第29話 他に何もいらないのに
駅のホームは、朝のラッシュアワーを迎える学生とサラリーマンで溢れかえっていた。
東京の何が辛いって、間違いなくこれだよな。
「うわ、今日もすごい人だな……」
「朝はいつも、こんな感じよね」
やがて、半蔵門線直通の電車が、耳をつんざくブレーキ音と生温かい風を巻き起こしながら、ホームへと滑り込んでくる。
プシュー、という排気音と共にドアが開いた瞬間。降りる人の波と、乗ろうとする人の波が、激しくぶつかり合った。
「水無月くん。乗るから、こっちきて」
彼女は、人の隙間を縫うように、慣れた様子で先に車内へと滑り込む。俺も、その華奢な背中に導かれるように慌てて続いた。
だが、俺が乗り込んだ瞬間、背後から、さらに乗客がなだれ込んでくる。
「ぐっ……くそっ!」
人の波が、俺の怪我をした腕と肋骨を容赦なく圧迫する。身を襲う、突き抜けるような痛み。思わず顔を歪め、うめき声を漏らしてしまう。
その時だった。
先に乗り込み、ドア横の手すり付近──あのわずかなスペースを確保していた九条さんが、唯一ダメージの無い俺の左腕を、強く引いた。
彼女は至近距離でくるりと身を翻すと、自分と位置を入れ替えるようにして、俺をその『安全地帯』へと滑り込ませたのだ。
それは、混みあう車内で一瞬だけ起きた、美しい君との舞踏のような一幕。彼女自身が、俺と他の乗客との間の『壁』になるように、立ってくれたのだ。
分かりやすく言うと、壁ドンならぬ、逆ドアドン。
──近い。
正直言って、これはかなり近い。
問答無用の満員電車の圧が、互いの顔を、その体を、容赦なく近づけるから。
すぐ目の前に、彼女の整った顔立ちが迫る。
黒縁の眼鏡越しでも分かる長い睫毛。押し付けられる、彼女の柔らかな感触と、己の首筋にかかる甘い吐息までもが。
痛みなんて吹き飛ぶほどの情報の洪水が、俺の意識を何もかも全部、持っていってしまいそうになる。
これは天国か、それとも新手の拷問会場か。
俺は、このいたたまれない空気をどうにかしたくて、彼女の耳元へ顔を寄せ、周囲に聞こえないよう声を潜めた。
「……そういえば、九条さん。さっきのお弁当だけどね」
「うん」
彼女もまた、俺に合わせるように小声で応じる。
その吐息混じりの声が、鼓膜を直接くすぐるようで、余計に心臓に悪いだなんて思いもしなかった。
気を紛らわせようとして、自ら墓穴を掘っただけという。
「あれ、そのまま出したら絶対、健太とかに聞かれると思うんだよ。いつもと違うって」
俺の昼飯なんて、大抵購買のパンか、前日の残り物を適当に詰めただけの弁当が関の山だもんな。まあ、玉子とウィンナーくらいは焼くけどもさ。
それがある日突然、あんなお洒落なランチバッグ形態へと進化していたら、不自然極まりないだろ。
「適当に、誤魔化しておいた方がいいかな?」
そう提案するも、彼女の反応は、俺の予想とは少し違っていて。
彼女は、黒縁の伊達メガネの奥の瞳をすうっと細める。それから、何かを企むように、口元だけで微笑んだ。
「ううん、嘘はつかなくていいわ」
「え? でも……」
「考えていることがあるの。……それが上手くいけば、何も心配しなくても大丈夫だから。ね?」
「考えていること……?」
「ええ。だから、学校に着いたら楽しみにしていて」
彼女はそれ以上語らず、意味深に言葉を濁すのみ。
大丈夫、とはどういうことなんだろう?
まさか、「私が作りました」と公言するつもりなのだろうか。いや、そんなことをすれば、それこそ学校中で大騒ぎになる訳で。
彼女の真意は、相変わらず読めない。
けれど、その自信ありげな横顔を見ていると、不思議と、「まあ、彼女が言うなら大丈夫か」と思えてしまう自分がいた。
俺は、密着した彼女の体温に翻弄されながら、ただ首を傾げることしかできなかった。
そうして、長いようで短かった十数分が。
密着という名の拷問(またの名を天国)が終わりを迎える。
電車が表参道駅に滑り込み、ドアが開いた瞬間。
背後の人波が一気に雪崩れ込み、俺たちはその圧力に抗う術もなく、ホームへと弾き出された。
「はぁ……。九条さん、ありがとう。助かったよ」
乱れた呼吸を整えながら礼を言うと、彼女は、ズレた眼鏡の位置を指先で直しながら、柔らかく微笑んでいる。
「ふふ、どういたしまして」
その笑顔を、至近距離で浴びて。
俺は自分が彼女に、どうしようもなく惹かれ始めている事実を、改めて自覚させられていた。
混み合う駅の改札を抜け、地上への階段を上ると、そこには、日本有数のファッショナブルな大通り『青山通り』が広がっている。
ここが俺達の学校への道でもあった。
朝日を浴びて輝く、芸術的なフォルムの複合文化施設『スパイラル』。その斜向かいには、鋭角的なガラス張りの外観が、青空を突き刺すようにそびえ立つ『Aoビル』がある。
俺はそのビルを見上げながら、ついこぼしてしまった。
「……あそこの『Aoビル』さ。名前が似てて、皆が声に出すたびに何だか恥ずかしいんだよな」
「ふふ。水無月くんも?」
彼女は黒縁の伊達メガネの奥で、可愛らしく目を細めている。
「わかるわ、それ。私も、自分の名前を呼ばれてるみたいで、なんだか少し、くすぐったいもの」
蒼(Sou)と、葵(Aoi)。
読みは違うけれど、偶然似てしまった名前と、あのビル。
そんな些細な共通点を見つけて笑い合う、この穏やかな時間が心地いい。
このまま、普通の高校生みたいに、他愛のない話をしながら学校まで行けたなら、どれだけ幸せだったろう。
──けど、現実は非情なんだ。
学校に近づき、同じ制服を着た生徒たちの姿が増えるにつれ、周囲の空気がざわつき始める。
「……ん? あれ、もしかして」
「え、嘘。九条さんじゃない?」
すれ違いざま、あるいは背後から。
ひそひそとした囁き声が、さざ波のように広がり、鼓膜を刺していく。
チクリと痛み始める心。
野暮ったい伊達メガネに、流行りに逆行する長めのスカート。
完璧な『武装』のはずなのに、彼女が生まれ持つ気品は、布切れやレンズごときで隠しきれるものじゃないらしい。
「ほんとだ。うわ、眼鏡かけてても美人……」
「ていうか、おい。あの隣のやつ誰だよ」
「彼氏? いやまさか。あの九条さんが」
探るようにうろつく、好奇の視線。
値踏みするような声。
関心という名の断罪が始まる。
彼女への憧憬と、その隣を歩く俺への明確な『異物』扱い。
さっきまでの『名前の共有』という温かい空気は、冷たく無遠慮な好奇によって、瞬く間に冷やされていく。
そうか。ここはもう、二人きりの『あの家』でも、密だった『電車の中』でもなかったか。彼女は『高嶺の花』で、俺はただの高校生。有象無象の一人に過ぎない。
俺が隣にいることで変な噂が立てば、彼女の完璧な経歴に泥を塗ることになるかもしれない。
なら、せめて今の俺にできることは──
やがて、青山通り沿いに、学院が誇る見事なイチョウ並木と正門が見えてきた頃。俺のくだらない自尊心が、本当にくだらない決断を下してしまう。
愚かな、若さゆえの過ち、か。
「く、九条さん!」
「え?」
「ごめん! 俺、やっぱり先にいくね。君の迷惑になるのだけは、耐えられそうにないから!」
言い訳がましい言葉を早口でまくし立てると、俺は返事も待たずに駆け出した。ギプスの腕を庇いながら、無様にアスファルトを蹴る。
逃げるように。
九条 葵の隣という、不相応な特等席から。
……俺は、本当に、馬鹿で愚かだ。
彼女が一度でも、迷惑と言ったか?
そんなことにも、気づかない。考えが及ばない。
◆ ◆ ◆
遠ざかる彼の背中。
その不器用な足音が、朝の喧騒に紛れて消えていく。
鮮やかな新緑のイチョウ並木の下。
行き交う生徒たちの波に逆らうように、彼女だけが、時を止めた彫像のように立ち尽くしている。
誰もが振り返る、その美しい立ち姿。
風が、彼女の長いスカートをふわりと揺らし、黒髪をほんのりと遊ばせた。
黒縁眼鏡の奥。
走り去った彼の背中を見つめるその横顔に浮かぶのは、怒りでも、呆れでもない。
ただ、どうしようもないほどの愛おしさと、胸を締め付ける寂しさだけが、静かに滲んでいる。
彼女は、誰にも聞こえない声で、空に問う。
「God, how many more times will you forgive me?(神様、あと何回許してくれるの?)」
あの日、あなたが私にくれた、あの笑顔が。
何気ない、たくさんの言葉たちが。
孤独な闇にうずくまっていた私に、もう一度生きる意味を──踏み出す勇気をくれたから。
星が見えない、漆黒の夜も。
風が冷たく吹きすさび、心が凍えそうな日も。
冷たい雨が、容赦なく肌を突き刺す時でさえも。
あなたが傍にいる。
ただそれだけで、私はどこまでも強くなれるの。
……蒼くん。
九条葵は償いたい ~その献身には理由がある~
─ 第二章、突如始まる、秘密で甘い同居生活、完 ─
~あとがき~
第29話、そして第二章『突如始まる、秘密で甘い同居生活』、最後までお読みいただき本当にありがとうございます。作者の神崎 水花です。
さて、次回からはついに第三章がスタートします。
舞台はいよいよ学校へ。衆人環視の中、九条さんのアプローチは加速していくのか。
家ではデレデレ、学校ではクールな姿となるのか。ぜひご期待ください!
ここまでの物語を「楽しかった!」「続きが気になる!」「九条さん可愛い!」と少しでも思っていただけましたら、ぜひ下の「☆☆☆☆☆」を「★★★★★」に変えて、本作を応援していただけると執筆の励みになります。
ブックマークや感想も、どうぞお気軽に。それでは第三章でお会いしましょう。




