第26話 again
思考は、その甘美な一言で完全に焼き切れた。
視界が白く染まる。
もはや赤面などという生温い言葉では表現に足りない。
全身の血液が沸騰し、逆流するみたいに。
十代の、未完成な心と体を襲う、どうしようもなく激しい熱が、俺の内側で猛りくるって爆発してしまいそうになる。その悪魔の如き囁きに、正直に、あまりにも馬鹿正直に反応してしまう体が辛い。
鏡に映る、湯気に濡れた憧れの君の。
湿った黒髪から、一雫、また一雫と水滴が滑り落ち、滑らかな白磁の肌を伝うのを見て。俺もあの雫になりたい。なんて思ってしまう。
あまりに稚拙で、くだらない夢想。
でも、それが全男子生徒の焦がれであり。そのタオル一枚の先の果てしない夢でもある。
──その、憧憬の先へ至れるなら。
理性と本能が、火花を散らして激突し、俺の脳を強烈に焼き焦がしてゆく。
「ほ、本当に……見せてくれ、るの?」
情けないほど、声が上擦った漏れ出た本音。
目の目に大量の湯があるというのに、喉がカラカラに乾いてしまって、息をするのも忘れてしまいそう。
「そう、……あなたが望むのなら」
二人がいる鏡越しの世界。
湯気で曇ったその中で、彼女の濡れた瞳だけが真剣に俺を射抜いている。
そこに、嘘や戯れの色は一切ない。
嘘だろ……。
本気なのか……?
「ま、またまた……、からかって……」
乾いた笑い声を、無理やり喉から絞り出す。
そうだ、そうに決まってる。これは、さっきの『ゲーム下手くそ』の意趣返しだ。そう、ただの質の悪い仕返しに違いないんだ。
「からかってなんて、ない」
けれど。彼女はそう静かに呟くと、俺の背後で、ゆっくりと立ち上がった。
ポタ、と。彼女の肢体から滑り落ちた雫が、水面を叩く音が響く。
鏡の中で、彼女の白く細い指が動く。
その指先が、胸元のバスタオルを留めている緩い結び目に、そっと、手を掛けた。
「わ、わわわ、待って! わかった! わかったから!」
自由な左手を鏡に向けて、ぶんぶんと振り回した。
見たがる本能を、理性が全力で殴りつけてるみたいに。
「そりゃ、見たいさ。見たいに決まってるだろ! 俺だって男なんだぞ! でも、いい! いいから座ってくれ!」
あまりにも情けない十代の叫び。格好良さの欠片もない。
けれど、その効果は絶大だった。彼女は、ぴたりと指の動きを止める。
恐る恐る、薄目を開けてみる。
湯気で曇った鏡越し。そこには、さっきまでの詰め寄るような真剣な顔は、もうどこにもなかった。
くしゃり、と。
今にも泣き出しそうでいて、それでいて心の底から嬉しそうな。見たこともないような満面の笑みを浮かべた九条さんがいて、俺はもう、訳がわからなかった。
「ふふ……」
彼女は、そのアンバランスな笑顔のままに、もう一度俺の後ろにそっとしゃがみ込む。そして、熱い吐息がかかるほどの距離で、俺の耳元に囁いた。
「Seriously. I'll do anything you want.(本当よ、望むなら何でもしてあげる)」
「But thank you.(でも、ありがとう)」
「I'm happy to fall in love with you again.(また一つ、あなたを好きになれて嬉しい)」
今の俺に分かるはずもない外国語のフレーズが、浴室に甘く反響する。
艶めかしい唇から紡がれる、散りばめられた無数の言葉たち。その中のたった二つ、『ありがとう』『嬉しい』くらいしか聞き取れなかった。
だけど、その声は感謝しているにしては、なぜか、微かに震えていて。
本気でタオルを取ろうとしていたくせに。
俺が必死で止めたら、あんなに嬉しそうに泣き笑いして。
求めなかったことに、心の底から安堵したような、そんな表情も見せた。
女心というのは、あまりにも複雑すぎる。
複雑を通り越して、もう怪奇だよ。
俺は、再び優しく再開された彼女の洗髪に身を任せながら、ある『ことわざ』の意味を、違う解釈で噛み締めていた。
──逃がした魚(裸)は大きい。
二度とお目にかかれない機会を、自らの手でリリースしてしまった大馬鹿野郎なのではないか? ……やっぱり、見たかった、よな。正直。
先に浴室から上がった俺が、リビングで(まだ沸騰している思考と、特大の後悔を抱えたまま)呆然としていると、やがて彼女もバスローブ姿で戻ってきた。
夜も、もう随分と更けている。
時計の針は、とっくに十一時を回っていた。
「ふぁ……」
緊張の糸が切れたのか、俺の口から、どうしようもなく大きなあくびが漏れた。
なんだか、色々なことがありすぎた。
病院の退院から始まり。そういえば、パスタの件もあったな。それから、自分の部屋での掃除と合い鍵に……極めつけは、あの風呂での大事件か。
一事が万事、大騒ぎしすぎたせいもある。
「なんだか、今日は疲れたよ。そろそろ休もうかな」
「そうね。それがいいわ」
彼女はそう言うと、俺にローテーブルの上のリモコンを渡してくれた。
見ていたテレビを、そっと消す。
「えっと、九条さん。俺は、ソファーで寝ればいいのかな?」
この、高級そうな革張りのソファなら、ベッド代わりにも十分なりそうだし。
「え? どうして?」
彼女は、心の底から不思議そうに、小首を傾げている。
「どうしてって……。九条さんの家、どうみてもこのリビングとあと一部屋。あとはウォークインクローゼットしかないよね? あれは、たぶん九条さんの寝室だろうし」
「そうだけど、一緒に寝ればいいじゃない」
「いや、さすがにそれは」
「ダメよ。そんなのじゃ疲れも取れないわ。怪我人は、ちゃんとベッドで寝るべき。いい?」
来た。有無を言わさぬ、静かなる圧力。
……これだ。
彼女に理詰めでこられると、俺は本当に勝てる気がしない。
受け入れたい本能があるから、猶更だよ。
「……わかった。先に行っとくね」
「おやすみなさい。私も後で行くから」
俺は、彼女に促されるまま、廊下の先にある彼女の寝室のドアノブに手をかけた。
……ヤバいぞ、これは。
合い鍵をもらった時とは、また違う種類の緊張が走る。
この先は、あの『高嶺の花』たる彼女の、究極のプライベートエリアだ。
しかも、一緒に寝るときたもんだ。
「お、お邪魔します……」
俺は、場違いにそう呟くと、ゆっくりと扉を開ける。
ふわり、と。
リビングよりも、もっと濃密な、彼女自身の甘い香りが鼻腔をくすぐるから、眩暈しそうになる。
そして、俺は衝撃の景色に、その場で固まるんだ。
「……え?」
そこに広がっていたのは、美しいモデルの寝室というイメージからは程遠い、あまりにもファンシーで黄色い空間だったからだ。
ベッドの枕元には身長が二メートルはありそうな、超巨大な『おやすみクマー』が。
足元のスツールには、中くらいのクマー。
棚にも、無数の小さなクマー。
窓辺にまで、ぶら下がりやがるクマー。
部屋が、大小さまざまな『おやすみクマー』で、埋め尽くされ……、いや、これはもう支配と言っていいだろ。俺は完璧すぎる彼女の、完璧すぎる『秘密』を前に、ただ呆然と立ち尽くすのみ。
(困った、クマー)
……言うか! いう訳がないだろ!
脳裏をよぎったフレーズを全力で打ち消し、俺は我慢できず、腹の底から吠えてしまった。
「動物園かここは!」
俺の咆哮的ツッコミは、廊下の向こうで成り行きを見守っていた九条さんの耳にも、バッチリ届いたらしい。
バタバタ、という、彼女らしからぬ慌ただしい足音がリビングから飛んできた。
「ああっ!? だって、だって、一周回ってもう可愛いって……!」
彼女は、俺が彼女の『聖域』の扉を開け、その中を呆然と見つめている姿を、はっきりと目撃してしまう。そして俺が、あの病院で「一周回って可愛く見える」と半分諦めて言った、あの言葉を。 彼女自身が、必死の抗弁として叫んでいる。
その顔が一瞬で、見たこともないほど真っ赤に染め上がる。
なんなら、先ほどのバスタオル事件の比ではないほどに。
自分の最大の、そして最も愛すべき趣味嗜好を白日の下に晒され、あまつさえツッコまれた彼女は、「あ、あう……」と、意味にならない声を漏らすばかり。
そうして、その場に力なくしゃがみ込むと、真っ赤になった顔を、両手で覆ってうずくまってしまった。
どうしよう。
こんなところで、俺は寝るのか? 寝ないといけないのか?
彼女と、二人で……。
第26話、お読みいただきありがとうございます。作者の神崎 水花です。
「面白かった!」「この後の展開が気になる!」と、少しでも思っていただけましたら、ぜひ下の「☆☆☆☆☆」を「★★★★★」に変えて、応援していただけると嬉しいです。飛び上がって喜びます。
ブックマークや感想も、どうぞお気軽に。次回も、よろしくお願いいたします。




