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九条葵は償いたい ~その献身には理由がある~  作者: 神崎水花
第二章 突如始まる、秘密で甘い同居生活

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第27話 煩悩即菩提 生死即涅槃

 多摩川のほとりに静かに佇む、お洒落なデザイナーズマンション。

 中に入れば期待通りにモダンな部屋で、美しい彼女が作る食事も、優雅に淹れてくれた香りの強いお茶も、入浴のひと時さえもが全て意識の高い、まさに九条 葵ならではの世界、だった。

 なのに。

 閉ざされた扉の向こう、この寝室だけがどうしてこうなった!?

 ここだけ、完全なる異世界(ファンシー)ではないか。


 俺は、大小様々な『おやすみクマー』のぬいぐるみに包囲・監視され、あまつさえ彼女の甘い匂いが充満するベッドに横たわりながら、このシュールレアリスムな空間を必死で理解しようとしていた。

 

「今までの流れで言えば、普通ここはモノトーン一択だろ?」

「違うのか? 俺が間違っているのか?」

「どうすれば、寝室だけクマー牧場になるんだよ」

「右向いても、左を向いてもクマー(お前)しかいねえ!」

 

 だが、その試みは失敗する。

 心の叫びが、次々と口から漏れ出て止まらない。

 視界の全てが黄色くて。

 なんだこの、脱力する光景は。

 

 ……もう、ツッコむ気力すらなくなってきたよ。

 今日は色々なことがありすぎたから。何せ、寝ようという時までこんなだし。

 第一、俺は怪我人なんだぞ。病み上がりの身には、色々と刺激が強すぎるんだよ。

 もっと、お手柔らかにしてくれよ……。

 頼む、よ……。

 

 視界を埋め尽くす黄色い相棒(?)たちの、妙な安心感。そして、寝具から漂う、好きな彼女の甘い香りに包まれて、俺の意識は急速に沈み始める。


 好きな、のは……匂い、だか……ら、な……。


 思考が、温かい水の中にゆっくりと溶け、散らばっていく。

 現実と夢の境界線が曖昧で、もう、ほとんど分からない。


 カチャリ、と。

 遠くで、扉が開く音がした、そんな気がした。

 俺の意識は、深い霧の中を彷徨っている。

 ベッドがわずかに沈んで。誰かが隣に入ってきたことを、その柔らかな重みが知らせてくれる。


 九条さん、か……。

 

 本来なら、心臓が早鐘を打って眠れないはずのシチュエーション。

 けれど今はもう、何も感じない。

 ただ、このまま心地よい暗闇へと落ちてゆくだけ。

 

 俺は、寝ぼけたまま、うっかりと彼女の方へ寝返りを打った。

 重い瞼を、僅かにこじ開ける。ぼんやりとした視界。

 すぐ至近に、彼女の顔があるような気がした。

 薄闇に浮かぶその瞳が、静かに俺をじっと見つめている。


「君は、きれい、だ……」


 夢か、(うつつ)か。

 霞んで滲む視界にうっすらと映るのは、さっきまでの姿じゃない。


 しなやかな肢体にフィットした灰色の、布地。

 その縁に見える、あまりにも有名な英語二文字のロゴ。


 まだ浮上しない濁った意識の中、俺の視線は夢の中を彷徨うように、ゆっくりと上を向く。

 薄い布一枚越しに伝わる、柔らかな胸のふくらみ。


 ……なんて、やわらかそうなんだ。

 

 今度は、吸い寄せられるように、視線が下へと滑り落ちてゆく。

 滑らかな、陶器のような肌。完璧すぎる腰の括れ。そして、そのロゴが縫い付けられた灰色の布地が、彼女の下腹部で描く、浅いV字のライン。


「やっぱり、きれい、だ……」

 

 意識が途切れる直前にも感じた、君への飾らない素直な感想。

 それが再び脳裏をよぎり、吐息と共に、無意識に唇から零れ落ちていた。

 いいんだ……ここは、幻。

 現ではないのだから。

 

「蒼くん……ありがとう」


 俺の独り言に合わせるように鳴った、震える微かな声。

 そのあまりにもリアルな『音色』が、俺の脳を強制的に覚醒させてゆく。

 

 ──待って。

 今、俺が見ていたものは、何? 夢じゃ、ないと?

 現実の九条 葵。灰色の上下の君?

 

「な、な、な……!?」

 俺の脳が、数秒遅れて全ての現実を処理した瞬間。

 まさに、ベッドから転げ落ちんばかりの勢いで、弾かれたように飛び起きた。

 

「な、なんで下着なのさ!」

「え?」

 俺のあまりの狼狽ぶりに、彼女は一瞬だけ驚いたように目を見開いた。

「え、だって、寝るときはいつもこうだから」

「い、いつも!?」

「うん。モデルの仕事をしてると、パジャマのゴムとかで肌に変な跡がつくのがダメなことがあって……これが一番、楽なの」

 

 彼女はそう言うと、身を震わせながら、

「……ごめんなさい。驚かせた?」と、小さく謝った。

「う、うん……とても」

 

 俺が、布団を抱きかかえたままベッドの(へり)で固まっていると、彼女は、寒そうにそっと自分の肩を抱いた。


「あ、あの……水無月くん」

「な、なに!?」

「その……布団を戻してくれないと、さすがに、私も、恥ずかしいのだけど……」

「っ……!?」


 その言葉で、我に返った。

 そうだった、俺は驚きのあまり……掛け布団を独占してしまって、いた。

 そうなると当然、目の前の彼女は、あのあまりにも無防備な下着姿のまま、ベッドの上に晒されているわけで……!


「ご、ごご、ごめん!!」


 俺は慌ててベッドに潜り込むと、彼女に背を向けて、ベッドの端ギリギリまで移動する。

 そして、抱えていた布団を、バサッと彼女の方へと押しやった。

 もうダメだ。

 寝ぼけていたとはいえ、彼女のあの姿を、マジマジと見てしまった。

 

 湧き上がる恥ずかしさと、さっき網膜に焼き付いた光景のなまめかしさで、彼女の方へ顔を向けることなんて、到底できそうにない。


「そっち、絶対に見ないようにするから。本当ごめん」

 それが、今の俺にできる最大限の紳士的な抵抗。

 ヘタレな自分だからこその選択、とも言えるけど。

 

 布団が擦れる、かすかな音まで拾ってしまう自分の耳が憎い。

 彼女が、俺の押しやった布団に、ゆっくりと潜り込んでくる気配。

 マットが柔らかく沈み、背中にじんわりと伝い始める熱が、彼女の実在を嫌でも教えてくる。

 やがて、その動きが止まり。

 静かな声が、俺の背中に突き刺さった。


「ううん、全部見ていいと言ったから」


「うぇっ……!」


 カエルが潰れたような、変な音が俺の喉から漏れた。

 この女性(ひと)は、今なんていった? こっちは、なけなしの理性を総動員して、必死に抗ってるんだぞ!?

 もう知らん! 無理だ! 無視だ、無視に限る!

 そうじゃないと、俺の身が持たない。


 背中越しに伝わる、彼女の気配。

 部屋に満ちる、甘くて蕩けそうな芳香。そして今も耳に残る、あの破滅的な言葉の数々よ。

 ああ、もう。

 こんな状態で、寝れるわけがないよ。


 ◇  ◇ ◇

 

 ピピピピッ。ピピピピッ。

 枕元で、無機質なアラームがうるさく鳴り響いて、少し機嫌が悪くなる。

 揃いの真紅なスマホに手を伸ばして、アラームを止めた。

 

 寝たのか寝ていないのか。

 結局、一睡もできなかったような気もするし、泥のように眠っていたような気もする。

 妙にすっきりしない頭を抱え、俺はリビングへと向かった。


 すると、そこには既に完璧に用意を整えた九条さんが、麗しく立っている。

 昨日とは違う日常の始まり。そんな予感。

 清潔な白いブラウス姿の彼女が、、朝の光の中で眩しく微笑む。

 

「あ、水無月くん、おはよう。丁度よかった、いま起こそうと思ってたところなの」

「……おはよ。随分と早いんだね」

 壁の時計は、まだ六時を過ぎたところ。

 

 彼女はエプロンで手を拭きながら、少しだけ言い淀む。それでも最後は、はっきりとした口調で告げた。

「うん、今日はちょっと学校に早く行かないといけなくて」

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