければ、そこには昨日までと何ら変わらない、平和な世界が待っているはず。九条さんとの、学校での距離感さえ間違わなければ、誰も俺たちを詮索したりなどしない。
そう自分に言い聞かせて、俺は自分が本来いるべき場所へと足を向けた。
一度混ざりあった非日常と日常は、もはや二度と切り離せないのだと、気づきもしないで。
ガラリ、と後ろのドアを開ける。
朝のホームルーム前の、賑やかな喧騒が俺を迎えてくれた。
「うおっ! 蒼! もういいのか?」
俺が自分の席に鞄を置くや否や、待ってましたとばかりに大声を張り上げたのは、やはりこの男。友人の小園 健太である。
こいつの無駄に明るい顔を見ると、少しだけホッとする自分がいて、なんだか悔しい。……悔しいけど、妙に落ち着くんだよなあ。
「見ての通りだよ。骨折だけだと病院には長くいれないんだとさ」
「いやあ、よかったよかった! お前が入院したって聞いてから、俺、心配で夜も八時間しか眠れなかったんだぜ」
「十分寝てるじゃないか」
こっちは昨晩の九条さんのせいで、全然寝れてないというのに。ったく、呑気なもんだよ。
「何言ってんだ、俺には少ないんだよ! 知ってるだろ」
「そんなことまで、知るかよ」
笑い合い、続く流れで健太が俺の背中をバンバンと叩こうとして、ギプスに気づき、慌てて寸止めする。
そんな、いつもの調子で軽口を叩き合っていた時だった。
「水無月くん!」
「あ、水無月くん、来た!」
教室のあちこちから浮き立つような声が上がり、数人の女子生徒が俺の席へと集まってくる。
甘く華やかな香水や柔軟剤の香り。
その圧倒的な『女子』の気配に、健太が分かりやすくドギマギしているのが伝わってくる。普段あんなに女子女子言ってる割には、存外情けない。
なんだなんだ? 一体何が起きている?
最初に声をかけてきたのは、高階さんで。
ナチュラルメイクと緩く巻かれた髪が特徴的な彼女は、ぶっちゃけ九条さんがいなければ間違いなくクラスの頂点に君臨していたであろう存在。カースト上位まちがいなしだ。
しかも、それはクラス単位ではなく、学年全体を通してである。
「水無月くん、大丈夫だった? 事故に遭ったって聞いて、すごくびっくりしたんだけど」
……どういうことだ?
集まってきたのは、普段、クラスの端っこにいる俺とは接点なんて皆無なはずの、所謂『一軍』の女子たち。
こっちは放課後となればバイトや家を理由にさっさと帰宅するし、仮につるんでも相手は健太だけという。そんな俺には、縁遠い存在だと思っていたのに。
まぁ、俺の方も興味なんてなかったけどさ。
それにしてもおかしい。どうしてこうなった。
「そうだよー。なんか大怪我だって噂だったし、本当に心配したんだから」
続いて、隣にいた長谷川さんまでも、心配そうに眉を下げて俺を覗き込んでくる。
長谷川さんは少し童顔なくせに、その……胸が随分と大きい。
覗き込むような動作に合わせて、ブレザー越しの豊かな双丘が、たゆんと重たげに揺れるものだから、どうにも目のやり場に困ってしまう。
悪気がないのは分かっているけど、こういう無自覚な距離感。
俺は正直、苦手だったりする。
はは、我ながら馬鹿なことを……。
『無自覚な距離感』というなら、もっと上がいたじゃないか。九条何某さんが。あっちの方がよっぽどタチが悪くて、心臓に悪くて……そして、どうしようもなく綺麗で、可愛い。
どの口が「苦手」だなんて言っているんだか。
自分の現金さに、思わず自嘲混じりの苦笑が漏れてしまうよ。
「ありがとう。ごめん、心配かけて」
この苦笑が良い具合に作用したのか、俺の言葉はそれなりに落ち着いて聞こえたらしい。
すると、高階さんが俺の両腕のギプスを見て、痛ましそうに、けれどどこか含みのある瞳で言った。
「ギプス、痛々しいね……。でも、顔が無事でよかったわ」
「いや、高階さん、その感想はおかしいって!」
健太が横から正論で突っ込むが、彼女はお構いなしの様子。
「えー? だってお見舞いにも行けなかったし。それにほら」
高階さんは、さらに一歩踏み込んで、俺の顔をまじまじと覗き込む。それこそ値踏みするように、艶っぽく笑いながら。
「水無月くんって、よく見ると結構整った顔してるじゃない? ……『隠れ優良物件』の匂いがするのよね」
「……は?」
高階さんのあっけらかんとした言葉に、俺は呆然とする。それはどうやら、隣の健太も同様らしい。
周囲の女子たちが、それに同調するようにざわめき始めた。
「あー、確かに」
「言われてみれば、背も高いわ」
「成績もいいのよね」
「普段、静かすぎて気づかないけど、素材はいいかもー」
くそ、言いたい放題じゃないか。……勘弁してくれよ。
俺の心の叫びが天に届いた、わけではないだろうけど。ガラリ、と教室のドアが開き、担任の吉岡先生が入ってくる。
若くて、とりわけ美人。その上ノリが良いときている。男子生徒からの人気は絶大な先生。健太のテンションも俄然上がるというもの。
そんな先生の、親しみやすい軽快な足取りとは対照的な──音もなく、けれど凛とした空気を纏った彼女が、そのすぐ後ろに続いている。
「あ、九条さんだ……」
「朝から眼福」
教室の空気が、一瞬で塗り替わる。
さっきまで俺を囲んでいた高階さんたちの視線も、磁石のように入り口の『本物』へと吸い寄せられていく。やはり、格が違う。
そこにあるだけで空気を支配する、絶対的な美貌と佇まい。
吉岡先生は教壇に立つと、パン、と手を叩いて注目を集めた。
「はーい、みんな席について。ちょっと早いけど、大事な連絡があるから聞いてくれるかな」
先生の言葉に、高階さんたちが名残惜しそうに俺の周りから離れていく。
どうやら、助かった……のか? いや、九条さんが先生と一緒にいる時点で、まだまだ一波乱ありそうな予感がするけど。
「じゃあ、また後で水無月君」
しかも、こちらも終わっていなかったようだ。
不穏な予告を残して席に戻る高階さんに、戦慄している暇はない。




