第28話 初めて見る朝の風景
「そうなんだ。じゃあ俺も用意を急ぐとするかな」
そうだよな、一緒に生活しているんだ。別々に家を出るなんておかしな話さ。まだ半分寝ている頭で、そんな当たり前のことに遅れて思い至る。
「一緒にいってくれるの?」
「うん」
蕾がゆっくりと開くように、優しく微笑む彼女。あまりにも計算のないその笑顔が、何だか無性に照れくさくて、いてもたってもいられず、
「ね、眠気覚ましに、顔でも洗おうかな!」
捨て台詞のようにそれだけを言い残し、逃げるように洗面所へと向かった。
洗面台のレバーを上げ、あふれ出る水に顔を埋める。
冷たい水が、昨夜の非現実的な記憶と、たった今見せられた極上の笑顔で沸騰したままの脳を、強制的に冷却していくような感じ。伝わるだろうか。
それから鏡の前で、寝癖で跳ねた髪を必死に濡らして直した。
そうして、歯を磨こうと、備え付けのコップに視線を移して理解する。
そこには、昨日まで無かったはずの、真新しい青い歯ブラシが一本、彼女のものと並んで立てられている。それはもう、仲睦まじく、ね。
彼女が、──九条さんが強引に、こうして俺の日常に飛び込んできてくれたから。
そのお陰で、俺の、あの色褪せていたはずの日常は、あまりにも強烈な光を放つ日々へと変わり始めていた。それはもう、直視できないほどに眩しく輝いて。
鏡に映る自分の顔がどうにも、にやけるのを止められないでいる。
並んだ赤と青の二本が、どうしようもなく嬉しくて、同時に、とんでもなく恥ずかしいと知った。
冷水で冷やしたはずなのに、もう耳まで熱くなっていくのが分かる。
顔を洗い終え、髪の毛を整え終わると、彼女が待つリビングへと戻る。
足取りは少し軽い。
昨日、彼女が用意してくれたあの、新品の制服に袖を通していく。まだ糊が効いているためか、少し硬い感触が妙に心地いい。
自然に気持ちまでシャキッとしてくる。
だけど、ギプスと添え木が邪魔で、着替えるのにも一苦労だったり。
いつもごめん、九条さん。そして、ありがとう。
「水無月くん、朝ご飯にこれ、どうぞ」
「ありがとう。頂きます」
そう言って差し出されたのは、昨日までの食卓を決して裏切らない、お洒落なグラスに入った緑色のドロドロとした液体で。
そう……スムージーってやつだと思う。
ふぅ、所謂、意識高い系『美人メシ』というやつだね。
ようし、あふれる葉緑素で、今日も光合成を頑張るぞ!
──って、なるか!
さりとて彼女へ文句を言うわけにもいかず、俺は覚悟を決めて、その飲みづらそうな濁った緑色の液体を一口、口に含んだ。
「……あれ? 意外と美味い?」
見た目の青臭さとは裏腹に、バナナの甘みがしっかり効いていて、驚くほど飲みやすい。
むしろ、果実の風味が爽やかでさえある。
その予想外の美味さに、心の警戒が一気に緩んでしまったのか。俺はグラスを傾けながら、つい、胸の奥にあった本音をぽろりと漏らしてしまう。
小さな、やらかし。
「とても美味いけど、やっぱり緑かぁ」
俺のその一言に、彼女は「え?」と、少し不安そうに目を瞬かせる。
「野菜、好きって聞いた気がして、その、嫌だった?」
野菜好きだなんて、言った覚えあったかな。
記憶にないけれど、まぁ、いいか。別に嫌いではないし。
「ううん。始めて飲んだけど、とても美味しくて逆に驚いたよ。ただ」
俺は、少し気まずそうに付け加える。
「ただ、たまには肉っ気が欲しいな、なんて思ったり」
「ご、ごめんなさい!」
彼女は、ハッとしたように両手を合わせた。
「そうよね。育ち盛りの男の子なのに……つい、私の普段のメニューで」
完璧な彼女が、心の底から申し訳なさそうに、しょんぼりと俯いている。
俺のたった一言が、こんなにも彼女の心を揺さぶるのか。あの、鉄壁の九条葵が……。
ああ、やってしまった。
彼女の笑顔を、俺の手で曇らせてしまうなんて。
そんな彼女を励ましたくて、つい口から飛び出た軽口が、こんなだったんだ。
「じゃあ毎日続けたら、俺もモデルになれたりして?」
「ふふ、もう、ほんとに……」
その口元には、いつもの困ったような、でも優しい笑みが戻っていた。
俺は、肉への渇望を心の圧力なべの奧底にぎゅっと押し込め、その健康的な朝食(?)を、覚悟と共に受け入れた。
いや、味は美味しいんだよ。これは本当。ただ色が凄いだけで。
食後の片付けも「怪我人だから」と彼女に押し切られ、俺はぼうっと、九条さんがテキパキと動く姿を眺めることしかできないでいる。
やがて、全ての準備を終えた彼女が、キッチンカウンターに置いてあった、シンプルな黒いランチバッグを手に取った。
「はい、これ、水無月君の分」
「え……、これ、俺のなの!? うわ、ありがとう」
受け取った手にずしり、と伝わる、確かな重みが嬉しかった。
これ、あの、九条 葵の手作り弁当なんだぞ、と。
でも……、喜びと同時に、新たな激しい問題が浮上する。昼休みに、親友である健太に聞かれたら、一体何と答えればいいのだろう。「九条さん特製のお洒落すぎる弁当」とは、言えないよなあ。
一難去って、今度は教室に嵐を呼ぶ予感のする朝だった。
そんな新たなる悩みを抱えつつ、俺たちは二人で部屋を出る。
静かなエレベーターに揺られ、朝の光が差し込むエントランスを抜けて、二子玉川の駅へと向かう。
その道すがら、隣を歩く彼女は、俺が昨日まで知っていた『九条 葵』とは、どこか違って見えた。
彼女を構成する要素が、徹底して華やかさを殺しているんだ。
目元は、生まれ持った完璧な美貌をあえて封じ込めるかのような、黒い縁の大きな眼鏡が隠し。皆と同じ、聖諒学院の制服なはずなんだけど、スカートの丈が、流行りに逆行するように長いときている。
そして、鞄か。お洒落なブランド物ではなく、俺が持っているのと同じ、何の変哲もない、あの学校指定の鞄なんだ。
へぇ……これが、九条さんの通学スタイル?
真面目、というかなんというか。ひと昔前の、まるで学級委員長のような出で立ちだよな。
俺の知らなかった彼女の一面が、そこにあった。
「……意外だな、九条さん。もっとこう、通学時にお洒落とか気にしてるのかと」
俺が素直な感想を口にすると、彼女は、黒縁の眼鏡の奥で、わずかに目を伏せた。
「うちの学校、大学が併設されてるでしょう? あまり、目立ちたくなくて」
「目立ちたくない? 九条さんが?」
その言葉は、少し意外だった。モデルもしている君が?
彼女はさらに声を潜めて、付け加える
「……それに、ナンパとか痴漢も、いやでしょう?」
──なるほど、そういうことか。
俺の中で、全てが繋がる。彼女は、わが聖諒学院高等部が誇る『高嶺の花』であると同時に、守りの術を持たない、一人の普通の女性なんだ。
日々、向けられる無粋で無遠慮な視線や、現実的な危険。
この地味な装いは、彼女が自分自身を守るための……痛々しいまでの、『武装』であり、切実なまでの『処世術』というわけ。
俺が思っていた真面目とは、全く違う次元のものだった。
その事実に、俺は何も言えなくなる。
ただ、何かの衝動に突き動かされるように、彼女を守りたくなって、ほんの少しだけ車道側を歩いてみる。俺の小さな意識、改革。




